二、時の変転
正義を愛する国に、悪はない。
『──それでは次に、正法国の現状とこれからの課題について、パルモニア大学名誉教授・ストフェルカ様に伺ってみたいと思います』
『はい。端的に言ってしまえば、正法国の現状は悲惨の一言です。既に周知である第一防壁の突破と十八区から三十六区の放棄による食料問題の
ユスティリアード正法国第一区、正法国首都パルフェのメインストリートは、光に溢れていた以前と同じとは思えぬ雰囲気で明るさだ。
花瓶に飾られた色取り取りの花束は色を無くし、盛んな活気を見せていた屋台の群れも、今では閑古鳥が鳴いている。木造の一軒家が並ぶ生活区域は暗く異様な雰囲気で、ストリート脇の
退色して薄くなった黒灰の混じる黄金の天の下、装飾に凝ったカフェのテラス席には学生達がポツポツと座り、暗く先の見えない恐怖に頭を抱えて嘆き呻く。
初等学校へ向かう途中のルークは、背負いカバンをそのままに黒瞳を街頭テレビへ向けた。
まだまだ背の伸び切っていない六才の身。出来上がっていない体格は繊細で小さく、守られるべき子どもであることを如実に示す。緩く段にした、束感のある|濡羽《ぬれは》の輝きの漆黒の髪と長い
『──であるからして、これからは更なる暗黒の時代が続いていくことだろう。だからこそ正法国に生きる我々は一致団結し、手を取り合って助け、支えあって行かなければならない。我々には高潔な理念があり、気高き至高の神がついている。──ペルフェリーナ様万歳! 正義の
輝くような金色の髪と緋色の目をしたルーンカヴェルフェの系譜の女性教授の微笑に、ルークは顔を曇らせた。
一ヶ月前、彼が壁の外を見たいと言って、それを切っ掛けに父親が死んだ。母親は悲しみに暮れていて、明るかった家の中も今では薄暗い雰囲気だ。
誰にも責められることはなく、だけれど母親を慰めに訪れる者もいない。母と同じ金の髪色で、同じ家の系譜だと分かるテレビの先の、この女性も。
まだ幼く、それ故に多くの言葉を知らないルークは、心の中に溜まるモヤモヤとした気持ちの不快に眉根を寄せるばかりだ。
「助け合う」と言うなら、なぜ母親は泣いているのか。手を差し伸べられていないのか。それがルークには、分からなかった。
それに。
以前には光で溢れていた大通りを振り返った。
閑散としたストリートを歩く人々、カフェで頭を抱える学生達、街角の花屋で枯れた花を眺める高齢の女性、途方に暮れて塞ぎ込んだ中年の男性。そして、笑顔を浮かべていた先程の女性教授。
〈正義の神〉ペルフェリーナの統治する正法国は、『自由』と『平等』を愛している。その高潔は「常に正義たれ」と、民の理念にも現れている。
居住行政区や人種による差別は無く、人を虐げるような暴力も無い。統治機構は権力による圧政ではなく、手を取り合う公然による正義の平和で平穏だ。
神が民の幸福を目指して統治する国は今、幸せの者とそうでない者とで明確に分離している。
悲しみに暮れて救われない者がいる一方で、まるで救世の真理でも述べるかのように「助け合おう」と言っている余裕のある者がいる。
理不尽を前に立ち尽くすばかりの弱者が救われない。泣いている母親の、その涙を掬って慰めてくれる他人はいない。
「正義なんてほんとうは……」
六才を迎えた者が等しく通う場所が全区に一つずつ設けられている初等学校で、第一区にある初等学校が今のルークの行先だ。
学ぶことは大切だと言う〈正義の神〉の一声で、それは制度として確立し、今では五年制の義務教育として皆が通う。それが終われば四年制の中等教育課程に進むか、訓練校へ進学するかに分かれる。
初等学校の敷地は広大で、教育機関はここに全てが詰め込まれている。見上げた先が黒く影に染まるくらいの大きさで、塔の群れは聳え立つ。その一つに初等教育用の塔があって、入口部分で中等教育課程の者達と分かれる形だ。
区ごとに分かれているとは言っても、初等・中等の学生が集まるこの場は数が多くなり、それがまだまだ未熟な数百人の子どもで、かつ一斉に集うとなれば騒がしくなるのも当然だ。
聳えるような大塔を見上げながら、ルークが重厚な鉄扉の門を潜り抜ける。
広々と開けた
その中に見知った子が歩いているのを見つけて、ルークは近付いて声を掛ける。
「おはよう、シノちゃん」
事件があってから一度話して、それからはお互いに境遇が似ていることもあり気が合って、話すようになったルークの友人。
「おはよう、ルーくん。……なにか嫌なことでもあった?」
よく通る
自分の無力と抱えた感情を知られるのが嫌で、気まずくなって目を逸らしてごまかした。
「う、ううん。なんでもないよ。大丈夫だよ」
「そっか。うん、ルーくんがまた話したくなったら、そのときは教えてね」
ニコリと少女の笑顔で微笑まれて、ルークは絶妙な居心地の悪さを感じる。せっかく寄り添ってくれた相手の厚意を無為に潰してしまったような。
なんとか挽回出来ないかと考えて、しかし纏まらない思考に
ルークは思う。こんな時
そんなことを考えてまた、不出来な自分が嫌になる。嫌悪感がグルグル回る。
最近はルークは、ずっとそうだった。父親が帰ってこないのは。母親が夜、啜り泣いているのは。家の中の雰囲気が暗くなったのは。幼く、世界を知らないながらに迷って、考えて。
今もまた、些細なきっかけから思考の海に囚われようとしている。
急に黙り込んだ様子から何かを察して、ルークの横をちょこちょこと歩く少女──シノが、少し大きめの明るい声で話題を変える。
「そう言えば、今日からは別の子たちがたくさん入ってくるんだって。どんな子がいるのかな? 楽しみだね!」
その声がキンと耳に張って、ルークはハッとなった。急いで頷いて見せる。
「う、うん! そうだね! どんな子がくるのか楽しみだね!」
「仲良くなれるといいね!」
カンカンカン、と学塔の最上部に着けられた澄んだ鐘の音が、敷地の全体に降って鳴り響く。授業が始まった事を表す鐘だ。
それと同時に、二人の大人が入室した。一人はルーク達も知っている優しげな目の藍色の髪の女性で、もう一人はいつもとは違う鈍色の髪と瞳の、見知らぬ男性だ。そしてその周りには、三十人程度の、ルーク達と同年代の子どもたちの姿。
あの人だれ、あの子達なに、と騒めく子ども達を尻目に、子どもを引き連れた女性教員はそのまま教壇に上がって机横に立った。
男性もその横に立って、身奇麗な装いで風格のある気配を放つ。雰囲気に当てられた子ども達が一斉に静かになった。
その様子に一瞬迷いつつも切り替えて、女性教員が言葉を発する。
「みんな、おはようございます。早速だけれど、今日はみんなにお知らせがあります。見ての通り、これからはこの子達もみんなの仲間に加わるから、仲良くしてあげてね。──それと、」
言い淀んで、顔を見た。
男は変わらずの無表情で見返して、一つ頷くと前へ出る。口を開いて言葉を発する。
低い音程だが、腹の底から出されている声は広い教室の後方隅までよく届く。
「初めまして、私の名はフェルディナンド。本日から多少の変更が加えられた授業内容の、その科目を教えることになった者だ。どうぞよろしく」
おずおずと、まばらな拍手がパチパチと鳴った。親しみよりも恐怖が勝っていて、あまり歓迎はされていない様子だ。
フェルディナンドと名乗った男はそれを気にせず、淡々と続ける。
「さっそく本日からの授業内容の説明に移る。これからの君達には、半年という時間を掛けて枢基の理解と知覚をしてもらうことになる。それと同時に、身体の動かし方や目の使い方、物の考え方なども指導していくつもりだ。近い将来、絶対に必要となってくる知識や知恵や経験である為、最初は難しいかもしれないが、諦めずに付いてくるように」
そう説明された子ども達の表情は困惑と無理解に満ちていた。
それもそのはずで、六才という年齢の子は読み書きなどの家庭教育にもそこまで力を入れられてはいない。なぜなら、そういった基礎的なものを学ぶのが初等学校という場であるからだ。
そうでなくとも、脳の発達も未熟である子ども達には些か難しい内容だ。
小さな子どもに物を理解してもらうのは、想像以上に難しい。それこそ長年教育に携わってきた教員ですら、「小さな子と接するのは大変だ」と日常的に感じているくらいには。
全く理解出来ていないと察した女教師が、慌てた様子で噛み砕いた説明を始める。
「えっとね、みんなにも分かるように言うと、枢基というものがあって、それを知って、みんなで使えるように練習しようね、ということだよ。……わかったかな?」
子ども達からは困り顔が返る。教室内はしんと静まり返り、混乱している様子が直に伝わる。
その
「私は、君達に対して教えた全てを理解しろとまでは求めてはいない。だが、必要な部分は何がなんでも理解してもらう。それは数基──言い換えるならば、戦う力に関してだ。それは今後の我が国において必要になるものだ。頭では分からずとも、体で分かれば合格だ。──君達の様子を見るに理論など説明しても分からんだろうから、いきなりではあるが実践から入ろう。では、今から競技棟の方へ移るので付いてくるように」
「え、ちょ、子ども達が打ち解け合うじかんは……!」
先生の言葉を無視してそのまま一人で出ていった男を目に、困惑しながらも生徒達は後に続いた。
競技塔はその名の通り各種訓練施設が幅広く揃えられている。その中でも男が選んだ階層は少々特殊で、一言で表せば処刑場。あるいは
その中に唯一設置されているのは、異質な様相を呈する中央の
異様な空気感の中でその部屋に入り、キンと耳鳴るような感覚を覚えながらルークは進む。
周りには、当惑に包まれた生徒達と教員の姿がある。皆が皆、初めて入る場所に緊張感を抱いているようで、その進みは遅い。
「シノちゃん、あの先生のこと、どうおもう……?」
「えっ、と……ちょっとだけ、こわい、かも……」
ルークたちは新しく増えた子ども達のことも気になっていたが、それよりも新しく先生になった人が気になっている様子だ。興味や関心といった感情からではなく、恐怖や抵抗感から。
室内の中央まで歩いて男が止まる。それに合わせ、子どもたちが壁際で止まった。
「今から、枢基とはなにかを見せる。直感でいいので、何かしらを感じ取れ」
一度顔だけで振り返ってからそう言って、男が静止。そして直後、空間に揺らめきが生じる。熱く満ちて、上へ昇りながらも循環をなし、男の周囲でそれは留まる。
……あ、おかーさんとおとーさんがやってたやつだ。
男の周囲で起こった機力を見てルークがそう感じている時、その横ではシノも同様のことを感じていた。カグラ家の実子である彼女もまた、両親や祖父母に枢基による技を見せてもらうことがあった。それ故の。
しかし大半の子どもたちは、ただ漠然となにかが起こっていると感じただけだ。なにこれ、と困惑ばかりの漂う空気感。
その様子を近くで見守っていた女教師は、内心で溜息を吐く。彼女は、一年生の内から戦争の為の技術を教え込むのは本当は嫌だった。
枢基関連の知識について教えるのは、本来なら他の知識がある程度深まってきた三年生からだ。加えて、徐々に、ゆっくりと教えていくものでもある。少なくとも、力の正しい使い方や他人の感じる痛みなどを教え込んでない内から入る授業内容ではなかった。
余裕のない情勢というのは女教師も理解はしていたが、しかしだからと言って子どもたちを戦争の道具みたいに育成するのか、と憤る気持ちは抑えられなかった。
彼女に力はなく、だから上層部の決定には従う他ない現状。彼女にとっては心苦しいものだ。
口の中いっぱいに広がった苦みを堪えるように顔を顰めて、状況を見守る。
波動が一つ駆け抜けた。同時に、どっ、と機力が高まった。体が後ろへと押されるような圧力に、子どもたちは怯み顔だ。何も知らない中で力だけを見せられ、ただ圧倒され、体を硬く強張らせて耐えるだけ。
大人や既にそれを知っている者からすれば特に問題もなく堪えられる程度の強度だが、何もしらないままの子どもたちの体は生死の危機すら感じ取っていた。それは強いストレスだ。
制御されて静かに留まっていた機力が、一点に集中する。それが形を成して剣となった。
それで身を包むような圧力からは開放された。しかし大半の子どもたちは、今にも泣き出しそうな引きつった顔でそれを見ている。
男の剣から、冷気が吹き出た。教室内が冷却されていき、地面に白く霜が降る。
男が真剣な表情で振り返る。
「これが枢基だ。星のエネルギーである枢機を機力と変換し、その機力を武器にする。そこから事象として刻まれた己の枢基を実現するんだ。──なにか感じ取れたものはいるか」
低い声が響き、それからしんと静まり返る。室内に、ひっくひっくと嗚咽の漏れる音が響く。
答える者はいない。女教師にも睨まれている状況で顎に手を当て、思案した。それから一つ頷き、納得したように生徒の一人を指さした。
「ふむ。……では
問われた少女は固まり、ふるふると頭を振る。冷たい視線で睥睨し、次の子どもを見定める。
そんな男のあまりの無情に、女教師がついに我慢できず口を開く。
「もうやめてください。こんなのはあんまりです! 子どもが泣いているんですよ!?」
「それは同情論証的な言だ。──いいか、これは必要な教育の過程であり、乗り越えてもらわねばこちらも困るのだ。泣こうが喚こうが、授業を止めることは出来ない」
「そもそも! 六才の子どもに戦争で使うような技術を教え込むなんてどうかしているんです! 今すぐやめてください!」
男は明らかな落胆の様子を見せる。
「……はあ。確かに枢基は、戦争をする為の道具と解することも出来る。しかし一方で、身を守る術と捉えることも出来るものだ。戦争の、とだけ決めつけるのは君の勝手ではあるが、感情論にのみ依って主張を押し付けるだけでは理性無き赤子となんら変わらんぞ」
「そんなのは詭弁です! 実際に、本来の過程では三年生から教えていく事になっているんです! それが、今のこの子たちには危ないものだという何よりの証拠でしょう!」
見下ろす視線に、侮蔑の色が混じった。
お前のあたまの中は随分幸せらしい、とでも言いたげな冷たい目。
「──君はこの国の現状を知っているかね。前線が押し込まれ、正義に囚われて国難を強要されている、今のこの国の有り様を。滅びへと歩みを始めた法国の危機を」
馬鹿にするな、と憤る。そんなことなど、ある程度の年齢の者であれば誰でも知っている、と。
「知っています! だけど、それとこれとを結びつけるのは駄目でしょう!? 大人達の責任で、大人達が解決すべき問題ではないですか! それを子ども達に押し付けるなんて間違っています!」
そうだ。壁を壊されたのも、一ヶ月以上が経って壁を取り戻せていないのも、全ては兵団が悪い。あの日兵団が壁を守れていたら、こんなことにはなっていなかったのだ。
女教師が更に捲し立てようとして、その目にぶつかった。凍りついて軋みあげるような、鈍色の瞳に。
「お前の言う責任を取るべき大人達は、時期に大勢が死ぬ。なんの意味も、価値もなく死んでいく。なぜなら彼らは、正義を執行する、正義の側の人間だからだ。国土は二分の一に相当する部分を奪われた。しかし壁内の人口密度は急上昇し、口減らしに追いやることも叶わない。──ならばどうすればいいのか。簡単だ。兵士を殺して物を食う口と腹とを減らすんだよ。〝領土を取り返す〟という大義の下に隠してな」
実際、壁を取り返さなければならないというのは、日常生活を送るだけの市民も、日々魔群と戦っている兵団や、治安を維持するため不安を払拭するために街を見守っている警団も分かっている。
そしてそれは、必ず実行される。誰がなんと言おうと、人間だけの力で実行される。
そうであるならば。
「そうしたら防衛戦力は当然減る。そこで仕方ない、などと言って神という最強の手札を切れば、その瞬間に大口を開けた帝国の神は我が国を喰らいに来る。しかし防衛も必要だ。ならば減った分は補填するしかない。どこから? 国民からだ。その状況は一年や二年で終わると確約できるか? 否だ。ではその状況が何年も続けばどうなるか? 考えずとも分かる──今この場にいる者達の番が回ってくる事になるというだけだ」
なにが正義か。なにが正義たり得るのか。
一般的に
「そこで身を小さくして泣いている諸君らもよく覚えておけ。涙によって脅威を排することはできない。感情論で敵を屠ることはできない。願望によって身を守ることはできない。その全てには力がいる。圧倒的でなくともいいが、少なくとも、しぶとく生き残る事ができるくらいの力は必要だ。そしてこれからは、それが最低限のラインになる」
シノはその様子を静かに見ていた。機力の起こり、高まり、変換されて
警団の総団長や団長という上澄みを日常的に見ている彼女からしても、それは一切の無駄がなく流麗で、洗練された合理化の極地の美しさを目にした感動すら覚えているほどだった。
「……すごい」
まだ理論などを理解できる頭脳は持ち合わせていないが、心や肌で感じ取ることは出来た。
呆然とつぶやいて、しかしそれは自分のものではないとハッとした。声は自分よりも少しだけ低いもので、それは横からだった。
シノがそちらを見れば、観察でもするようにジッとその光景を目に映している友人の姿。
──ルーくんのお父さんもお母さんも、枢基が使えるひとだったっけ。……シルトのけいふ?
良い相棒を見つけた、というような輝いた目でルークを見つめ、これからは一緒に頑張っていけそうと期待感を持つ。
シノが気付けば先生の実践は停止され、なにかよくわからない言葉を伝えられたかと思えばその場は唐突に終わった。
842年11月第一周。週末日。
新しい教師が枢基についての実践的、もとい感受性、開花性依存の授業を始めて一週間が経った。その間にルーク、シノの二人が受けた衝撃や経験は凄まじく、枢基への理解と同時に物を考える頭脳の育成も進んでいた。
「お前たちの頭脳は未熟だ。だから今は、それほど思考に力を割かなくてもいい。とにかく、狙われているという感覚、狙うという感覚、見えない何かを掴み取る感覚を忘れないように行動しろ」
監獄を思わせる、石に囲まれて冷たい室内。常に教師の放つ機力の圧力の中、ルーク達は今、二人ペアになって
ただでさえ体温の高い八十人近くの子ども達が半密室状態の室内に集まり、低速とはいえ一時間ほど運動を続けているのだ。彼らの額には珠のような汗が浮かんでいた。水分の補給や適度の休憩を挟みながら、殴り、殴りかかられの動作を最大三時間、何かを掴むまで繰り返し続ける。
『才能皆無の者の唯一の道と才能
その世界で、シノは分割された一瞬を知覚する。攻撃する時の呼吸の勢い、相手の警戒と緊張とわずかな乱れ。攻撃される時の相手の息遣いと力の移動、自分の意志と心構え。肉体を制し心を満たし、見定めて、殴る。
──ねらう。ねらわれる。……せかいへ……きょくげんの、意思と、意志で……うがつ……!
ジッィ、と熱く枢基の赫が閃いた。黒炭の中で燃える
見えるのは己の肉体の情報と心動の変遷、相手の心身の情報。黒く塗りつぶされた中で光照らされるように目に映るものの情報の総て。
加速。狙う。狙う、狙う。
それは五日間繰り返した動作。ゆっくりと殴りかかり、殴りかかられるという行動の繰り返しの果て。心身が同時に極致へ、世界の中心へと達し繋がった者の究極の一撃。コンマゼロゼロゼロ数秒の一致。
黒い影が割り込んだ。
自身との身長差は倍ほどもある。手のひらが差し向けられて、──氷結の──おおきいひと。
「……?」
それはカグラ家の天才児の、枢機への到達の瞬間だった。
『シノちゃんは、どうしてがんばるの? ……つらくないの』
『ううん。つらくないよ! わたし、強くなりたいの。おとうさんみたいに、立派なひとになりたいの』
それを聞いたのは、今ではずっと前のような気さえしていた。返ってきたのは、花
ルークの眼の前で、大きな何かが
ゆっくりと迫る拳を前に、眼の前の女の子の中で何かが開くと理解した。
それは一瞬だった。
真紅の瞳が金色の熱を帯びてより深く、朱色に迸っていっそう輝く。放熱するように、全身から機力の黄金が現出。煌めきの赤が舞い散って燃えた。迫る拳が、加速した。──火天──誰かの大きな背中が割り込んで、それは止まった。
ルークが家に帰り着くと、
「おかえり、ルーク」と、玄関先で響く温かな声。
小さな家の中で三人。セラと、ルカと、ルークが揃って夕飯の準備をする。一般的な未亡人の家庭のように。寂しさはまだ癒えないけれど、幸せを目指して三人で進んでいくのだと、このままずっと、そうであって変わらないのだとルークは思っていた。
けれどそれは、唐突にやってきた。
ドタバタと駆け込む足音。荒々しく叩かれる扉と、ドアの奥に鈍くくぐもって反射する女の声。
今日は842年の、12月二周目。初等学校が終わって、夕飯の準備を終えかけた夕黎の暮れのごろ。
扉の前には、セラフィーナの知り合いの、元総次警大長の女がいた。扉を開けて少し迷って、その女は決意をしたみたいな声で言った。
「セラフィーナ様……アーレント兵団長が……、生きていました」
その日からまた、ルークの世界は変わった。
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