四、常なる無情の生の残酷

 シルトヒストリカの本邸から追い出されて、家族三人で生きていくことを選んだ。仰ぎ見られる側の御三家ではなく、仰ぎ見る側の一般市民へ。

 戦えなかった後悔は、今もなお残っているけれど。それでも愛した人との宝ものが、結晶が残っていて。子どもたちを守るためならば、セラフィーナはどんな戦場にも立ち向かえるだけの覚悟があった。

 それは葬儀の後から、年越しの準備が始まった現在に至るまでの気持ちの整理の結果だ。

 立地が良いと気に入って、子どもたちと三人で決めて購入した、第三区の街角にある小さな家。シンプルな木造の外装に、住みやすくお洒落な内装。毎日香るパンの温かな匂いと、近くにある大きな公園が魅力の一軒家だ。

「ただいまー!」

 夕飯にクリームシチューを作っていると、玄関先から疲れの滲んだ子どもの声。ルークの帰宅だ。

 一足先に長女のルカが駆けていき、セラフィーナは鍋の火を止めてから向かう。二歳上の長女が長男に飛びかかって、おかえり! おかえり、とはしゃいでいる。掛けたうさぎ模様のエプロンをそのままに出迎えて、声をかけた。

「ルーク、おかえり」

 反応が少し鈍い。初等学校で疲れたのか、眠そうな顔で間延びのした声。

 最近は放課後も残って、自主的に勉強をしているらしい。帰宅はいつも、薄闇の朱に紫の光線が混じる夕黎の刻。

 なにか目標でもできたのか、あるいは、幼年ながらに恋でもしたか。どちらにしろ、母であるセラフィーナには喜ばしいことだ。

 父親が欠けても暗く落ちることもなく、健やかに育ってくれている。

「ただいまー……ぼく、きょうもがんばたよ」

「ふふ、ルークは偉い子ね。今日は二人の好きなクリームシチューだからね。お手々を洗ったら一緒に食べましょう」

「食べ……うー」

 千年と続いた無謬の統治。民を想い正義を掲げ、自由と平等を絶対保証として安寧の恩恵を授け給う〈正義の神〉ペルフェリーナ様の揺るぎない統治機構、その基盤。それが今、壁の破壊とともに揺れている。

 正義の国は他者の権利を重んじる。尊重し尊敬し、手を取り合って共に歩む。だけれど今は、恐怖と不安からその正義があまり、出来ていない。

 市民の顔色は二分する。

 正義は必ず勝つのだ、と主張する神至上主義の者達の顔色は明るく。

 このままではいけないのでは、と危機感を募らせる者達の顔色は暗い。

 セラは正直、どちらの気持ちもある。ペルフェリーナ様なら必ず敵に打ち勝ってくれるだろうという期待感も、このままだと正法国が破滅するのではないかという不安感も。

 だが同時に、今のセラは母親だ。母親は子を愛し育て、守る存在のことだ。

 家の中を包む木材の香りと、鍋から湯気を上げて漂うシチューの甘い香り。暖炉の火が赤く燃えていて、温められたリビング。彼女が腰掛けた椅子の対面の席で、子ども二人が出来立てのシチューを食べている。熱さを我慢しながら、それでも堪えきれなくてはふはふと口を動かしながら。

「おいしい?」

「うん! おいひ!」「おいひーお」

 子どもたちがそれぞれにスプーンを咥えたままコクコクと頷く。

 握ったスプーンでシチューを掬い、前かがみで口まで運ぶ。一生懸命にそれを繰り返して、

 ルカもルークも口元は既に真っ白だ。ルークに至っては、細かく刻んだ人参の切れ端を頬に着けたまま、その事にも気にせず美味しそうに頬張っている。

 その様子を見ながら、セラは思う。

 やっぱりこの子達は私が守らなきゃ。この子達を守れるのは、今はもう、母親である私しかいない。

 だからセラは、兵団に戻るわけにはいかなかった。勝てるかどうかじゃない。復讐が果たせるかどうかじゃない。──殺しに挑まなければ、どうしても許せない。殴ってやりたい。殺してやりたい。

 弔いの花としてはいささか血腥ちなまぐさいかもしれないが、あの白い髪の怨敵のくびを、くびり切って献花とする。

 煮え滾るような激情の奔流は、穏やかに過ごして見える今でも、愛している夫が殺されたその瞬間からずっと胸の中に抱えてある。

「お母さんお母さん、おかわり!」

「うむぅっ! っぼくも! おかわり!」

 二人は顔ほどもある大きな皿を両手で掲げて、食べたよ! とアピールしている。シチューのおかわりはこれで二回目で、パンは既に八つ以上が腹に収められている。しかしまだまだ食べたりないらしい。

 これが成長期か、と楽しくなった。

「ふふ。早かったルカちゃんから注ぎましょうね。まだまだたくさん作ってあるから、ゆっくりね」

 そうだ。セラには、自分が作ったご飯を美味しそうに食べる子ども達の姿を見ているだけでいいのだ。それだけで彼女は満たされ、また明日も頑張ろうと活力をもらえる。

 だからもう、凄惨な道に足を踏み入れる必要はないのだと。

 無念は、後悔は。復讐の念は。──そんな後ろ暗い負の感情など、表す必要なんてないのだ。



 箱型で先端の尖った黒い街灯。それは街角から等間隔でストリートに設置されていて、家の前にも置かれている。

 どこまでも暗く延びる天に、朱に混じった紫の光線が薄く光る。壁に囲まれた都市の空を、鳴き声を上げながら黒く影に染まった鳥の群れが飛び去っていく。一日の終わりの光と明日へ続く闇が混じる、ただただ不気味な雰囲気ばかりの薄闇の夕黎。

 家の前の街灯から放たれた白い光に照らされて、影が四つ伸びる。

 こんな時間にドカドカと足音を立ててやってきた闖入者ちんにゅうしゃの影が、まるで無理やりこじ開けて押し入るように、家の中に伸びてくる。

 毎日の楽しみの、家族三人揃っての夕食の時間。母親の作った美味しいご飯をうまうまと頬張りながら、姉といっしょに今日あったことを話す。それを笑顔を浮かべながら母親がうんうんと聞いて、最後には必ず「すごいね」と褒めてくれる。笑っていてくれる。

 つらい経験を家族みんなで乗り越える為のそれを、無遠慮な邪魔者が遮った。

 団欒だんらんの時を、一日で一回、唯一の時間を。ドタバタとやかましい足音で、花壇を踏み荒らすみたいな空気の読めなさで。

 ドアを叩いて、よく分からない事を言ってルークの母親を困らせて。また、泣かせて。

 それがルークには、どうしても許せなかった。ふざけるな。

 日暮れに積み重なる負の感情。激情の破裂が、連鎖するように。

 今すぐに排除してやろうと、強い言葉が飛び出した。

「あばさん! あっちいって! じゃましないでよ! ぼくたちご飯たべてたのっ!!!」

 ルークがその人物を無理やり追い出そうとして、拳を握った。それは何十何百と繰り返して身についた動作。狙って、殴る動き。無意識に、身体と、意志の合致。

 世界が黒く染まる。その中で唯一、敵と自分だけが光に照らされて、よく、視える。

 ジッ、と熱く枢基の赫が閃いた。暖炉の中で燃え盛るような煉獄の赤が弾け、小さな体の中心から火の粉が一斉に飛び出す。知覚するのは目で見た総ての情報。表皮の奥、体を流れる血管に、もっと深く、命の源が流れ込む場所から噴いて、輝く。全能の感覚が開けて、よく、視える。──重力圧──枢機と繋がるコンマゼロゼロゼロ数秒の、永遠にも続く時間。

 知覚して、更に黒が深くなる。火炎の赫が散るように消えて、ゴッ、と重く質量がかかる。絵本の中から飛び出してきたみたいな星が降る夜空が眼の前いっぱいに広がり、どこまでも遠く、果てのない黒の中で輝く白の群と黄金の一つが見える。身体よりももっと深く、どこまでも続く永遠の中から、鈍く重色おもいろの質量が飛び出す。知覚出来ないそれが表皮に纏わりついて満たして、知覚した敵の心身が分かる。総てが分かる。星の身代わり、機装マキナは武。その飾りモノは黄金色のユリの髪留め。身体に纏うだけで、敵を殴る。

 ──うがつ……!



     ◇



 報告を任されたキリアは機動輸送機を飛ばし、一人正法国へ帰還した。顔パスにて神の御座所へ入り、神ペルフェリーナ様へと急ぎ謁見の申し出をする。

 神の住まう場所とあれば、真っ先に思い浮かぶのは綺羅きらびやかで絢爛華麗な室内だ。

 しかし内情は真逆だ。神ペルフェリーナは、謁見の間やそれに続く道など、周目の目を気にしなければならない場所以外は基本的には、質素倹約が極まっている。

 謁見の叶う日程が返ってくるのを控室で待ちながら、ここはやはり豪華なんだなとキリアは考える。

 以前聞いた時〈正義の神〉は、肌感覚的に豪華な装飾はあまり合わないと言っていた。衣服に関しても、統帥権を行使する際にお召になる純白と蒼天と黄金の制服か、または一般的な服飾の品格を二ランク程度上げてマントを羽織った、みたいなカジュアルさだ。

 どこまでも、本当に、いつまでも至上と仰ぎ見るべき高潔さだ。

 出された紅茶を口に味わいながら待っていると、扉がコンコン、と鳴った。どうぞと声を掛けると、入室してきたのは神だった。

「おはよう、キリア。まずは、務めご苦労だった」

 急いで膝を着き最敬礼の形を取った。胸に右腕を水平に当て、頭を下げる。

「はッッ! おはようございます、ペルフェリーナ様。御自おんみずからお越しいただきましたこと、深く御礼おんれい申し上げます。慰労のお言葉、ありがたく頂戴いたします」

 頭の上で、真剣な雰囲気が満ちる。

「……それで、危急の要件とはなんだ?」

「はッッッ! 第一防壁修復作戦の道中、駐留を決定したエルピテアの街にて〈欺瞞の神〉と遭遇──」

 報告の途中、遮って取り乱す声。

「なにッ!? ウストアーレと遭遇したのか!? やつは何か言っていたかッ!?」

 その乱れ様は、普段の神らしくないなとキリアは感じた。しかし、それだけ警戒しているのだろうと考え、報告を続ける。

「はい。我が国正法国に対し、宣戦布告をすると。壁を塞ぐ邪魔もしないと言っておりました」

 重苦しく神が呻く。

「そう……か……宣戦布告…………戦争か」

「はッッ。確かにそうと。──それと、私の方から一つ、気になりました点を述べさせて頂いてもよろしいでしょうか」

「構わない。言ってみろ」

「はい。本気で戦争をするなら、敵地は狭いほうが有利に働くはずです。にも関わらず壁の修復を許すというのは意味が解りませんし、何より、その場で兵どもを駆逐する方がよほど効率的なように感じます」

 そんなことは、戦争やその歴史について詳しくは知らないという子どもでも分かることだ。仮にも神である者が見落とすなど、そんなことはありえないだろう。

 もし意図してそれをやったというのであれば──

 考え込むような間が空いた。

「……確かにおかしいな。……それに奴は、常に飄々とふざけた態度を取っているが、戦略面でふざけるような抜けた者ではない。──それとも単に、現状の自分には遊ぶ余裕すらある、ということを見せつける目的でもあるのか。どちらにしろ気分は悪いな」

 ──あるいは、代名詞として冠される欺瞞、つまりは撹乱工作のようなものか。何れにしても、警戒をしておく以外に方法はない。

 条件からして、我が国は後手に回るしか無いのだから、せめてその被害が少なくなるように、少しでも早い対応が取れる順位だけはしておくべきだ。

「……報告の件は分かった。今日はそれだけか?」

「はッッ。以上になります。ペルフェリーナ様のお時間を頂戴し、真にありがとうございました。私はこれにて失礼させていただきたく存じております」

「そうか。それではご苦労だった。ゆるりと休めよ」

「ありがとうございます。それでは失礼いたします」



 城を出、ゆっくりと街路を歩く。見上げた先、薄闇に混じられた天の障壁が一瞬、錯覚を起こしたらしいキリアの目に青く映った。

 呆然と見上げ、力なく笑う。

「……はは。最近は大変だったもんなぁ」

 彼女の仲間は未だ作戦中だ。壁を修復するという、何より大切な任務を遂行している真っ最中。その最中で突如として振られた任務が終了し、現在のキリアには予期せず休暇のような時間が出来ていた。

 紺の混じった白色の制服に合わせた黒のパンプスが、石畳を叩いてカツリと高く鳴る。

 黎闇の明けて、鎖された天を抜ける光量も多くなってまばらに明るい都市の中。それでも微かに光る街灯を見て、キリアの胸を不意が打つ。

 ──私たちは、本当に解放されるのだろうか。

 目を移した先、人々の表情は明るい。兵団警団の合同作戦にて壁を取り戻すという発表があり、実際に今、その者達が戦場へ出ているのだから期待感に包まれているのだろう。

 しかし。

 キリアは思う。壁を取り戻した。ではその先はどうなるのか。それはきっと、また繰り返すだけではないのか、と。

 千年に渡って平和が続いてきた正法国。神ペルフェリーナによる無謬の統治。

 年に二度ある国を上げての祭りと、幸福に彩られた世界。日常の今の、回復の兆しを見せたこの風景。


 ──果たしてそれらは、仮初ではないのか。


 立ち止まって天を仰ぐ。視線が一度障壁にぶつかって、更にその奥には鎖された黒の色がどこまでも。

 それはキリアにとっては、極々当たり前のことだ。天は黒く鎖されていて、蒼天など、絵本の中の空想上のもの。三十年以上生きてきて、晴れた空など眺めたこともない。

 そしてこれからは、戦争の時代だ。

 笑顔の戻りつつあるこの都市も、そうなれば更に暗く沈むだろう。

 壁より外側。外界の情勢によって右往左往しなければならない様はまるで、家畜のようだとキリアは思う。それは瓶の中に、土と一緒に閉じ込められた小さな蟻と、柵の向こうで餌が貰えるのをただ待つだけの豚や牛や鶏と、いったい何が違うのだろう、と。

 家畜は、管理者が居なければ死ぬ。餌が無く、餌を探す能力も無いのだから当然だ。

 ならば人間はどうか。神がある日突然、消え去ったとして。同時に恩恵も、消えてしまったなら。

 それはつまりは、現在の壁外と何ら変わらない状態で。寒さにやられて家畜は全滅。麦や米も死んで。ならば、過酷な世界で野生化した獣を狩れるのか。そもそも瞬間的に水が凍るような極寒で日を越せるのか。

 そこまで考えて、重く息を吐いた。

 これ以上考えれば、本当に戻れなくなりそうだった。考えてしまった分は残るが、妥協する。

「……さいあくな気分だ……ふぅ……!」

 それは考えていても仕方がない。再び前を向いて、なにか気分転換になるものは、と探し出して、それを見つけた。

 明朝の時間帯であるのにもう開いているのかと、興味を持って近くへ寄る。

 男性、女性それぞれ向けの小物雑貨が置いてあるやや古めの小さな店で、けれど雰囲気は悪くない。

「あの、こちらのお店はもう開いているのでしょうか?」

 やや奥まった場所にしわの深い高齢の女性が腰掛けていて、キリアの声に反応して柔和な笑みを浮かべて見せた。

「おや、これは珍しい時間に珍しいお客さんだね。ほほほ、見ての通りもう営業はしてるよ。最近はあまりお客もこないけどねぇ」

 憂いを含んだ声音だった。これからの若者達は、大丈夫だろうかと。ちゃんと幸せに暮らしていけるのだろうか、という心配の。

 それを察して、キリアが問いかける。道に迷った子どものような、不安げな様子で。

「……やっぱり、心配になるものですか?」

 どのように伝えようかと迷って、老婆は少し考える。

「そうさねぇ……老い先短いこの歳になってもまだ、不安は尽きないね。未来なんて誰にも分からないからね、いつも進む道は真っ暗さ」

 ──だけれど、私はそれを楽しんでいる。キリアには、目の前の老婆がそう続けたように感じられた。

 その言葉には、湧き出るような活力が込められていた。胸を張ったそれは、誇りだった。人生を精一杯生き抜いている最中であるのだ、と。死ぬまでは己も人間で、正法国の民の一員であるのだ、と。

 どこまでもその姿は、尊く映った。何よりもそれは、高潔な有り様だった。

 つい先程までは、これから続くであろう暗黒を考えていた。口を満たすのは苦渋ばかりで、この国は、世界は、ちゃんと良くなる方向へ迎えているのかなどと考えていた。疑って不安になって、押し潰されそうになっていた。

 だけれど、仮初だとか箱庭だとか家畜だとか、そんなものは関係無かった。

「大切なのは……、生きる意志……どうやって生きるのか、どうやって生きたのか………」

 迷っていた。どうしようもない現状を目の当たりにして、打ちひしがれていた。このままではダメだと思って、塞いでいた。

 違った。

 先が見えないなんて真実は、そもそも今に始まったことではなかったのに。

 だから、そう。キリアが今やるべきなのは、迷うことではない。

「ほほほ、何か答えを見つけることが出来たみたいだね」

「はい! ありがとうございました。お陰様で迷いが吹っ切れたと思います!」

 憑き物が晴れたような眩しい表情で、キリアは笑った。

「それは良かったよ。どうやらお嬢ちゃんは、前に来てくれたお客さんの意中の相手、らしいしね」

 意味深に笑って見せた老婆に、キリアはきょとんと首を傾げる。え、どういうこと、と。

 そしてふと、老婆視線が自分の右側頭部に注がれている事に気がついた。

「ほら、これさね」

 老婆が指をさした先。そこには、十色の百合の髪留めが並んでいる。キリアはその中に見覚えのある黄金の色のものを見つけて、思い至って赤くなった。

「ほほほ。あの坊やは、随分真剣な様子で悩んでおったからの。想いが叶ったようで何よりだの」

「っ……ち、だ!」



 真っ赤な顔で飛び出して、キリアは息を荒げながら立ち止まった。それから悶々として、頭を抱える。

 ──ゼル! あいつ! 違うって言ってたのに!

 結局キリアはそのまま反転して国へと帰ってきた訳だが、今回の壁修復作戦へ出る前には、立場からのしかかる重圧によって潰れそうになっていた。

 そこで彼女の同僚は、顔を赤く染めていたとはいえ、投げ渡すようなぶっきらぼうで髪留めを渡した。

 キリアがからかって見せると、「っ……ち、だ!違うっ!」と言って否定して。彼女も、気恥ずかしさから赤くなっているのだろうと適当に考えていたのが今、違うとわかった。

 今の彼女は、傍から見れば不審者だ。爆走してきたかと思えば急停止し、かと思えばしゃがみ込んで頭を抱えながらぶんぶんと揺れている。

 道行く通行人は、声を掛けようにも困った様子であわあわと眺めていた。

 今の彼女は警団の制服姿で、左肩にはマントも掛かっているから正装だ。階級等々を知らなくとも、お偉い人だとはひと目でわかる。

 意を決して、若い女性が声を掛けようとした瞬間。キリアが現在の己の姿にハッと気付いて立ち上がる。

「あッッッ!? っ……ごほっ、ごぇっ!」「!?!!?」

 不審者ガール・キリアと心優しい女性の目が合った。キリアはむせた。

 怪しげな関わっちゃいけない行動をとるタイプの怖い人ヤベェヤツを見たという顔でそそくさと立ち去る女性を見、キリアは周りをそっと見回した。

 なぜか人が少なくなっている……ような気がした。

「ご、ごめんなさい!」

 また走り出し、脇目も振らない全速力で街中を駆け抜ける。ギョッとなって途端に目を逸らす者が見えた。キリアは気にせず走った。

 気付けば家に着いていた。バタリと音を立てて玄関口のドアが閉まる。ドアを背にして、キリアは呆然と呟く。

「……こんなはずでは」

 口調も相まって、哀愁の漂う光景だった。服装は乱れ髪もボサボサ、表情に至っては苦いものを食べたみたいな顰め面。

 そこにいつもの凛々しさはなく、あるのは感情に振り回されて落ち込んで、その場にへたり込んでしまった一人の女の姿。彼女の部下が見れば恐らくは、三度見くらいはするような。

 握った右拳の中、手のひらに何か違和感を感じて開いて見る。

 完全に忘れていたという顔だった。ついで、顔から火が噴いた。

「っ……!!!」

 握られていたのは、老婆の口車に乗せられて購入した男性物のカフスボタン。金色の装飾の、誰かの瞳と同じ色の硝子水晶クリスタルジュエルが散りばめられたそれ。

 どことなく誰かの雰囲気に合いそうな、男性へのプレゼント用の。

「こんな……こんなはずではっ!」

 賃貸アパートの玄関口で、甲高い絶叫が一つ上がった。



「んぁ…………こぉ……ど、ぉ……?」

 寝ぼけてまぶたの上がらない、半開きの口のマヌケ顔でキリアが目を覚ます。

 ベッドの上に両手と頭を着いて、気怠げな猫の威嚇のような、それにしては緩慢に過ぎる動きで身体を起こす。

 カーテンの奥に覗く光は、薄暗くて少し不気味な色。黒く鎖された天に曲げられて弱った朱に、黎闇を知らせる紫の光線が混じった不吉のいろ。

「ほぇ……?」

 重い瞼をしばたかせて、キリアは室内を見渡す。

 目に幕が掛かったみたいに薄く見える光景は、悲惨。シャツやスカートなどは当たり前に、ブラジャーやパンツなどの下着類までもがそこら辺にとっ散らかっている。

 机の上には紙山と化粧品の瓶が散乱し、追い出されたペンやいつかの飲みかけのコップが床に転がって散っている。

 ゴミ箱は倒れ、シーツにはシミがあり、調理器具は油が乾いたままひっくり返っている。洗面台には、、、、、、洗っていない皿の山。……なぜ?

 住人が死に消えて放置されたような終末の光景。おおよそ常人であれば肌が粟立つような、戦慄不可避の悪夢のようなゴミ山の部屋。

 しかしそれは、残念ながら誰かに侵入されて荒らされたわけではない。元よりこうだ。

 別に困るものでもないのだし、とは本人の弁だ。

 彼女の鼻は、自宅アパートもといゴミ屋敷によってねじ曲が──鍛えられていた。

 もう一度目をしばたかせて、ようやく起きた。

「……ここ、どこ……?」

 寝ぼけた頭をふるふると振って、ベッドから降り立つ。衝撃でキャミソールの肩紐が垂れて物が丸出しになっているが、今の彼女は特段気にすることもない。ベッドから降りて足を踏み出せば、下敷きに脱ぎ捨てた警団の制服の姿。その横に、ちょこりと置かれた男性物の雑貨。

 瞬間、存在する記憶が流れ出す。だらしないキリアの脳内に奔り、弾けた。

「ッッッ!?!!? ──ッ!!!」

 彼女にはまだ、やらねばならない使命が残っていた。それはひとえに、兵団長の生存を、セラフィーナへと知らせること。

 こうしてはいられないと、踏みつけた制服をはたく。シワは……この際良いだろう! 破れて穴も空いているパンストをこれまた脱ぎ捨て、山の中から新しいものを探す。──あった。

 他にも色々整えて。さあいくぞ、とパンプスに足を入れたところで、覚醒キリアはふと思う。

 これは本当に、伝えても良いものなのだろうか、と。

 夫の死を境に、あれだけやせ細った女だ。生存を伝えれば、間違いなく喜ぶだろう。しかしあの時、アーレントは別の男に対して確かに言った。お前が抱いてやれと。俺はもう終わっていると。

 露悪的でもない。ただ己にとっての真実を伝えるような、それが当たり前であるというような、極々自然の口調で言い放っていた。自分の妻のことを、本当にもう、なんとも思っていないような態度と声。

 それを伝えるのが、はてして彼女にとっての幸せに繋がるのだろうかと。あの様を見せられた後では、どうしても悩んでしまう。

 それらを考えると、どうしても気が重くなった。

「胃がキリキリア……」



 薄暗く夕黎の闇の続く刻。玄関口から見える住居の中、明かりもなく冷たい廊下に影が静かに伸びる。キリアの前、目を瞠るセラフィーナは今に崩れ落ちそうなほど、歓喜の涙をこらえて震えている。

 その様子を見ていると、どうしてもアーレントの最後の様子がチラつく。

 目の前の女性は、恐らくはもう、夫の死を乗り越えつつあった。玄関口を叩いて出てきた時の女の顔は、少なくとも対面の位置にいるキリアにはそう見えた。

 せっかく、呪縛から解放されつつあったのに。日の当たる花の園に、辿り着けたかもしれないのに。それを、血腥い泥水の中に無理矢理に引き摺り込んでしまったみたいな、どうしても拭い切れない不快感。

 いっそアーレントが死んでくれていたら。そんなことさえ考えてしまう。それほどまでに目の前の光景は、キリアにとって残酷だった。

 遂には号泣して崩れ落ちたセラフィーナをみて、ますます胸がいたんだ。

 その影で。小さな黒い闇が、飛び出した。

「あばさん! あっちいって! じゃましないでよ! ぼくたちご飯たべてたのっ!!!」

 赫赫に燃える煉獄の炎の、それは火種。どこまでも深く、深淵の闇すら照らして排する為の、希望を灯すカグラ家の相伝。その赤い光が、紫雷のように弾けて、閃く。

「なっ……!?」

 それは、極々稀に起こる覚醒の兆し。一度目は枢機を見、二度目は枢機に触れ、三度目は深淵を覗く奇跡の閃き。現代では既に亡き総団長二名が、唯一、三段を成し遂げた究極の進格。

 だが、驚くべきはそこではない。正法国でも一度目に閃く者は、枢基を持つ者の全体で一から二割はいる。シルトヒストリカとルーンカヴェルフェの子孫であれば、むしろそれは納得できる。だから真に驚愕するべきは、その枢基だ。

 確かに数世代前とは違い、現代では内内での婚姻で血の濃度を保つ、というような慣習もあまり聞かない。だから血が混じっていて、それが天文学的な確率を引き起こして隔世的にカグラ家の相伝の枢基を発現させたというのなら、理解は出来る。しかし、それはいったい、どんな確率だと思っているのか。

 眼の前、枢基が漏れ出ただけの拳から、炎が途切れる。

 ──視られている。直感した。

 始めて枢機に入る際、その者は極限の集中に下置かれている。発生要因などはまったく解明されていないが、数々の体験から『黒い世界の中で敵と二人、光に照らされてよく視える』ということは分かっている。その時に、人間を仮想敵あるいは敵として定めていたなら、その者の枢基の名前も覗くことが出来るというのは、時たま語られることだ。

 再度黒く、機力が纏わりついた。質量を伴う荘厳の夜の、星降りと満月が流れ込んでくるように明確に見える。黄金色に煌めいて、ユリの花が咲いた。──それは紛うことなき、機装マキナの砲のかたどり。

 それは、キリアの砲装。──こいつ、どこまで見て……!

 枢基だけでなく、機力まで同時に覚醒させた。ここまで達したなら、いくら格の差があるとは言っても危険が伴う。まともに喰らえば、内臓くらいは潰されるだろう。

 流れるような刹那の時で、キリアが機力を纏う。しかし。

 ──間に合わない。

 ある種の極限の集中状態ゾーンに入った状態でもあり、既に機装マキナを展開しているルークと、戦場で生きてきた者特有の集中力を持ち、しかし機装マキナを展開出来ていないキリア。今からではもう、展開は出来ない。迫る拳も、逃がしてはくれないだろう。

 ならば体格差による威力の減衰を、とダメージの軽減を狙い、キリアが地を蹴って後方へ跳ぼうとした瞬間。ルークの腕を、白い手が掴んだ。

「──ぇ……?」

 唖然とした困惑の声。視せられた世界が終わり、機力も同時に霧散する。

 掴んだまま、強い意志の発露。

「……ルーク。やめなさい」

「ぇ、おか……、さん……でも」

 見捨てられた子どものように、泣きそうな顔と声。

 攻撃をされかけた被害者とは言え、さすがにその様子にはキリアも同情の念を隠せない。

 アーレントが殺害されてからの家庭の様子を見ていない彼女にも、目の前の女性の窶れ様を見ればある程度は察せられる。立ち直りつつあったのも、察していた。

 目の前の幼子からしてみれば、せっかく体調の良くなってきた母親が、いきなりやってきたどこの誰とも知れない敵に攻撃されて泣いたように映っただろう。

 だから彼にとっては、それが唯一の防衛の方法だったのだろうと思う。母親を守ろうとする、子どもながらに愛のある行動だったのだろうと。

 枢基まで使って誰かを攻撃するのは、正法国では悪だ。だが彼の幼さや置かれた情況を考えれば、今のは仕方のないことだったとキリアは思う。

 止めに入ろうとして、しかしセラフィーナが先に口を開いた。

「ルーク。あなたはお姉ちゃんと一緒に、先にご飯を食べていて」

 無関係のキリアにすら、断絶を感じさせるような声だった。それほどまでに冷たく、切り離すような刺々しさがあった。

 その冷酷を向けられた男の子の顔が、胸に痛かった。

「ぁ……」

 あまりに痛々しく、さすがに見ていられなかった。さすがに酷だと、キリアが言おうとして。

 その眼光に制された。睨むのとも違う、ただの流し目の。

「っか……ぁつ……」

 覗く瞳。黒く、あおぐろく。深淵よりもなお深い奈落の無の、漆黒の。狂熱のように赫赫かっかくと燃えていた。

 キリアはその瞳にゾッとなる。戦歴の長いキリアですら動けない眼差し。何をも制するような、意志の、絶対の強者だと思わせるに足るだけの、物理的な圧力のある。

 流し目一つでキリアは黙らされ、結局何も言えなかった。

「ルクセリア。行っていなさい」

「……はい」

 背を向ける瞬間、くしゃりと歪めて唇を噛んだ男の子の姿が映った。

 それはキリアには、どこまでも残酷に見えた。アーレントの生を伝えて、毒沼の中へと誘った時以上に。その時よりもなお、罪悪感は強く残った。


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