第三章 雨降り落ちる黎闇に慟哭の残響は増して
一、悪魔の親は悪魔
──繰り返す。
枯れ腐りの巨樹が、天を
光が照らした。
遠目にも良く見える大きさの樹木の
誰も、恐怖心も何もない魔群すら動かない、
煌めきを纏った小さな影が、アーレントの前に立つ。そして、彼の体が傾いだ。
……なぜ?
心臓が握りられたみたいに、呼吸が苦しくなった。動いてと願っても、彼は動かない。
『何があっても子どもたちは守る』と、そんな約束を交わしていたことなど。己の無力を。
戦場を、見た事もない本物の月光が照らす中で。誰かが駆けつけ、死体へ転じていく場所に。背を向けて逃げ出した。
自分を騙して。言い訳をして。最愛の夫を、諦めた。
それからはずっと、最悪の気分だった。
薄闇の不気味な紫の光線が、朱に混じって光を喰らう
「い、ま……なんて……」
震える声。掠れて聞き取りにくい内容を、それでも補完して。どこか申し訳なさそうに、何かの葛藤を抱えるように、似合わない深紅を塗った唇を噛んで後輩の女が言った。
「……アーレント団長が、生きていたんです」
目の前。壁を取り戻す為に前線へ出ていたはず後輩の、痛みを堪えるような真剣な眼差し。
生きていた。一度見捨てたはずの最愛の夫は、生存していた。
セラフィーナの心の全てを、歓喜が満たした。
祝福の鐘の音がリンゴンリンゴン、と鳴り渡っているような。夢にもつかない心地の良さで。何よりも喜ばしい一報だった。
「よか、った……よかった……」
女の人がやってきた。お母さんについて玄関の扉を開く。髪が少しボサボサで、色が抜けたみたいにまっ白な肌。浮き立つような口紅の赤で、全体的な雰囲気が不気味なひと。青色のマントを、ピカピカの金で留めている白い制服の。
その人が何かを言って、お母さんは口を押さえた。それから、ふらふらと足がよろめいて、膝から崩れ落ちて泣いている。
ルカリエルはそれを見て、以前の男同様に、目の前の女を敵だと認識した。
──ゆるさない。ゆるさない、ゆるさない。ゆるさない……!
攻撃する方法を探し、深く考えないまま、ルカは拳を握った。殴りかかろうとして右足を一歩前に踏み込んで、そこで、彼女は見た。
それは煉獄だった。家の暖炉にある、薪を喰らって燃える、赫赫の火の赤の。
火が。炎が。ルークの体から出ていた。
ルカは混乱した。弟が燃えている……!
何とかしないと、と焦って、困り果てた。頼れる母親は、今は泣かされていて頼れない。自分で何とかすることも出来ない。目の前の敵に頼ることなど元より論外。
何も出来ずに立ち尽くした。それを見ながら、弟まで失ってしまうのかと恐怖した。
「ッル──!」
瞬間、世界が黒く染まった。ルークの後ろには大きな光の塊があって、ルークと、それから玄関先の女を照らしている。
殴りかかった。
ルカには何が起きているのか分からなかった。それでも、あれならば敵を倒せると期待した。
それが、セラフィーナによって止められた。
「……ご飯を食べていなさい」
混乱したまま、ルカはルークと共にリビングへ戻った。席へついて、ご飯を食べ終えた。
お母さんは、一日中戻ってこなかった。寂しかった。
◇
不測の事態に備えて待機していて、いつもは賑やかしい警団の庁舎の中は、今はしんと静まり返っていて物寂しい。
その庁舎の最上階。総団長の用に備えられた執務室の中で、ソファに腰掛けた二人は向き合っていた。
「……お子さんのことは、どうするんですか?」
苦々しい口調でキリアが言う。何とか今からでも、引き返してはくれないかと願いつつ。
「これはあの子たちの為でもあるの。お父さんを取り戻して、またみんなで笑うため。そのために、私はまた砲を以って戦うの」
詭弁だ。
百歩譲って、子どもたちに父親を返すというのはいいだろう。だが、その間の子どもの面倒は誰が見る。まさか八才と六才の子を放ったらかしに、託児所任せにでもするつもりか。
キリアは立ち上がった。吐き捨てるように言う。
「話になりません。せめて、お子さんたちが十五歳になるのを待つべきです。それまでは我々警団と兵団に任せて、あなたは母親をやっていてください」
話はもう終わりだと、ドアの方を手で指し示した。あなたはもう、家へ帰れと。ここはあなたのいる場所ではないと。
しかしセラフィーナは、それでもなお食い下がる。もう、かれこれ三時間以上は話し込んでいると言うのに。
──はやく、帰ってくださいよ。
「いいえ。私はあなたが認めるまで帰らないわ。そもそも、今の執行機関には戦力が必要でしょう。北部の壁を取り返すのに、一体何人殺すつもりで計画を立てたのか知らないけれど。少なくともあの竜は、今までの兎やら蜂やらとは訳が違う」
間抜けた話だが、敵の言を信じるのであれば神は出てこない。だが、白の悪魔と共に出てきたクセに、白の悪魔が居なくなってからもその場に残り続けたという現実を見るなら。恐らくは空飛ぶ鯨は、竜は残っているはずだ。
加えて戦地に赴いた者の大半は、
確かに、大勢が死ぬだろう。それは、戦力の補充準備の観点から
だが。それでも。
「だから……! だから、子どもたちのことはどうするのかって聞いてるんですよ! 八才と六才の子を一人にするんですか!? 母親であるあなたが子どもから両親を奪ってどうするつもりです!?」
それでも、キリアは今のセラフィーナには執行機関へ入ってほしくはなかった。母親だけやっていてほしかった。
「……子どもは、愛の結晶じゃないですか」
それだけは、絶対に。絶対に。
「必要なことよ。その愛を、確かめるためにも。これは私たち家族で乗り越えていかなければならない問題なの。他人であるあなたが、口を出すべき問題ではないわ」
失恋に泣いていた男を知っている。毎日酷いかおで、今にも死にそうになっていた同僚を知っている。それでも最後には、ちゃんとした笑顔を浮かべて二人を祝福した男を知っている。
──だからもう、やめてください。
キリアも、愛は知っている。三十も半ばになって今更だが、愛を知っている。だから流石に、愛した夫を諦めろとまでは言わないけれど。
けれど。いくら何でも、子どもを放置するのはやりすぎだ。
「……じゃああなたは、いったいどれだけの時間をかけるつもりですか。その間の子ども達は、泣かせておくのですか」
ソファの背もたれを握る手に、力が入る。皮のソファがギシギシと軋みを上げた。
それでも歯を食いしばって、キリアは平然とした顔でいるセラフィーナを見つめる。
「いいえ。毎日ご飯は作るし、毎日抱きしめて、ちゃんと愛してあげるつもりでいるわ。泣かせたりしない。──それに私は、長くかけるつもりはない。長くとも、一年以内に取り返すわ」
聞いて、キリアはいよいよ目を塞いで天を仰いだ。もう今は何も見たくない気分だった。
この女は、普通じゃない。冷静じゃない。
あんなのから、あんな怪物から。たった一年足らずで仇を見つける。その上で戦って生き残って、父親を取り返して帰還を果たす。
とてもではないが、キリアにはそれが現実的であるとも、実現可能であるとも思えなかった。そもそも、外界で生き抜けるだけの余裕を備えた敵相手に、どうやって捜索をして探し当てるというのか。
この女は、今はまったく冷静じゃない。ダメだ。
「……そんなの、無理に決まってるじゃないですか」
自身でもそう感じるほど、彼女の口からは弱々しい声が出た。
これはもはや意志どうこうの話ではないと、キリアは思う。その中には、不可能なこともあるのだ。そうでなければ、今この世には、きっと魔群ではなく愛で溢れている。
「いいえ。不可能ではないわ。だって敵は、この国に攻めて来るのでしょう?」
ただ事実を述べるように淡々と、セラが言った。
……なぜ、それを知っている!?
「──ッ!?」……あ。
つと振り返って、キリアは己の失態を察した。視線の先、セラは嘲笑うようにニヤリと笑みを浮かべていた。
そう。彼女は、〈欺瞞の神〉ウストアーレがこの国に対して宣戦布告をしたことなど知らない。ずっと国内に、もっと言えば家の中に籠っていたのだから知る由もない。
今のはだから、彼女のカマかけだ。キリアはそれに、見事なまでにあっさりと乗ってしまったことになる。
超特秘事項であることが、神が攻めてくることが、バレてしまった。己のミス一つで。
セラフィーナがわざわざ立ち上がって、キリアの目の前へとゆっくり足を進める。顔を近付け、勝ち誇った笑みで言う。
「じゃあなおさら、戦力は必要ね?」
これからの戦いは、本当の意味での戦争だ。人死にも必ず発生する。命の保障などどこにもない。あるのは仲間の死と、死んだ仲間の遺体すら放置しなければならない過酷劣悪を極めた現場だけ。
そんな場所に、子どもを置いて自分だけが乗り込もうというのか。
そんなことなど、許されないだろう。もし母親までもが死んだら、いったい誰が。
妥協などしない。認められない。認めない。キリアは、屹立とした強い意志で断じる。
「……あなたは母親です。それも、シングルの。我々執行部は、そんな女性を危険な場所へ送り込むことなど出来ない。──そんなことは、人倫にも
絶対に、入れてなどやるものか。
しかし、強力な意志を受けてなお
二人の視線が交錯する。永遠のようにも感じられる時間。耳がキンとなるような静寂の中で睨み合い。
ふと、セラフィーナが笑う。嗤う。悪魔のように、酷薄に。醜い顔で。
「そう。あなたの覚悟は、所詮その程度でしかないのね。……それじゃあ、ゼルくんも近い将来には死んでしまっているかもしれないわね」
確信に満ちた声。見下して他人の不幸を嘲笑いながら、甘い密でも舐めとるみたいに。
「ッ……! あなたはどこまでッ!」
ふざけるな……!
「……あなたのことは、今までは尊敬していたんです。だけど今、それが軽蔑に変わりました。……セラ先輩。あなたのこと、見損ないました」
こんな脅迫まがいの方法まで使って、死に急いで。子どものためなどと言い張りながら、もはや子どものことなど見てはいなくて。
視線のその全ては、愛しの夫だけに向いていて。
何を切り捨ててでもと。
そこまでして。
キリアにはそれが、理解出来なかった。理解したいとも思えなかった。
「別にいいわ。あなたからの評価がアルくんの発見に役立つ訳でもないのだし。まあせいぜい、いっしょに頑張りましょう。お互い、敵を倒すという目的は共通しているのだし」
薄く微笑みを浮かべたその顔が、キリアにはもはや、悪魔や化け物のそれにしか見えなかった。
「……後悔、することになりますよ」
「私はそんな風にはならないわ。心配されずとも結構よ」
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