三、命の価値

 戦地。いきなり前線が押し込まれて、最前線となってしまった第二防壁。だから前にも後ろにも、民家がある。

 最外層も元々は正法国の領土で、人も当然住んでいた。それを放棄して人間だけが逃れたのだとしても、暮らしの跡はそのままの形でその場に残る。

 それが民家や商店や教育機関の棟で、今は身を隠し戦闘を有利に進める為の障害物だ。


「左前方二十三、黒蜘蛛一がこちらに接近中。砲隊二から四で邀撃ようげき準備。作戦に変更無し、足止めと撃破、処理要因に分かれて狩り殺す。達せられなかった場合も同様、残存戦力にて狩る」

「「「「「了解」」」」」

「──カウント五、四、三……撃て」

 黒蜘蛛の二対の節足が、根元から凍り付く。動けなくなったところに、紫雷が弾けて黒の表皮を焼き焦がす。

 当たりどころが良くない。せめて四ツある目のような器官を潰せていれば上場であったのだが。

「……砲隊は周辺警戒。武隊、出るぞ。珠には気を付けろ」

「「「了解」」」

 武装を展開した四人が、家屋の影から身を低くして飛び出る。周囲に魔群の影はなく、しかし音を上げた以上は近寄ってきてもおかしくはない。

 近接距離まで最速で詰め、四人で四本、拘束されている節足をそれぞれ切り落とす。

「くっ……! 隊長!」

「二、カバーに入れ! 残りははらだ!」

「「「了解!」」」

 赫赫に燃える肚の口腔くち。それを避けて、顎肉を削ぐように横肚に武装をじ込む。辺りに紫の血を散らしながら、力いっぱいに剣をる。

『ギェェェェェ!!!!!』

 咆哮。

「チィッ! 武隊撤退! 砲四、撃て!」

 爆炎、氷柱、雷電。爆裂するような激音を背にして八人が撤退。

「このまま本部まで帰投す──」

 二十メートル前方に、蜘蛛と天秤を一ずつ視認。同時、蜘蛛が小隊へ向けて驀進を開始。

「前方蜘蛛一! 突撃回避ッ!」

 勢いをそのままに木造の建物へ突進。家屋が倒壊し、轟音。粉塵が舞う。

「全砲隊で天秤! 残りは俺と蜘蛛だ!」

「「「「了解!」」」」

 簡易砲撃を担う黒血の天秤は、斬撃を放つのに溜めがいる。血の皿が上がりきっていなければ砲撃による撃破は容易。そして今、マヌケの蜘蛛は自ら破壊した建物に封じられて動けない!

「ここでテメェら狩り殺して、帰還するッ!」

『ギギェ……ヅァ!』

 武装を展開した四人が、機力を増して硬い体表を削る。薄くなった装甲に剣を刺し、枢基を発動。黒蜘蛛の内部から焔が噴き出し、焼き焦がす。

 腹の中で勢いよく燃えた火が口肚くちから漏れ出し、建物に着火。黒蜘蛛を巻き込んで家屋が炎上。

「退避!」

 四人が散開。火の手から逃れる。そのまましばらく監視し、黒蜘蛛が這いずり出て来ないことを確認した後に砲隊と合流を待つ。

 二階建ての民家の上に登り、すっかり廃都の様相になった都市を見下ろす。とっくに乾いているのに干されたままの服や下着。倒壊した建物の群に、ひび割れて雑草の繁茂はんもし始めた石畳。倒されたまま灯らなくなった街灯に、野生化して早くも適応を見せている動物たち。燻った火が煤を散らし、戦闘の激音が絶えず鳴り響いて。もうこの場には、生きたものなどなにもない。あるのは生活があったということを示すだけの朽ち行く影と、生きてもいないくせに生きているフリをして人間を喰らう化け物ばかり。

 過酷を極め、日々凄惨な光景が生み出されては擦り減っていく同僚の仲間たちの数と形。

 こんな悲惨を、いったいいつまで見続けなければならないのか。行き着いた果てのその最期には、いったいなんの意味が……。

 迎撃に出た砲隊が三人が戻る。視線を向け、三人の姿を確認。そのまま何も言わずに点呼開始。

 どこか遠くの戦域に上がった爆炎とその爆轟の響く音を聞きながら、一名足りないままの砲要員の者からもたらされる報告を聞く。

 こんなのには、もう慣れた。死が当たり前に訪れるようになって、受け持った仲間もそうでない者も死に絶えて消えていく絶死の戦場の中でそれは、もはや当たり前の日常だ。

「天秤の撃破、確認しました。それと……一人、喰われました」

 恐らくは黒蜘蛛の吶喊とっかんを避けられずに肚に呑み込まれて、今はそのまま、燃え盛る火の中だろう。遺骸などの回収は出来そうにない。

 それでもやはり、欠員が出れば影は差す。

「……そうか。ひとまず、生き残った俺たちで帰還を優先。生きた証は、いつかまた取りに来よう。それまでは、そのままここに」

 静かに頷く隊員たちの顔色は悪い。分隊長である自分も含めて、前線に出ている者達の疲労がひどい。いつ死ぬとも分からない極限下での連戦に次ぐ連戦。精神は摩耗し、とっくに臨界点に達している

 いつ切れてもおかしくない操り糸は、惰性だせいと義務感のみによって手繰たぐられる。死ねばその分、仲間の負担が増すからと。

 こんな暗黒の夜みたいな情勢だからこそ、死に場所もなしには、もう死ねない。

「……あの、隊長。アレ……、魔群が発生していませんか」

 見た先で、薄気味の悪い瘴気が形を成して出来ていく。大きく胴体が膨らみ、煉獄のような灼熱が燃えて黒く覆われ、四ツ足の長い脚部が伸びて、地を踏んだ。

「ははっ……はははは」

 思わず天を仰いだ。こんなものを見せられてはもう、笑う他にない。

 魔群は、瘴気の濃度が一定以上で、かつなんらかの条件が加わった時に生み出されるとされている。だがこの場は、たとえ今は奪われていたのだとしても、元々は神の恩恵が注がれていた大地だ。瘴気を弾く効果もあって、それは障壁に穴を穿たれた今でも変わっていないはず。

 穴から流れ込んでくる瘴気が、満ちたのか。あるいはもう、最外層の恩恵は完全に消えたのか。

 どちらにせよこれからの戦局は、今までよりも悪化の一途を辿ることが確約された。

「…………クソッタレがよ」



 ◇



 第一防壁が破られてから既に一ヶ月が経過し、正法国は第二防壁以降、第十八区から第三十六区を放棄。食料生産は第二防壁内にある八箇所のプラントに依存し、それは第一、第二防壁に住まう何百万人という数の人々を継続的に満たすには、あまりに不足していた。

 現状は食料庫の備蓄を切り崩すことでなんとか対処しているが、それも数ヶ月、数年とすれば崩壊することは自明の理だ。

 六百万超という数の避難民の住居を、それまで二、三百万程度で暮らしていた第二防壁までに収めるとなると、どうしても無理が生じる。現在は逐次宿舎などを割り当てていくことで対処をしているが、それも国の財政を圧迫するばかりで難しいところがある。

 しかし我が国は〈正義の神〉の統治の下で『正義』を国是と掲げ、高潔高尚の精神を理念とした正義の国。困っている者がいれば当然に手を差し伸べて助ける。悲しんでいる者があれば寄り添って支え、慰めてやる。それがこの国の民としての心意気だ。

 そして国は、その理念の最前線に常に立ち続けていなければならない。

 だから今は、相当に苦しい状況だ。

 手に取った書類についつい顔をうずめ、内圧を下げるように重い溜息を吐く。

「……はぁ。今更になって総団長が書類仕事を嫌がっていた理由を知ることになるなんて」

 彼の言葉ではないが、まったく人生とはいつ何が起きるか分からないものだとキリアは思う。

 暫定ざんてい総団長の地位に就いてから、もう一ヶ月だ。

 その間彼女は方々ほうぼうから上がってくる報告書の処理を絶え間なく行い、休む暇などなく頭脳労働を強いられていた。一組織を預かる重圧も相当だ。

 死を歌う白い悪魔に総団長が虐殺されて、その場にいた者達はついでのように機力を削られ、死に体に追いやられた。悪魔が消えてからは魔群が驀進を始めて、団長や大隊長達まで軒並み死んだ。団員の数もかなり減らされて、それ以上に精神的な病を負わされて病院送りになった者もかなりの数だ。

 団員の士気は過去最低で、遂には戦場へ赴こうとするだけで失神する者や逃げ出そうとする者まで現れる始末だ。

 こちらはそんな纏まりのない状況であるにも関わらず、恐怖心など皆無の魔の群は既に第二防壁を完全包囲している状態だ。つまりはそれは、最外層、第十八区以降の制圧・占領が完了しているということで、国土の実に二分の一に相当する領土を失ったということだ。

「はあああ……私にどうしろって言うのよ。私はまだ三十代なのに……こんなの手に負えるわけないじゃない。ほんと勘弁してよ」

 食料の供給源は大部分が失われて、けれど人口密度は増している。戦力も心許こころもとなく、包囲を超え、さらに魔群の占領下を突破して百キロを走破しなければ、壁の修復すら叶わない。しかしそれが出来なければ、滅びへ向かうばかりの逼塞ひっそくを抜けられない。

 国土の奪還は必須事項だ。たとえどれだけの犠牲を払ったとしても、それはしなければならない。市民の為に命を懸けず、けれど支払われた税金でのうのうと生きることは正義に反する。

 いやだいやだと顔を振っていると、ドタバタと忙しない足音が聞こえてきた。それはどうやら、こちらに向かってきているようだ。

 彼女はまた面倒事が舞い込んできたのだと察し、もう一度溜息をついてそれに備える。

 ばん、と大きな音で扉が開け放たれた。

「キリア総団長閣下! 大変です! 魔群が! 北方にて魔群の発生が確認されました!」

「……そう。領土奪還作戦は、予定よりも繰り上げね。一週間後、大規模攻勢に転じるわ。目標は第一防壁及第十八区以降の都市の奪還。この旨、全軍に通達して頂戴。それと兵団のアイリス──暫定兵団総団にも伝えてもらえる? 打ち合わせをしましょう、と」

 慌ただしい様子から半ば確定していたことではあるが、やはり面倒事、それも最上級のクソ案件だったとキリアは外には出さずに辟易する。

「は、はッッッ! 了解いたしました!」

 キリアはただ、諦念に染まりながらも内心で「もおおおお……またかよぉぉぉぉ……!」と嘆いているだけなのだが、それを知らない警団員は、キリアの態度が非常に冷静で理知的だとして、尊敬の念を強めていた。



 壁を穿たれてから領土奪還を視野に糧食の用意や進軍ルートの考案、戦地調査など進めてはいた。しかし計画では、壁内の安定などを考慮すればどんなに切り詰めても三ヶ月後からの進軍予定だった。

 神の恩恵の残滓に依存した立案ではあったが、それがこうも脆く崩れ去るとは想定外。魔群の規格外を改めて思い知らされた気分だった。


 壁を取り戻すぞと周知が為され、遂にその日。期待に湧いた第六区の門前にキリアが着くと、そこには既に白紺の制服を身に纏って蒼天のマントを左に掛けた者達と、漆黒の制服に純白のマントを右に掛けた者達が集まっていた。総勢一万六千名。

 しかしその顔色は、どの階位に就いている者も優れない。

 当然だろう。彼らはここ一ヶ月の間、まともな休みもなく働いている。小隊長以上の者は休みという休みなどなく、それ以下の者も先の暗い状況に神経がすり減らされている様子だ。

 圧迫される財政に顔をしかめ、それでも目を瞑りながらいつもより多く乗せて支払われたストレス発散用の俸給はしかし、使うタイミングもなく意味を成せていなかった。

 その代わりに、軍医へ駆け込む者で溢れていた。

 悪魔への恐怖に関しては「神がお戻りになられた」という安心感から多少はマシになったようだが、継続的に死傷者を出している戦場に身を置く負担がやはり重いのだろう。

「……こんなもの早く終わらせて、みんなで笑い合っていたいな」

 誰にも気付かれないよう口の中だけで呟いた。そのまま最前列を目指して歩き、幾人かの中にアイリスの姿を見つけた。彼女も気づいたようで、一つ頷いてみせた。

 二人で演台に上がり、アイリスの横に並ぶ。彼女が口を開く。

「全体傾注! 先ほど、前線北方にて魔群に動きがあったとの報告が上がった! 今回、私達はその原因を探る! そして、出来る範囲内で魔群の数を減らす! 疑問や反発は当然あるだろう! しかし、我慢をしてくれ! 今は民のために堪えてくれ! 私は〝無駄飯食らい〟などと揶揄やゆされたくない! だから私達暫定組も頑張る! 以上!」

 それを真横で聞いて、アイリスも相当疲労が溜まっているのだろうとキリアは思う。彼女にしては投げやりというか、随分と適当だ。

 そんな事をなんとなしに考えていると、横からひょいと手が伸びた。マイクだった。

 ……………え?

 アイリスの顔を見て、なにこれ、と表情のみで問うた。小声で「? マイクだよ……? 疲れてる……?」と心配の声が返ってきた。

 キリアは思う。違うそうじゃない。私が聞きたかったのは、『WHYなぜ』の部分だ。渡されたものがマイクであるなど、見れば・誰でも・よく分かる!

 内心でうがうがやっていると、遂には脇腹を小突かれた。

 やればいいんだろやれば! 半ばヤケクソ気味にマイクに声を乗せる。

「あー、あー。えー、こほん。………………えー、一緒に頑張りましょう」

 ぶふっ、と吹き出す声。

 見れば、頬を少し膨らませ、鼻の穴をピクピクとさせたアイリスの姿があった。

 ついで、それを聞いていた各団員達も笑い始めた。私は見世物ではないぞと言いたくなったが、キリアは鋼の意志で我慢した。



 第二層第六区を出発して一時間程度。押し込まれて北部の最前線となった第十四区へ到着。

 住民達の様子は第六区同様に、希望に満ち溢れたものだった。一枚隔てた壁の向こう側の状況を知らず、ただ「奪われた領土を奪還する」としか聞かされていないのだから、現在の苦境を脱せるかもしれないと期待に湧くのも無理からぬことだ。

 反対に、これから戦地へと向かう兵員達はどんどん暗くなっていく。その熱量差コントラストに風邪を引きそうだとゼルは思う。寝込んでしまえたならいっそ、楽なのだろうが。

「まったく、すごい熱量だな」

 隣に座るキリアの、白粉おしろいまみれて取って付けたような白色の外貌かおは硬い。

「はは……ほんとうに」

 耳を澄まさずとも聞こえてくる期待の声。

 気が早いのか曲がって伝わったのか、叫ぶように上げられている声はまるで、凱旋後の祝宴を控えた歓声だ。それが機動輸送機の一軍へ向けて送られる。

 前線である壁の向こう側では現在も砲撃の轟音が鳴り響いていて、それが死告の天使の祝福の弔砲のようにも聞こえる。

 都市全体は勝鬨かちどきを歌い、軍の者は煩悶はんもんと憂慮に暗く雰囲気を包む。

 ──俺たちは……勝たなきゃいけない。勝って取り戻して、また美味い飯をみんなで食う。

 死の恐怖を克服するように、ゼルウィートは唱える。

 誰にでも恐れはある。死は怖い。けれどそれでも立ち向かうのは、「誰かの役に立ちたい」だとか「誰かの笑顔を守りたい」と思って入団し、今日まで生き延びてきたからだろう。

 ──だから俺たちは、今日も明日も、その次も、しぶとく生き残るんだ。

 決意を誓ってゼルが前を向いた時、横のキリアが重く口を開いた。

「……ゼル。私たちは、本当に大丈夫なのかしら。……私は、シンカ総団長の代わりを……、務め上げることが……」

 尻窄みに小さくなる声音。普段はきつと己を律し、泰然たいぜんの様を崩さない彼女がこうまで弱音を吐くのはやはり、精神的疲労が抜け切っていない何よりの証拠なのだろう。

 暫定とはいえ総団長の代理を務めなくてはならなくなり、最低な状況下でその地位に就いた彼女の心理的重圧は計り知れない。

 だからゼルはせめて、その重圧を多少なりとも慰められないかと考え、慎重に言葉を紡ぐ。

「──キリ。俺たちは孤独に生きてるわけじゃない。横を見れば頼れる誰かがきっといる。それで今は、お前の隣には俺がいるだろ。最低保障分は必ず応えてやるから、頼れよ」

 言うと、キリアは吹き出した。我慢できないというように、腹を抱えたまま笑う。

「ふふっ、ふふふっ」

 思い返して、青臭さに気恥ずかしくなったゼルの頬に赤が差す。けれど笑っているキリアからは少しだけでも不安が晴れたように感じて、ならば笑われたついでにと、もう一押しすることにした。

「〝明けない夜はない〟って言葉と〝夜明けの前が一番暗い〟って言葉、聞いた事あるか? 今はその、夜明けを待つ時なんだよ。だから大丈夫だ。……ほら、お前が迷ったら俺が行燈カンデラ射して迎えに行ってやるから」

 気恥ずかしさから顔を逸らしたまま、一つ、金色の百合を模した髪留めを差し出した。

 それはぶっきらぼうな渡し方は、一見してみれば、これをやるから元気出せよ、というような軽い気持ちくらいにしか思えない。

 が、言葉も合わせればそれは。

 目を見開き、一瞬、キリアの時が止まった。どうしようどうしよう! と、彼女の中で乙女心が爆発する。

 表情を見られないようにと顔を逸らしているゼルは、その事に全く気が付いていない。

 キリアが視線を上げると、真っ赤な横顔。

 あ、ゼルも恥ずかしがってるんだと気付いて、からかうようにニヤリと笑い。

 それが。

「ね、ゼル。……気づいてる? あなたのそれ、まるで愛の告白プロポーズよ?」

 果たしてゼルは、真っ向面から全力砲撃をモロに喰らって爆発する。

「っ……ち、だ!」



 若干の気恥ずかしさから目の前の男をからかって見せると、熟れた果実のように赤みが深くなった。

「っ……ち、だ!」

 なんだそれ。

 こらえる必要もないかと存分に笑っていると、励まそうとして爆死したゼルがついにねた。

「……もう知らん。勝手にどっか行って適当に迷え」

「そしたら、ゼルが迎えに来てくれるものね? ……ん? ほんとうに告白だったの?」

 たった今目の前の彼から貰った金色の百合の髪留めをプラプラと振りながら言う。

「っ! ちが、ちっ、げぇよ! バカ言ってんじゃねぇぶっ飛ばすぞ!」

「ふふ、分かってるわ。……ね、ゼル。ありがとう、あなたのおかげで元気が出たわ。ここを乗り越えて、みんなで美味しいものでも食べましょう」

 貰った髪留めを眺めてみる。パッと開いた大きな花弁に、髪を挟む茎の部分。シンプルなデザインながら、どこか惹き込まれるような魅力があった。

 それ見ていると、不思議と気合いが湧いてくるようだった。鉛を詰め込んだように重かった身体も今は、木片くらいには軽い。

 これなら十分、やれそうだ。

 髪留めを右の髪に着けて気合いを入れ、前線へと乗り込んだ。

「ありがとう、ゼル」



 前線は暗澹あんたんに包まれ、悲惨の様相で満ちていた。

 魔群に包囲された現状はただでさえ手詰まりレベルの惨状だと言うのに、最外層は瘴気まで蔓延し、魔群の発生まで確認されている。

 開門し乗り込んだ第二防壁奥側の状況は、すでに地獄絵図。廃都と化したそこここに、血の赤と僅かな肉片が付着している。

 後ろへと流れていく景色は割れた地面に燻る火と、倒壊した建物の影にチラつく巨影ばかり。

「……この世界を創った野郎は、よほどクソまみれでいるのが好きらしい」

 移動手段を馬へと変えた一万超の兵が、廃都へ堕とされた終末の都市を駆け抜ける。団塊となって進むその軍団の横を、機装マキナを展開した者達が機力を奮って走り駆ける。

 第十四区内で露払いを担う部隊で、武装と砲装を五と三に分けた八人一組の分隊だ。数は二千。

 ここでの戦闘は彼らへ任せ、軍は最短で破られた壁のある第十八区を目指す。直線距離で百キロだ。


「右前方三十五! 蜘蛛三! 天秤二!」

「左前方二十八! 蜘蛛六! 応援求む!」

「突っ込んでくるぞ! 九班十班回避!」

「建物の倒壊に気をつけて! 街頭が折れる!」

「前方やや左三十! 蜘蛛二! 天秤六!」

「十一班負傷あり! 一度後退する!」

「十二班交戦中! 以降に求む!」

「十八班了解! 前方右二十六! 蜘蛛二接近! 任せるぞ!」

「二十六班了解! こちらで受け持つ!」

「左前方──」


 軍が都市を抜けるまでの露払い役である彼らは、機力切れの心配をしない。本隊に損害が出ないよう全てを使い切るつもりで、剣を振るい砲を放つ。

 奥へ進むにつれて増える魔群の影と、伴って加速する激音。建物への影響も考慮に入れることが叶わなくなりつつあり、犠牲者の断末魔も切って遠ざかる。

 包囲を構成していた侵入の魔群に紛れてポツポツと発生する都市戦域を十キロ進み、遂に視界が開ける。

 ここからは速度勝負。多大な犠牲を出さずに進み、到着後は速やかに馬や輸送機を壁へと上げる。

 生存者はそのまま壁を塞ぐ工員に転じる為、減らせば減らすほど壁の修復は遅くなり、壁上への避難も遅延する。

「全軍ッ展開ッ!!!」

 暫定兵団総団長アイリスの号令で、それまで一塊となって固まっていた軍が鳥翼の形へ展開。中央で糧食等の荷を乗せた輸送機を走らせ、前方に厚く兵員を振る。ここからは五分隊が集まった小隊毎の移動となり、その距離は余裕を持って目視が可能な三十メートル。それが横に十二伸び、緩く尖りと窪みを繰り返した凹凸形で広がる。

 草原の彼方、どこまでも広原の続く野生に根差す鹿や兎などの動物が、郡と軍の足音に驚いて逃げていく。

 軍が土埃を巻き上げ、見えうる範囲で魔群の黒蜘蛛と天秤の塊を避けながら驀進する。

 可能な限り戦闘は避けつつ街に当たる度、脱皮をするかのように、より前方に展開した左右の部隊を切り離して進んでいく。

 作戦立案時における進行予定ルートでは、規模三から五キロ程度の街が三つ。十四区の二千名を合わせ、計五千を使う概算だ。

『左翼八より前方魔群確認! 対処開始!』

 都市を出てから三キロ程度進んだところで報告が上がる。それが音響拡声器により、左翼全体と中央本体へ一度に届く。対処を開始した左翼八とその左右が一塊となって魔の群の集団を多い隠したところを確認。その後一度逸れた後続が、空いた穴をそのまま埋めるように前に出た。

 進軍にあたっての問題が無いことを確認し、軍はそのまま直進続行。

 しばらく進み、八キロ地点。一つ目の街が見えてきたタイミングで、魔群の数が一度に増した。会敵の報告が左右の小隊から続々と上がる。

「っち。……軍をたたむ前に」

 第一の街への到着までは残り二キロ程。このまま行けば、今戦闘に入った隊の合流が遅れ、軍を上手く畳みきれない可能性もある。速度はあまり落としたくはないが、仕方がない。

「全軍! 進軍速度を八から六へ移行! 魔群への対処が完了後、等速にて収束!」

 ここまでで十二キロ。胸ポケットに忍ばせた懐中時計の短針は十三。既に一時間が経過した。壁までは残り八十八キロ。その間にある馬の休憩や問題対処による速度低下のことを考えれば、ここからでも十から十二時間程度はかかるだろう。

 ここはもう〝壁外〟であり、つまりは敵のテリトリー。本日の行軍予定は残り五十五キロ程。現状で駐留を考えている、壁より最も遠い街までだ。しかし外泊経験を積んでいない警団の面々には、やはり厳しいかもしれない。この地点ですら、指示した速度六よりやや遅れて進んでいる。予定地までの到着は……黎闇をむかえるかもしれない。

 考えてアイリスは眉根を寄せる。

 一日に六十キロ強の行軍は、確かに征伐作戦の基本ではありえない。ましてや今は万の軍の移動だからなおさらだ。加えて魔群が発生する領域というだけ与えられる心理的な負荷は相当なのであり、それを考えれば異常としか言えない。しかし同時に、警団に属する者がいる現状では、行軍が長引けば長引くほどに瓦解する確率は高まる。とんだ荒治療ではあるが、一日で半分を超えたという実績と自負は、彼らをきっと目的地まで連れて行く。

 軍の総司令官として立つ私は、彼らのことを生かさねばならない。無茶でもなんでも、だからやり通す。



 張られたテントに入る直前、一度空を見上げる。黒く闇に染まった天の向こうで、日が傾き出したらしい。普段から遮られていて、ただでさえ暗い天の下が夕黎の色に染まる。わずかに漏れ射す光線の朱に照らされて、混じった紫が底光る。

 もうそろそろ、世界が黎闇に変わる刻だ。

 魔群の出現によって進軍速度を何度も乱され、時には陣形の内部に黒蜘蛛が湧いて列を乱され。その度にアイリスは進軍速度を調整し、街に着いて小休止を挟んだ時には自ら士気向上に務め。失った団員の遺体は、その場に遺してそれでも進んで。それでなんとか、三十二キロ地点にある街まで到着した。しかしその時点で、時刻は十八時を回っていた。

 今から動けば、明かりの無い夜中行軍になる。だからそれ以上の進軍は断念し、それで今は、二つ目の街にいる。

 アイリスとの会議で練っていた計画では、今日は六十キロ地点まで進む予定だったのだが、半分までしか進んでいない。幸いにも糧食や他の物資は一ヶ月以上の余裕を持って積んでいるから、直ちに困ることもない。士気に関しても概ね好調と言えるだろう。問題はない。それよりも今は、アイリスの方が心配だ。

 ラインが一つ巻かれたテントに入れば、そこにはゼルとアイリス、兵団の総次大長がいて、二人がアイリスに向き合っている。

 異様な空気だ。先程までなにかを言い合っていた様で、テントの中は少し熱っぽい。

「キリ、お前からも言ってやれ。……こいつ、自分のせいで進軍がうんたらって言い始めてな」

 ゼルが親指でアイリスを指しながら言う。アイリスが何かを言おうとしてそれを睨みつけて、結局やめることにしたのか頭を振った。

 なるほど。トイレなどたかだか数分程度だというのに、そんなところまで話が進んでいるとは。

 責め立てるような言い方にならないように注意をしながら、言葉を探す。

 責任感の強いアイリスのことだから、行程の半分しか進んでいないとなればそう感じてもおかしくはない。それも自分一人で抱え込もうとするタイプだから、なおさらに質が悪い。いつかの誰かをまざまざと見せつけられている気分になって、キリアは追い出すように頭を振った。

「アイリス、あんまり思い詰めなくてもいいわ。ここまで状況が悪化しているなら、もう二日も三日もあまり変化はないのだから。……そもそも、今回は魔群の状況が悪すぎたのよ。狙ったみたいに配置されていたり、湧き出してきたりで散々だったわ。だから、あまり自分だけの責任と思わないで。──あなたがいなければ、そもそも私達はここまで辿り着くことも出来なかったんだから」

 今回の作戦は、何も知らない国民達から見れば戦力が不足している兵団に対し、警団が戦力を貸す目的で、あるいは共同の任として壁の修復に向かっているように見えるかもしれない。

 しかしそれは違う。

 警団の任務は壁内の仕事全般。治安維持から壁の維持等まで含めて、その全てが警団の仕事だ。今回の壁の修復の件はだから、いくら法国が十八区以降を放棄して敵の領域に変わったとはいえ、本来の任務内容から考えれば全ては警団が担うべき仕事だ。

 しかし警団には敵の占領下を突破する術も知識もないから、兵団に協力を願い、共同になった。

 だから本来ならアイリスは代理の総指揮官という扱いで、それは彼女の負うべき責ではない。むしろそれは、警団の代表であるキリアこそが負うべきものだ。

「……ええ。分かってるわ。私は大丈夫。心配してくれてありがとう」

 そう言ってアイリスが笑う。しかしその笑顔は、誰が見ても無理やり作ったのが分かるものだ。

 何が大丈夫なものかとキリアは思う。同期のこの女は、真面目で何でも抱え込む性格だ。仲間がいるのに頼らないなど、それは仲間への侮辱にも等しいとキリアは無性に腹が立つ。

「いいえ。今のあなたは見ていられないわ。アイリス、あなたの顔は、だれがどう見たって危ないって感想を抱くはずよ。──それで〝大丈夫〟なんて、あなたいつからそんなに自己管理が杜撰ずさんになったのかしら。今は別の意味で大丈夫か、って聞いてやりたいくらいよ」

 キリアのスタイルにより適するのは『触れない優しさ』より、むしろ『ベタつく手で触れてやる迷惑』だ。

 もうどうにでもなれと、キリアは思うままを口に出す。彼女の系譜はルーンカヴェルフェで、それはつまり、彼女の血にも『燃やすより焼き焦がせ! 出来ないならもっと燃やせ!』な脳筋ファイヤーゴリラ成分が含まれているということで。

「お、おい! キリア! 今の彼女は繊細な……!」

 アイリスからグラと呼ばれていた男──グレイオールの言葉の途中で、未だ湯気の立っている茶の入ったティーカップが宙を舞う。

 機力を部分的に使ってキリアが弾き、ガラス陶器の割れる大きな音を立てて中身ごと床に散らばった。

「!?!!?」

 グレイオールが目を見開いて、投げたであろう張本人と床に散らばったガラス片を二度見する。

 ゼルは慣れてでもいるかのように、危機の及ばない縁側へと避難する。そこからグラに対して、巻き込まれるぞ、そこは危ないぞと他人事のように笑いながら忠告を飛ばす。

 混乱に陥ったグレイオールの前を、更に湯沸かし用のポッドが飛ぶ。

「ひっぃ……!?」

 情けない悲鳴。しかしそんな些細なことなど気にもとめず、女二人は言葉での攻撃にシフトチェンジ。とても下の者には聞かせられないような罵詈雑言の嵐が飛び交う。

「なに選ぶって説教してくれているの? ねえあなた、一週間前の自分のことをもう忘れちゃったの? 今にも死にそうなマヌケ面晒してブヒブヒ言っていた時のことだけれど……もうボケがはじまったのかしら? かわいそうね!」

 だれかがたしか、つい先程にアイリスを指して繊細だとか表していたが、そんな女はどこにもいない。少なくとも、繊細で感傷に浸っている者が他者を揶揄するように〝ブヒブヒ〟などと言うことはない。悲しい現実だがしかたない。

「はっ! 元気じゃないの。あら……? じゃあさっきのはいったい何だったのかしらね。もしかして悲劇のお姫様でも演じていたのかしら。でもねアイリス、すぐにメッキが剥がれるようではいけないわ。それは大根どころの話じゃないもの。役者失格よ。とても残念ね」

 先程までおしとやかで神秘的な雰囲気を漂わせていた女も、理知的で頼れるお姉さんタイプな女も、もうそこには影も形もなかった。

 それを見ながらゼルは思う。……さすが脳筋ファイヤー以下略の血族だなと。まるでスポーツ観戦でもしているような気安さだったが、一方でグレイオールは唖然呆然どころか、もはや慄然りつぜんの域に達していた。

「私は役者じゃないわ? 兵団を預かる総団長様よ。平伏ひれふせ暫定」

「あなたも暫定でしょう。なに自分だけは暫定ではないみたいに言っているの。尤も、暴力的なあなたはきっと総団長様の地位には選ばれないだろうから、今だけでもお偉い総団長様気分を味わいたいというのであれば、私は乗ってあげるのもやぶさかではないのだけれど……虚しくはないのかしらね」

「 ……ふふふ、さすが前線来てまでイチャイチャとラブリーを演じてるキリアさんは、どこまでも満たされていて幸せなのね?」

 睨み合う二人。バチバチと火花が散る。

 なにかとんでもない飛び火が、と危機を察知して逃走を図ったゼル。しかし少しだけ遅かった。

 グラは一人置いていかれたように疑問符に支配されている。

「……な、なにを言っているの、か、分からな、い……わね?」

 同期で友人でもある彼女たちは、互いの枢基も知っている。

 裏返った声。肩を震わせるキリアの姿を見て、アイリスは優位にたったと確信した。いやらしく笑みを深め、妙に似た声真似で演じて見せる。

「──『そしたら、ゼルが迎えに来てくれるものね?』のことよ? それとも、恋する乙女みたいな甘あまなメス声で言ってた──『……ね、ゼル。ありがとう』の方が分かりやすいかしら? きゃー! 〝喜劇のお姫様〟かっわいー!」

 最も強調された一部分のフレーズは、特に効いた言葉への意趣返しのつもりか。なにはともあれ、声真似のその内容は、キリアを悶絶させるに十分な撃力をもって心臓をえぐり出す。

「な、な、なッッ──!?」

 陸に打ち上げられて空気を求める魚のように、パクパクと開口と閉口を繰り返す。その顔は熟れた果実の赤色だ。

「ん……? 〝ゼル〟? ──お前のことか?」

 グレイオールが、何かに気付いた顔で横を向く。逸らされた朱色の横顔に、珠の汗が浮かんでいる。それを見て、彼も確信した。こいつら、遊んでやがったな、と。

 しかしそんな事は、兵団組にとってはどうでもいい。大事なのは、甘酸っぱくもラブラブしていたという事実のみ。なぜならそれがあれば、遊べるから。

 にやにや。笑みを深めた二人が、脇腹をつつくように詳細に訪ねて見せる。

「ねえねえ、おーひーめーさーまー! もうキッスは済ませたの? チュウチュウしちゃった?」

「ゼル、あえて言おう。──俺は分かっているぞ」

「しししし、してませんけど何変なこと言っているの。やめてください迷惑です」「何をだよ!?」

 空気感は代わり、別の意味でやかましくなってきたテント内。黎闇に暗く鎖される外界と、四人揃って賑やかしい内側。その中へ、人が二人、入り込む。

「こんばんは! 今日は月が綺麗だね?」

 歌うような軽やかさで、高く澄み渡った声が響いた。明らかに知らない者の、闖入者ちんにゅうしゃの声。視線をやればそこには、可愛らしい少女がいた。薄青の銀髪の、巻き毛の少女。

 空気が、瞬時に切り替わる。ピリリとひりつくような厳戒の睨みが少女を刺す。

 常人では震え上がるほど鋭い視線を集め、しかし少女はニコリと笑みを浮かべて一舞ひとまわり。その動きに合わせて、少女の身につけている瀟洒しょうしゃで綺麗な露草色の一枚服飾フリルドレスがゆるくふわりと翻る。

「……何者だ」

 端的な誰何すいか。ゼルが問い、全員が機装マキアの準備。四人は既に臨戦状態。

 眼の前の少女の気配は、特に警戒する必要もないほどには普通だ。街中ですれ違えば、お洒落な子だな、と振り返ることはあっても、あいつは危険だなどと警戒態勢をとることはない。それくらいに、極々普通の、どこにでもいるような女の子だ。しかし軍として駐留している現状下で、しかも斯様かように目立つ服飾でこの場に姿を見せることの出来る少女など、只者であるはずがない。そもそも培った勘が、最上限で警鐘を鳴らし続けている。

 四人は警戒を高める。テントの中は、既に高圧の機力で吹き荒れている。

「やだなあ、ボクは挨拶をしたんだよー? それなのにそんな怖い顔で睨まれちゃったら……ねえ? アルくん?」

 そこで少女が、右斜め後方へと頭を傾げて振り返る。

 少なくとも、戦闘を経ずにこの場に侵入出来る者がもう一人いる。厳しすぎる局面だと、グレイオールは冷や汗を流す。

 どこまで通用しているのかも分からない脅しかけ。しかし実際には、他の者がいるこの場で、なんの告知もなく戦闘を開始することなど出来はしない。そんな事をすれば、団員の殆どが死に絶える。

 出てくるのは、どんな強敵だ……!

 緊張感に包まれたテントの中へ入ってきたのは、しかし彼らの予想に反して、見知った人物だった。特に、兵団の二人には。

 顔を合わせる機会の多かった兵団所属のグレイオールとアイリスが、驚愕に目を見開く。

 かすれた声でアイリスが言う。

「な、……ぜ……? なぜ、あな、たが……」

 それは、キリアやゼルウィートも同じ気持ちだった。なぜここにいるのか。なぜ明らかに敵陣営である少女の側に着いているのか。なぜなぜなぜ。

「ウィア。その呼び方はよしてくれと言っているだろう。私の名は──アーレントだと」

 そもそもあなたは、もう一ヶ月以上も前に死んだはずではなかったのか。

 四人の疑問は尽きない。けれどそんなことなど構わず、二人は日常会話の如き気安さで──否。上澄み中の上澄み四人が吹き荒らす機力の中で、日常会話を始めた。

「あっはは。キミは相当こだわるんだね。わかったよ、わかったわかった。ボクの負けだ。アルくんって呼び方は控えさせてもらうよ、アールン。これからもよろしくね?」

「はあ……まったく。──まあ、アールンならいいだろう。ウィアには世話にもなっているしな」

「あっはは! キミってば分かるやつだね! アズリエルとは大違いだよ。あ! 聞いてよ聞いてよ。アズリエルってばね、いつまでもボクにアズリーって呼び方を許してくれないんだよ! ひどいと思わないかい!?」

「いや、それはウィアの人徳故だろう。つまりはキミが悪い。実際、彼女と話した時の印象はそんなに悪いものでもなかったし、頭が硬いとも感じなかったからな」

「えー! そんなー! むー、帰ったらもう一度お願いしてみようかな?」

「そうだな。真摯に願い出れば、きっと彼女も頷いてくれることだろう」

 何人なんぴとも侵すことなかれ。無礼働くことなかれ。

 眼の前で繰り広げられる他愛もない会話に、しかし四人はそれを止めることが出来なかった。彼らを今日、この場まで連れてきた歴戦の経験が、彼らの口をねじ伏せた。

 少女の顔が向く。その瞳に、凍えるほどの冷笑が映っていた。

 目聡く気付いて、四人は総毛立つ。

「「「「ッッッ……!」」」」

 それは圧倒的高みにいることを自覚している者の、絶対的な己の強さを確信している者の嗤笑ししょうだった。

 少女はそのままの睥睨へいげいで、にこやかに笑う。

「やあやあ、待たせてしまって悪かったね。何分、彼と合うのは二週間ぶりくらいだったんだ。だからついつい、話し込んでしまってね。それで、あー……まあ、挨拶に応えてもらえなかったのはいいや」

 ──どうせ価値もないし。そんな言葉が続いたような錯覚。否。それは確信だ。

「それで、ボクは何者なんだい、って質問だけど、ボクの名前はウストアーレ。ここからすっっっごーーーーく遠い北の東側で神をやっている者さ。あ、ボクの国は海に面していてね? まあ年中凍ってはいるんだけど、砕いて割って、潜って採れた海産物が絶品なんだ! ボクのお気に入りさ。ブドウのワインの次に、だけどね!」

 あまりにも軽い口調での、それは〈欺瞞の神〉のご降臨だ。


 この世界に、神は八座ある。〈正義〉〈花葬〉と続き、〈智慧〉までの六座と、彼ら四人の前に姿を表した、人類とは敵対して星杯を望む〈欺瞞〉。これで計七座だ。残りの神座かむくらは未だ、臨座しているのか心臓として残っているのかは明確には分かっていない。

 六座の神は、それも冷帝国──つまりは敵対陣営に神として在ると考えているが。そんなことは今の彼らにはどうでもよく。

 どう生き残るか。どう乗り切るか。

 考えても考えても、生存のなど思い浮かばない。そもそも神とは、人間よりも遥かに強い生命力と戦闘力、枢基の強度を誇るが故に神と呼ばれる。

 その所以は、人類がたとえ万の束になったところで決して敵う相手ではないところだ。完全無欠、古今無類の暴力を持っていて、なにより老衰することがない。それは人間では、決して届くことのない生命の到達点。

 神は産まれた時からその地点に立つ。だから神と呼ばれる。

 故に。ここまで接近された以上は、もう、どうしようもない。

 ──私達はここで、潰える……。でもせめてなにかは、意志は置いていきたい……!

 唐突に生死の極限下に置かれた四人は、けれど死を恐れない。それよりも、繋いできた意志の継受を願い、遺す方法を考える。

 しかしそれも。

「あー、別に怖がらなくていいよ? ボクたちはべつに、キミたちのことを殺しに来たわけじゃないし。ほら、殺すならおしゃべりなんてしないでしょう? だから安心しなよ」

 けらけらと笑いながら、見透かしたようにウストアーレが言う。

 しかし他の神々など知らない、しかも敵対している神とあって、四人が警戒を解くことはない。たとえそれが無駄なことであるのだと理解していても、その方が多少なりとも、精神に良い。

 現兵団の代表を務めるアイリスが、硬い声で問う。

「……じゃあ、あなたの目的は……、なに。アーレント団長は……、なぜ」

「うんうん、目的はね──宣戦布告だよ。君たちにはペルフェリーナへの伝書鳩メッセンジャーをやってもらいたいんだ。あ、もちろんこの場に駐留している人たちは殺さないでいてあげるから、そこも安心してね。んで、アールンだけど……彼はなんだろ? お友達? まあ、ボクに言えるのは、なぜって聞かれても答えられないよってことくらいかな。そんなの知らないし」

 四人は知っている。〈正義の神〉ペルフェリーナは、同格の敵であるという事実以上に眼の前の神──〈欺瞞の神ウストアーレ〉を警戒していると知っている。

 そんな強敵、強存在からの宣戦布告だ。……これからの法国は、いったい──

 ゴクリと生唾を呑み込む音がやけに響いて聞こえた。

 不安に駆られるばかりの四人を尻目に、目的はもう達したと言わんばかりにウストアーレがドレスの裾を翻す。トントトンッ、と、つま先の丸い靴で軽く床を蹴って踊りながら。

「じゃ、そーゆーことだからよろしくね! あ、壁の修復は、、、、、別に邪魔、、、、しない、、、から。じゃ、がんばってね!」

 テントをまくり、〈欺瞞の神〉が出ていく。その背中を追って出ていこうとするアーレントに、グレイオールが声を荒げて問いかける。捨てられた成犬が縋り付くような、必死さで。

「アーレントさん、なんであんたはそっち側にいるんですか! 奥さんやお子さんだっているでしょ!? 今からでも遅くない、戻ってきてくれ! 大丈夫だ! イカレ頭のクソ神なんて、我らがペルフェリーナ様が誅伐ちゅうっばつを下してくださる! だから戻ってきてくださいよ! あんたがいなくなってからの奥さんは、本当に目も当てられないほど弱ってんだ! あんたが戻ればその傷は癒えるんだよ! だから戻れアーレントッ!!!」

 対してアーレントは、そのまま背を向けた。そんな言葉に価値はないと言わんばかりに、態度で以て切り捨てる。それから一つ思いついたように、顔だけで振り返って言葉を添えた。

「──そう言えばグラ、お前はあの女に惚れていたか。先輩と後輩の恋愛、いいじゃないか。やや今更感はあるし子どもも付いてはくるが……それでもいいなら、お前が慰めてやったらどうだ? 恋の行く手を阻む邪魔者もいなくなったわけだし、今なら合法的にモノに出来るぞ。遠慮する必要はない。──俺はもう、とっくの昔に終わっている」

 四人全員が目を見開いた。以前までのアーレントであれば、何が何でも妻を──セラフィーナを優先したはずだ。それが出来ない状況下に置かれていたのだとしても、こんな乱暴な、最低にすぎる発言などは絶対にしなかった。

「おま、えは……それを本気で、本気で言っているのか……?」

 一縷いちるの望みにかけて、しかし同時に、もう先は分かっているというような暗い怒りの乗った表情と声音。

 そんな言葉は聞きたくない。今ならまだ、ふざけていたで済ませるから、と。

 だが。

「おかしなことを聞く。言ったろう──私はもう終わっているのだ、と。妻がどうの子どもがどうの、そんなことはもう私の手にはない。だからグラ、君に慰めてやってはどうだ、と提案している」

 そう言い切った声色も表情も、まったく嘘は吐いていない。少なくともずっと近くで、後ろで背中を見てきたグレイオールには、それは本心からの言葉にしか聞こえなかった。

「ふざけるな──っ!! セラフィーナさんがどれだけお前のことをたいせつ──」

 ──こいつはクソだ。クソに堕ちたんだ。……だから俺が殺さなきゃいけない。

 言いながら武装をいて、しかしその途中。アーレントはそのまま、テントの幕から出ていった。

「なっ……! おま、おまえぇ──っ!!!」

 既に姿はなく。グラの中には、やるせない気持ちと、あいつはこの手で必ず殺すという決意だけが残った。〈欺瞞ぎまんの神〉の宣言を聞いた他の三人も、それぞれに覚悟と決意を持ってその黎闇を超えた。


 翌日より。アイリス、グレイオール、ゼルウィートは進軍に続投。伝言の内容を考慮し、キリアはこのまま反転、〈正義の神〉ペルフェリーナの元まで帰還することとなった。


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