第二章 変化

一、雨の降らない黎闇の刻に

 気付けば第一区の、かなりの敷地を誇る邸宅に着いていて。けれどいつものようには、最愛の夫アーレントは帰ってこなかった。


 錆び付いたみたいな思考が永遠と繰り返して鈍く回る。

 見守っていた戦場で、敵を前に傾いだ彼の姿を見て。復讐に報じるでもなく悔やみ嘆き、ただ泣くだけでその場を後にした。見捨てて逃げて、なのに考えることは「どうすれば良かったのか」ということばかり。

 自分で見捨てたくせに、自分で決断を下したくせに、それでも後悔に囚われる。鎖に巻かれるみたいに重く冷たく、何度も戦場の光景がよみがえる。繰り返して、逃げたことまで糾弾が及ぶ。

 その中途半端加減に吐き気がする。キンキンと耳鳴りがして頭が痛かった。


「……酷いかお」

 死の決戦の夜が明けて。目覚ましに立った洗面台の前、鏡に映る自分の顔は幽鬼のような恐ろしさだった。目元に浮いた黒い隈も、しなびるようにやつれた頬も。

 たった一夜寝れなかっただけなのに。だが、見せるべき相手もいない美貌の維持などもういらないかとセラは思う。

 そのまま水で流して洗面所を出た。


 無駄に広い豪奢な廊下をなんとなしに歩く。すれ違った使用人が驚愕に目を見開き、恐れおののいて頭を下げる。

 どうやら顔が怖かったらしい。すれ違う瞬間、僅かに震えているのを見た。

 無視して歩き続ければ、気付いた時には食堂に着いていた。いつもの癖が出たのだろう。

 特段食欲も無かったが、そのまま扉を開いて中へと入る。

 最初に気付いた娘が、元気な笑顔を浮かべて駆け寄ってくる。それを見て、息子が後に続いた。

「あっ! お母さん! おはよー!」

「おかーさん! おはよー!」

 どん、とぶつかられて、その衝撃にふらつく。そのまま倒れ込んで膝を着いた。

 今の自分は、寝不足と気の滅入りでとことん弱っているらしい。セラはそれを自覚して、けれどなぜだかわらいが込み上げた。

 悪いことをして怒られるのを怖がっているみたいな、シュンと小さくなっている子供たちが目に映る。

 この子達の世界は、アーレントの死だけでは何も変わらないらしい。

 嫌味ったらしくこんなことを考える私は、なんて嫌な母親なんだと、セラは自嘲を漏らす。

 目の前のルカとルークが、ビクリと肩を震わせた。

「……ふふ。……いえ、なんでもないわ。気にしないで。それより二人はご飯を食べていたの?」

「う、うん! お母さんも一緒にたべよ」「たべよ!」

 怒っていないと分かったのか、子供たちの調子が戻った。幼い二人は、まだ何も分かっていないのだろう。子供特有の無邪気な溌剌はつらつで楽しそうだ。

「……そうね。せっかくだしいただきましょうか」



 甦る。

 まるで舞台上の主役が二人。月光スポットライトに照らし出されて目映まばゆい光の中で、歌劇を踊るように白髪の小さな少年と黒髪の大男が立っている。

 周りの全ては暗く隠され、二人の姿だけが強調されて映し出される。

 一瞬の光景。

 死に別れた父と息子。物語の序盤の、眼前にて父親が毒殺でもされて、主人公である子どもが黒く復讐に燃えた覚悟を決めるシーン。

 子どもは父親の亡骸を抱いて嘆き、泣き崩れて言うのだ。

「お父さん、僕が必ず復讐を果たすから……!」

 涙を拭って立ち上がり、既にその表情には決意の黒炎が燃える。

 そして次の幕へと移っていく──。


 それがただの物語なら良かったと、セラは思う。

「おぇぇえぇ……っ……ごほ、ごほっ……」

 肉が出された。その肉を食った。そしてまた甦った。

 地獄の底から手を伸ばしている彼の姿を幻視した。どうして助けてくれなかったのかと叫喚を上げて、荼毘だびの炎に身体を焼き焦がされながら責め立てるみたいに。

 口から垂れた胃液が服に着くのも気にせず、手入れに時間をかけていた長い髪が便器に落ちるのも気にせず。ただ弱々しく謝った。

「ごめん……なさい……っ」

 顔を上げれば、乾いた金の長い髪に塞がれた視界。その隙間から見えた便器の底に、腹から吐き出されて沈んだ肉の塊が見えた。



 ◆



 二週間が経ち、アーレントの葬儀が決まった。彼の遺体は奪われてしまったらしくここには無いが、せめて弔いくらいはしてやりたいと願い、形式だけの火葬と餞をする。墓も立てる。

 世間は今回の大敗北のことで荒れていて、物価の急高騰も始まっていると使用人から聞いた。当然今からは特に金が必要になってくるのだからと、葬儀の延期も提案されたが断った。

 いつまでも帰ってこない父親とあの日以降やせ細っていく母親に、完全な理解まではしておらずとも、遂には幼い子ども達も察し始めた。

 父親を喪って、それでも二人は明るく振る舞っている。時には母であるセラを元気づけようと、色々と考えて花の冠を作ってもくれた。

 そんな健気なさを見て、セラはいつまでも囚われ続ける訳にはいかないと決心し、決別を告げるためにも葬儀を行うことにした。

 それは彼女にとっては、前を向くために必要な儀式だった。


 天を仰げば、晴れているのかいないのか。明らかに出力の弱った障壁が目についた。

 障壁ごと貫かれた三週間前のあの日から、第一区の天を覆う障壁は退色して、かつての黄金色は今では、本物の天の黒に混じられて薄暗く、曇天の空模様になっている。

 雨も雪も降りは落ちてはこないが、障壁のその先を見れば雪は今も降っている。雪は水となって、なだらかな曲線を滑り落ちて消えていく。

「……ねえ、あなた。……あなたは今は、この黒の天の向こうの蒼天を眺めているのかしら」

 御三家と呼ばれる家とその家に属する四つの分家は今、国を落ち着けるために挙って兵団・警団に駆り出されている。だから本家の者も分家の者も、この場にはほとんど皆無だ。そもそも、分家の者達とて、白の悪魔との初戦闘後に殆どが死んで少ない。

 団長位を務めていた者の葬儀とは思えぬほどに参列者が少なく、閑静であるのはそのためだ。

 今は誰もが、余裕のない生活を強いられている。

 その中で、それでも葬儀などという慰めを行っている自分はやはり、卑しいのだろうかとセラは思う。

 急場凌きゅうばしのぎの棺は装飾品なども付かない簡素なもので、中に収められるべき死者の遺骨もない花だけの棺は軽く感じて、それ以上にひどく空虚だ。

 そんな都合などまったく知らない子ども達は漆黒の衣服を纏いながら、不思議そうに棺を見ている。

「おかーさんおかーさん、この箱ってどうするの?」

 葬儀など知らなくても、雰囲気だけは察してか、いつもより静かだ。周りの大人達もセラの様子を見守るにとどめていて、何も声は聞こえない。それが彼女には、ありがたかった。

「──この箱はね、今からこの穴に埋めるのよ。……埋めて、お別れを告げるの」

 よく分かっていない顔だ。どうして、という疑問がそのまま表情に現れている。

 だけれど今は、それでいいのかもしれない。あえて仔細まで丁寧に教え込んで、傷を作る必要もないとセラは思う。悲しみに暮れるのは、妻であり母親である自分だけでいいと。

「ルークには難しいかもしれないけれど、いまはわからなくてもいいのよ。きっとその内に、ちゃんと意味が分かる様になるわ」

「うーん……? ……うん!」

 頭をなでてやれば、ルークはとりあえずはそういうこととして飲み込んだようだ。そのままにぱっ、と花が咲くように明るく笑った。

「それじゃあ、三人で埋めよっか」

 本来なら複数人で持つはずの棺は、しかし今は軽い。

 正法国では、特に高位の者を収める棺は、木の材質や厚さや装飾、その全てを依頼してから作られるのが本来だ。一般的な国民はそれほど金銭も掛けないから、依頼がなければ安物の、材質の安価な薄いものしか置いていない。加えて今は、中身がない。

 だから子ども二人ではさすがに持ち上げることが出来なくても、大人が一人でも入れば十分だ。

「ルカ、ルーク。ゆっくり箱をおろしてね。手を挟まないよう慎重にね」

 ゆっくりと穴の前まで運んで、最後は押して埋めることにした。これは本来のやり方ではないが、子どもが穴に落ちても危ない。今は家族と呼べる親戚の者も他には一人しかいないから、これでも文句は言われないだろう。

 白く塗られた棺の先が浅く掘られた穴に落ちてわずかに傾く。

 ──これで彼ともお別れだ。思い返せば短い時間だった。それが今、終わっただけ。

 視界が揺れた。子どもの前でなどダメだと考えながらも、セラはその涙を抑えられなかった。

「うっ……ひっぐ……ぁ、ぁぁ……」

 嗚咽が盛れる。しゃくり上げて、そのまま地面にくずおれた。ただの石に名を彫っただけの墓石の前で、痩せこけたセラの頬を止め処なく涙が伝う。

 見かねた一人が他の参列者に目配せをして、子ども二人の背を押した。

「ルカリエルちゃん、ルクセリアくん。……少し、離れていよう。先……いや、お母さんを一人にしてあげような」

 総次兵大長を務めていた一人で、グラと呼ばれた男だ。

 最上位の実力を持った総団長すら羽虫を払うが如き気安さで排された、機力も殆どが削られて枢基の威力が出せない戦場。勝手気ままな悪魔の脅威が去ってからは魔の群勢の膨大の残った、絶死の戦域をそれでも生き延びてここにいるシルトヒストリカの系譜の、フェルカの。

 誰とも知らない他人から泣いている母親を放置しろと言われて、ルカもルークも不満げだ。

 それでもガタイの良い男の力で背を押されて、逆らえずにそのまま歩く。

「えーなんで! お母さん泣いてるのに!」

 腕を離せば、そのまま駆け寄っていきそうなほどの勢いだ。

「──ルカちゃんの優しい気持ちは分かるが、大人には一人になりたい時もある。だから、な」

「むー!!! ルカが泣いてたときはお母さんが背中なでなでしてくれたもん! 今度はルカがするの!」

 遂には暴れ出した。……この手は使いたくはなかったが、仕方ない。

 威嚇し怖がらせるつもりで、グラは機力をわずかに高めて言う。

「──ダメだ。いいかルカちゃん。君の気持ちは分かるが、大人は涙を隠したがるものなんだ。誰かに見られているところでは泣けないんだ。彼女には、一人になる時間が必要なんだ。だから行ってはダメだ」

「で、でも……」

 泣き出しそうな顔だ。声も震えていて、恐怖しているのが分かる。

 優しい子だとグラは思う。だからこそ今は、行ってほしくはなかった。

 セラフィーナに限ってそんなことは無いとは思うが、最悪この家族に溝が入る。グラは二人を抱き上げて、邸宅の中まで無理やり運んだ。



 周りから人が消えたことにも気付かないまま散々に泣きはらして、一人になった墓前でセラはしくしくと悲嘆に暮れる。

 そこには名前の彫られた墓石以外に、愛している男の物は何も無いと知りながら。

「……ねえ、アルくん。アルくん……わたしまた、アルくんにあいたいよ」

 それでもセラフィーナは墓石を前に、棺桶の埋められた土に縋った。

 ──どうか嘘であったと言ってほしい。どうか今からでも、わたしのもとへ帰ってきて。

 涙はそれでも枯れずに頬を伝って、後から後から土に染みて消えていった。


 哀切の惜別を乗り越える為のそれは、夕黎の刻まで、邸宅に明かりが灯って夜闇がしんと降る黎闇の刻まで、長く長く続いた。



 雨は悲しみに暮れるあなたを隠してはくれない。冷たくも痛い優しさで、あなたの悲しみに寄り添い、横に立って慰めてはくれない。

 この場に雨は、降らないのだから。



 ◇



「……随分と長かったのね」

 必死になって眠気を堪えていた子ども二人が遂に寝入るまで待ち、念の為にとセラフィーナのことも確認してから屋敷の門を出てすぐ、予想外だったというような声が横から飛んだ。

 いつもみたいな覇気はなく、疲労の滲んだ口調だ。

 休む暇もなく報告書の束が上がってくる彼女はやはり、心労も溜まっているのだろう。いつもなら何があっても外では崩さない兵団の装いが、今は乱れている。身繕いの時間すら惜しいのか、長い黒髪は手でくしけずっただけで毛玉も出来ている。

「……なにかあったのか?」

 ただでさえ忙しい身である彼女が、ここで自分を待つ理由。

「……どうしても伝えたい要件があってね」

 今にでもため息を漏らしそうな口調に、グラはいよいよ嫌な話だと確信した。

 ただでさえ先輩後輩の時代から憧れていた女性が、夫を喪った悲しみにむせび泣いている姿を見せられて気が滅入っているというのに。

 今日はもう、重い話などまっぴらだというのが正直な彼の本音だった。

「……それは、明日には回せないか。情けない話だが、今日はもう、心身がボロボロだ」

「……同情はするけど、そうも言ってられないの。ほんとうに、危急なの」

 焦りが全面に出ていた。追い詰められた獣の鋭敏な眼光。

 傷を負い、痛みに顔をしかめながらも踏ん張って歩いている目の前の女性を見て、いよいよグラも覚悟を決める。

 やらねばならないと思った。だが、続く言葉に頭を抱える。

「──第二防壁のぜんぶを、魔群に包囲されたのが……今日、確認されたわ」

「……は?」

 唖然。

 一瞬、本当に何を言われているのか分からなかった。いや、理解することを脳が拒んだのだろう。否定の言葉ばかりが頭の中を駆け巡る。

「……すまない。言っている意味がわからない」

 壁が破壊されてから一ヶ月近くが経過した。しかし幸いなことに、あの日以降悪魔は一度も降臨しておらず、魔群が侵入してこられるのはだから、未だに北部の壁に抉られた二百メートルの断絶からだけだ。

 第二から第一防壁までの距離は百キロメートルあって、期間は三週間と少し。その間にも当然、兵団は出来る限りで魔群を減らした。

 にも関わらず、包囲はもう完成していると言う。

 正法国は全体領土の半分を奪われ、その内食料生産は第二十三区から第二十七区、第三十区から第三十六区が大半を担っていた。

 ただでさえそれを潰されている。その上で包囲などされて連絡路を立たれてしまえば……。

 とてもでは無いが、第二防壁内の八箇所では食料の生産は追いつかない。

 いよいよ地獄へのカウントダウンの音が、耳に届いてくるようだ。

「……ペルフェリーナ様に頼むことは……予定を繰り上げてまで帰還してくださったのだから、──」

「……御神おんかみは、悪魔や敵対している神のことを考えれば魔群とは戦えないわ。ただでさえお力を消費させてしまっているのに、こんなところで、また消費させる訳にはいかない。……包囲は私達で突破して、速やかに壁を修復するしかないの」

 魔群は基本的には、一隊──八人一組で一つを倒す。大隊長レベルであれば単独で複数体も倒せるが、囲まれれば負ける恐れももちろんある。

 そして今、その戦力はかなりの部分が失われている。司令塔でもある総団長は失った。代理として、眼の前のアイリスと、警団ではキリアが立ったが。しかしやはり、壁が破られるという前代未聞の事件もあって兵団も警団も、内部士気は過去最低だ。

「……」

 静かな夜だ。天は暗く闇に包まれ、国民は先行きの暗澹あんたんに身を震わせて。

 国全体が静まり返っていた。それは弱小の獣の生存戦略のようにも思えた。恐れるように、見つからないように、小さくして脅威が過ぎ去るのを願うみたいな。

 それは死を待つ病床びょうしょうの老人の、最期の瞬間のような儚さにも思えた。

「……最悪の状況が揃ったわけだな」

「……そうね」

 暗黒ばかりを残して、深更は耽る。

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