ニ、刻明けの闇

 ストリートを歩けば、誰もが喜び勇んで笑いあっている。荒れていた大人たちは朝黎ちょうれいの刻から酒瓶を転がし、すっかり臭いに染まった口でガバガバ笑う。

 そこに治安維持の為の警団員が突入し、やめろと指示を出すもののそれは止まらず。むしろその警団員に肩組合わせて、酒盛りに引き摺り込む始末。

 誰もがかつての幸福を取り戻した街の中で、しかしルークは暗かった。

 結局一睡も出来ずに、今の彼は寝不足だ。

 頭の中では常に、昨日の母親の激情が回る。向けられた視線。一度も向けられたことのない敵意。投げつけられるように、初めて掛けられた鋭利な言葉。

 結局そのまま帰ってこなかった、母親の後姿。

 自分が何か嫌なことをしてしまったのかと、怖かった。もしかしたら、いらなくなって捨てたのではと。もう二度と、お父さんのように帰ってこないのではないかと。

 恐怖だけが、ルークの心を支配する。硬く冷たい鉄鎖で縛り付けてそのまま、ギチギチと心臓を締め上げるみたいに。

 ──もう僕は……いらない子……。

 彼には、心当たりがあった。止められたから未遂で終わったものの、ルークはあの時、お客さんであったかもしれない人間を攻撃した。

 教師にはそれは、やってはいけない事だと教わりながら。咄嗟の行動で、人に殴りかかった。

 だからルークは。彼の姉まで巻き込んで。彼には、何をすれば許してもらえるのかなど。


「──くん。──クくん! ────ルークくん!」

 気付けば、目の前には同級生のシノの顔があった。カグラ家の娘の、友達の。

 その友達が、覗き込むようにルークの顔を見ていた。

「……え?」

 周りを見渡せば、周りには同級生のシノとネフィーナとラエルとフェリクス。そして、先生以外に姿はなく。ルークはいつもの夕黎の訓練場で、尻もちを着いて座り込んでいた。

 どうやら、いつの間にか考え込んでしまっていたらしいと反省する。

 ついで、にこやかに笑って見せた。

「あ。あはは、シノちゃんごめんね。ちょっと考え事してたみたい」

 どうすればいいのかも、何をしたいのかも分からない。そんな無駄なことを考えている場合では、なかった。

 ルークが視線を向けた先、同級生の四人が驚いた顔で見返した。驚愕に目を瞠って、口を開けたまま声を失っている。

 それを見て、視線を集めている本人は不思議そうな顔をした。

「? ……どうしたの?」

 自分の顔に何か変なものでも着いているのだろうかと思って、ルークは顔をペタペタと触る。

 結果、何も着いていない。彼にはそう思えた。

 けれど。

 心配そうに、シノが言う。眉が下がっていて、彼女自身も辛そうにして。

「ルーくん……、どうして泣いてるの。つらいことでも、あったの……?」

「え……?」

 言われてルークは驚いた。そして困惑した。泣いている、とは……?

 冷たい石の上、シノがルークの横へ腰を下ろす。寄り添うように、優しい手つきで肩に触れる。

「僕、泣いてないよ……? だっていまは転んでないし、痛くないもん」

 強がりではなく、本気で分かっていない疑問の声。

 シノが背中を撫でる。その様子を見て、ほかの三人も近くに寄った。

 口々に心配の声がかけられる。

「……だいじょうぶ?」

 ルークはいよいよ、困惑を通り越して狼狽した。

 え、なんでこんなに心配されているの……? 僕泣いてないのに……。

 覚醒組五人でもっと強くなろうと、授業が終わった後も教師にお願いをして訓練を見てもらっていた。いつものように機力を纏い、それを維持する練習だ。汎用機装オール・マキナを習得する為の、前の段階の。

 しかしその途中、仲間の一人が突然その場にへたり込んで、静かに涙を流し始めた。

 なぜ泣いているのか。何が悲しかったのか。その理由は四人はもちろんのこと、本人が一番よく分かっていなかった。

 涙を流すルークを中心に困惑の輪が広がる中で、教師──フェルディナントが近くへ歩く。

 目の前で止まり、唐突にルークへと問いかける。

「ルーク君。私が以前言った事を、君は覚えているかね。私の着任時、つまりは初の授業の最後に伝えた言葉だ」

 一聞して、現在の状況とは全く関係の無い質問。慰めるでもなく、泣いていることを自覚させるでもない。

 意図が不明の話を、それでも少し考えて、ゆっくりと頭を振る。周りの四人もルーク同様に覚えてはいないらしく、なんの事だろう、と小首を傾げている。

 その様子を見て、仕方ないかとばかりにフェルディナントは話す。

「何かを成すには、相応の力が要るということだ。誰かを守るのも、自分のやりたいことをやるにもだ」

 それを聞いて、ルークは一人思い至った。虚を衝かれたような気持ちで、表情。

 ──ちから。力。

 その言葉は、今のルークの頭の中にはすんなりと入った。入って、何度も繰り返す。

 ポツポツと、ルークの口から漏れ出る言葉。うわ言のように繰り返され、しかしその度に彼の表情は明るくなっていく。

 何かの天啓を得たというように。暗く塞がっていた道が、今は明るく光に照らされているというように。

 ついには、憑き物が全て落ちきった、みたいな晴れ晴れとした表情でルークは笑った。

「先生、ありがとうございます! 先生のおかげで、いまの僕がやるべき事は何なのかって、ちゃんと分かったよ!」

 それを聞いて、フェルディナントは笑った。

 四人は、急に解決した状況に疑問ばかりが浮かんでいるが、それならそれでいいだろうと、深く考えず一緒に笑う。

「そうか。それは良かった。教師の役目のひとつには、道に迷った生徒に対して道を教えてやる、というのがあるからな」

 未だ幼いルークには、力というものの広義的な概念は分からない。だから力と言えば、イコールで暴力と結びつく。そこに地位や財力などの権力的パワー概念の介在する余地はなく、そもそもから排される。

 だからその結論が行き着く先は、今現在自分が習っている枢基を、もっと強く、もっと高く。もっと速く……! いま、自分が到達できるところまで。

 そんなに大きな力じゃなくてもいい。だけど必ず、力がいる……!

「ぇ、ぁ……よかっ、た……?」

 シノが呆然と呟いた。え、いつの間に解決したの、と驚くような声。

 他の三人は、解決したならいいやとばかりに訓練に戻ろうとして立ち上がる。その時、鐘の音が学校全体へ響いた。リンゴン、リンゴン。

 それを受けて、フェルディナントがいつもの号令。

「ふむ。どうやら今日はここまでのようだな。では諸君らは速やかに自宅へと帰り、また明日に備えてゆっくりと体を休めなさい」

「「「「はーい! ありがとうございました!」」」」

 四人が元気よく挨拶を返す中、ルークは考える。

 お母さんは、何か新しいことをする度に褒めてくれた。優しく頭を撫でてくれた。何かすごいことが出来たら、きっと、もっと褒めてくれる。

 優しく笑って、頭を撫でてくれるに違いない……!

 彼の中に、希望の光が差し込んだ。

 暗かった世界が、今では嘘みたいに明るく見えていた。

「先生、ありがとうございました!」



 薄暮はくぼの時。朝黎から黎明、夕黎と。わずか輝いて少し残るだけになった白の朱の光を、襲い来る闇の紫が喰って散らして暗くする時間。

 等間隔に並べられたストリート脇の街灯が道と街路樹と、過ぎ行く人とを照らす中で。

 ルークとシノは、二人並んで歩いている。つと立ち止まって、今にも泣き出しそうな表情でシノが願う。

「ね、ルーくん。さっきはどうして泣いていたの? なにか嫌なことでもあったの? ……もしそうなら、わたしは……、わたしはルーくんの力になりたいよ」

 熱く、摯実しじつな眼差しがルークの黒の瞳にぶつかった。

 受けて、ルークはたじろぐ。齢六とまだ幼い彼には、誰かから真剣に、それも真正面から好意的な意思を向けられるという経験はしたことがなかった。どうすればいいのか分かららずにルークが戸惑っていると、そのままの様子で言葉が続いた。

「わたし、そんなに弱くないよ。ルーくんの力になれるよ。だから……お願い。わたしを、頼って……!」

 それは純粋な、意志の塊。それ故に強固で頑丈な、誰かを想う願いの。既に残酷な世界の一片を垣間見て知っている、成長著しい少女の優しい願い。

 どこまでも熱く、鋭く尖りを見せる真剣で。けれどどこまでも優しかった。それはちょうど、昨日の狂瀾きょうらんに満ちた母親の態度とは真逆に位置する、思いやる気持ち。

 だからルークは、言いがかった。本当は抱えていた、それでいて自覚もしていた、救いようのない自分の未来。幼いながらに理解してしまっていた、

 だからルークは、言いがかった。

 本当は抱えていた、それでいて自覚もしていた、救いようのない自分の未来。幼いながらに理解してしまっていた、けれど見ないように必死に押さえて蓋を閉ざしていた、その事実について。本音を。不安を。動揺を。混乱を。弱音を。恐怖を。希望を。思惟を。その全てを。


 *もうお母さんは、僕なんてきっと見ていない。*


 幼いが故に飾り気のない、飾らない態度で。糊塗ことのない、真贋しんがんを見極める本心で。

 これまでの姿からは豹変した、あの時の母親の様子を見て。気付いてしまっていた、残酷な、無情な、悲惨な事実。

 もうどうすることも出来ない裂罅れっかの、取り返しようのない情念の。先も見えない、隔絶の。

 心の奥底では、本当は気付いていた恐怖の根本。

 きっと受け止めてくれる、という確信があった。きっと楽になれる、という確信もあった。話を切り出そうという、勇気もあった。

 一緒に歩いてくれたなら。そんな期待も、あった。


 けれど言いかけて、ふと、影を見た。


 それは昨日から帰っていなかった、母親の姿。少しフラつきながらも、己の足でストリートを歩いている母親の。街灯の白光に照らされて、黄金に煌めく髪を。

 見間違えるはずもない。

 気付けばルークは、走り出していた。

「──お母さん!」

 シノをそのまま、置き去りにして。


 時間は止まらない。夕黎は黎闇へ。紫に食い潰された僅かな天の朱の、永遠に鎖されて暗い漆黒が。

 それがそのまま、幼いシノの気持ちを表しているかのようだった。

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