三、白の悪魔

「「「「「ッッッ────!!!!!」」」」」

 息を吸うのにも、意識がいる。それほどまでに重く伸し掛かる絶対の脅威の、神の降臨にも見紛う物理的精神的圧力の塊。全力展開している機力をも貫通して、それは襲いかかる。

 生物の本能が言っていた。ただ、動くなと。そして、今すぐ逃げろと。

 全力の警鐘が各々の頭の中でやかましく鳴り響く、実際には静寂の降りしきった戦場でそれは、現出した。

 一瞬だった。

 天を衝くほどの巨大の、枯れ腐りの終わりの樹が、一瞬の内に戦場の真ん中に生えた。それは総団長のいる戦域よりやや右手前の、ちょうど、アーレントのいる位置に。

 誰も動けない。何も動けない。物を考える脳も恐怖を感じる肌もない魔群すら、行動を停めて。歴戦の強者も新兵もなく。戦場はここに、完全に支配されていた。

 壁の手前側まで全部含めて、その場にいた者達は心中で絶叫を上げていた。こんなの聞いていない。聞いていたらこんなところこなかった。声が出せていたなら、阿鼻叫喚となっていただろう。

 だがここは、静寂に満ちている。圧迫によって呼吸すら制限された、静寂に。

 やがて竜が産み落とされた。エネルギーの塊のような、二対の翼を持った鯨の躯の砲竜だ。

『『『######────────────────────!!!!!!!!!!!!』』』

 痛いほどの静寂を破り、三体の竜が咆哮。空気の破裂する轟撃となって戦場の地をめる。まっさらな大地が、紫雷の弾ける天空が割れた。現代の人類に初めて、月光が差す。ついでのように、近くにいた大隊長二人と兵団長一人が死んだ。

 しかし、違った。──否。違うということはない。実際にその竜から感じ取られるエネルギーは、今までに産み出されたものより明らかに強い。その竜は今までなら、主格となって君臨しただろう。だが今は、それよりももっと強い魔が後ろに控えている。

 丸く割れて穴の空いた天の隙間から差した、月光に照らさて明るい大樹。天に伸び月光に照らされて、葉が落ちて穴だらけの細枝の、手のような影を落とす醜怪の目立つ、枯れ腐りの終わりの針葉樹。

 その周りを三匹の砲竜鯨が、王の帰還でも待つかのようにゆっくりと旋回している。

 まだ、何かある。

 戦地に膝を着き、しかしそれ以上までは耐えている強者達の、語らずとも一致した総意。しかしてそれは、実現する。

 機力の物理的重圧が増す。吹き荒れる。幹に空いた一際大きなうろの中、白の光が夜をいで眩しく爆ぜた。

 瞬間、ソレ・・はアーレントの目の前にいた。

「おはよう、お父さん! 今日はいい朝──夜だね」

 それは人型をしていた。

 それは人語を介した。

 それはアーレントを〝父親〟と表した。

 それはこの場で最も、あるいは神と並んですら強いと確信できた。


 ──白髪の悪魔がここに、誕生した。──


「じゃあお父さん、お家へ帰ろう」



 月の照らす光が逆光となって、ソレの顔は見えない。しかしソレが、自分へと向けて手を差し伸べている。優しい口調で、慈愛や親愛に満ちた口調で、語りかけられている。

「じゃあお父さん、お家へ帰ろう」

 アーレントには何を言われているのか、何が起こっているのか、まったく理解出来ていなかった。

 戦地に重圧が満ちた。苦戦を強いられるであろう魔群が産まれた。自分達では勝てない化け物が産まれた。そして今、その化け物に〝父〟などとほざかれている。

 ──私はお前の父などではない。娘のルカと息子のルークの、父親だ……!

 勝てなくてもいい。だが、勝つ。そのつもりで殺す……!

 機力を満たし、気概を奮って立ち上がった。機装を転換するまでの時間はもう、十分経過している。

「──転換・楓葉ふうよう太刀影たちかげ──武装『浸染しんぜん花散り』」

 敵の上背は自分よりも小さい。よわい十から十二、三程度の子どもだ。見下ろして定め、その首へ向けて技を放つ。

 白髪の人型の、顔が上がった。逆光の影が晴れ、その表情と容貌が顕になる。

「ッッッ──!!! 、ッ!───かざ……──」

「お父さん。やめて?」

 それは紛れもなく、息子の、ルクセリアの顔をしていた。ただ髪色が、白くなっただけ。

 その顔が言う。攻撃しないでと。首をかしげながら、どうして攻撃されるのか分からないと。

 だがこれは、殺すべき敵だ……!

「──きりの雲・千……」

 千刃の込められた風の剣の一撃が頸へ届く寸前、アーレントの視界が黒く闇に包まれた。見ることも叶わない一瞬だった。



 白髪の人型がアーレントの前に立った。彼の体から気力が吹き荒れ、白光の輝く風の剣が握られた。一瞬だけ勢いが減衰し、再度力が込められて。

 そうしてなぜか、アーレントの体がかしいだ。

 まるで舞台上の演出のように、それはゆっくり見えていて。月光によって、それはハッキリ見えていて。

 セラフィーナも知らぬままに、間抜けた声が漏れた。

「──ぇ?」

 この場にいれば、子ども達まで凶刃に晒されることになるかもしれない。『責任をもって守り抜く』と約束した。母親としての本能でも、死なせてはならない、この場から早く逃げなければならないと理解している。しているが、針葉樹が戦地の真ん中にデカデカと生えた瞬間から、もう、動けなくなっていた。

 そして今は、目を逸らすことが出来ない。

 ──奪われる。

「ぁ、あ……」

 機力も残りカス程度しかなく、莫大な威力を持った技はもう繰り出せない。その場へ行ったところで、羽虫でも払うみたいに蹴散らされて終わる。

 理解している。『何があっても』と約束をした以上、今は子ども二人の命を優先しなければならないということも、ちゃんと理解している。

「あ、ああ、ぁ……」

 涙ばかりが溢れた。

 現状のセラフィーナには、『小さき我が子を捨てた上での夫との情死』か、『愛する夫を切り捨てた上での逃亡』しか選べない。

「っっっ──……!!!」

 あまりにも無力で情けのなく、なんの役にも立てない無能だった。



 心折れるほどの強大を前にして、それでも息子は立ち上がった。死力を尽くしてでも、その雁首がんくび目掛けて剣を薙いだ。

 ──情けない。息子にも気概の劣るこんな為体ていたらくで、何が執行兵団を束ねる総団長か。

 このまま寝ていることなど、許されない。老い先短い命の使い道など、ここに無ければどこにある。

「オアアアァァァァァ!!!!!! 息子を奪わせはせんぞッ! 化け物風情がッッッ!!!」

 奮い立って、咆哮一発。白の悪魔の視線が、兵団総団長へ──『竜殺し』と称された歴戦の古兵ふるつわものへと向いた。

 ジークフリートと白の悪魔との視線が一瞬、交錯する。

 ──せめて息子だけは、取り返す……!


 七色硝子ステンドグラスに射し込んだ光が乱反射して、荘厳美麗の神殿を満たす。

 祝福の鐘が都市全体へと響き渡り、空には白鳩が飛び交って花弁が舞う。

 神が御座する神殿の中、敷かれた赤いビロードの絨毯の上を、純白の装束を纏った主役の二人が笑顔で歩く。

 先輩後輩の関係で、壁外征伐の際も喧嘩ばかりしていたという二人。水と油のように反発しあっていたのが遂には結ばれ、支えあっていくことを決めて共に歩んでいる光景。光に満ちた、幸せの絶頂の。

 顔を合わせる度に荒れ狂う野良犬だとか、敵発見即突撃のルーンカヴェルフェの脳筋女だとか愚痴っていたのが、今では愛に満ちた表情で見つめている。

 キスをする瞬間。お互いに初々しく、赤くなりながらも接吻と抱擁を交わして、皆に祝福の言葉を掛けられていた。

 アーレントの妻となったセラフィーナは、それからも常に幸せそうな表情で、息子を心から愛しているのが伝わった。

 これが幸福。妻に先立たれて枯れていた中での、それは正しく干天の慈雨。もう一人の娘。

 ──泣かせてなど、なるものか……! 見ていろ、これが『竜殺し』の力だ……!!!


「ふふ、ははははははは!!! これがぼくだ! さあさあ! 天高く仰ぎ見ろ!!! これこそが新時代の幕開け!!!! ここからがぼくの楽園だ!!!!!」

 胸から引き抜いた手のままに、狂信者のような殉情の笑い声で、両腕を大きく広げて月光を浴びる。スポットライトを浴びた主役の如き様相で、世界へ向けて宣言した。

 その目の前で、心臓を貫かれた死にかけが倒れる。

「ぐぉ……ぁ……」

 三十余年も兵団総団長として君臨し続けた傑物の最期は、眼中にも収められなかった。価値もないゴミ同然の、服に着いた塵でも払うかのような手軽さで殺された。

 それを見、戦場に出ていた者達が一斉に動く。

「「「「「うおおおぉぉぉぉぉおおおおおおぉ!!!!!」」」」」

 己がゴミのように殺されたのだとしても、せめて誰かの盾にはなって、ただ目の前の脅威を排除する。

 ここで倒さねば、壁は全て破られる。

 だからここで、必ず……!

 悪魔へ向けて、大地が隆起。幾個にも伸びた岩塊の槍が、急襲の幕切りと視線を封じる役目を果たす。

「──迅雷ッ!!!」「──劫火炎!」「

「──霧花!!」

「──真撃ィッッ!」

「──神楽」

 轟雷に弾け火炎が昇り、香る霧粉が立ち込めて、大質量のエネルギー砲弾が垂直に落ちて。氷の霜が風の刃が、魔群の影が、眩く輝く光線が、深淵の闇が、水落の海洋が。

 一刀の下に、総てを灰燼へ滅する炎天の閃きが。

「──おい、おまえたちは正義ってやつが大好きなんだろ? ぼくはその正義の体現だ。ひざまずけ」

 軽くとん、と地面が蹴られて、中空からの睥睨。一つ衝撃が、駆け抜けた。

「「「「「ッッッ……!!!」」」」」

 無の絶叫が木霊する。超重力の撃圧を以て戦地に縫い付けられた者達の、無念の呻き声。

 機力の大部分が消失し、技を維持するだけのエネルギーが断絶された。それで再び、静寂がしんと降る。


 誰も声を発せず動くことすら叶わない沈黙の戦場に、響き渡るのはどこまでも陽気な底抜けの、白髪の悪魔の狂ったような笑い声だけ。

「あは……あははっ、あっははははは!!!!!」

 唯一地を踏んで立った強者の影。

 穴の空いた黒天が遂に覆われ、月光が途絶えて闇が帰る。

 悲願として目指していた、本来ならば黒く鎖されて見えないはずの、けれど一筋眺めることの叶った月の光がまた隠れる。

 希望を覆い隠すのは、あまりにも大きい絶望の闇。眼前に立ち塞がったのは絶対的強者で、それは恐らく神にしか凌げない。

 地に伏した彼らを前に、一向に動かないアーレントを担いで踊り舞う狂気の笑顔。その暴力を極めた理不尽の権化にとって、人間など所詮は、有象無象の見るべき価値もないゴミだ。

 気に留めることなどなく、ただ自由に。歩き、踊り、舞って、笑って。

 だから下等の者どもはそれを、見ているだけしか出来ない。

「あ、そうだ。そういえば約束してるんだった」

 悪魔の呟き。

 ふざけた緩い顔で、買い忘れの物を買いに店へと引き返す程度の手軽さで。

「──神撃」

 世界から音が消え、目が焼けるように白く染った。視界が戻ればそこには、神の恩恵たる障壁ごと一緒くたに抉り壊された、崩壊した防壁の姿があった。

 数千年と続いた仮初の平和の壊された瞬間に、それを破った破壊者は大口を開けて欠伸をしていた。

「──あぁー……、眠い……。……お母さんは、またこんど……」

 白の悪魔が天衝く針葉樹を呑み込んでそのまま姿を消して、重圧から解放された強者達が立ち上がった。



「なん、だよ……なんなんだよ、コレは……」

 今にも泣き出しそうな警団総団長の副官の男の、弱々しい嘆きの声。迷った子どもの様で、軋む心を痛く呻いて切々の想いが詰められたその慨嘆の声は、立ち上がってその光景を見た者達も同様に抱いたものだ。

 彼らの目の前には、鼻歌でも歌うかのような気軽さで平和の為の壁に抉られ残された、直径にして二百メートルほどの崩壊の痕がある。

「……ッ!」

 遥か空からぶち込まれた、想像も絶する一撃。何が起こっているのかも分からなかった。攻撃を届かせる以前に、立ち上がることも動くことも出来なかった。

 力の隔絶。そもそもの存在の格が違った。──神に抗うことなど、同格の神にしかできない。だから人間である自分達は、端から頭を垂れてつくばって、ただ道を譲り、殺されるままに殺されていればよかったのだ。

「──そんなもの……、そんなもの、だれが認められるか」

 地獄というものがあるなら、今のこの光景の、更にその先にある。キリアを含め、なまじっか考える力のあった者達はもう、察していた。

 晩産を終えて発生が止まったとはいえ、後ろに未だ残っている魔群の膨大。殲滅するだけの力を欠かされたボロボロの自分達数十人と、恐らくは心が折れているであろう経験の浅い者達。壁が穿たれ、しばらくは絶死の極寒に晒されるであろう最外層の北部都市の人々。そして、そのまま死んでいく民衆と子ども達。魔群を排し続けて摩耗していく、執行機関の仲間たち。

 壁を取り戻すまでは、最外層の人々は中央へ避難することになるだろう。そうすれば当然、食料も圧迫する。

 もし、壁を取り返すことが出来なかったら。高潔とある正義の国の民が隣人を殺し、食料を奪って生き延びるなどという悲劇が起こる。それも無くなれば今度は、──……待っているのは、共喰いの道だ。


 キリアが歩く。

 今はとにかく、みんなが従える絶対の指揮官が必要だ。

「……総、……だん、ちょ………ッ」

「……キリ、ア……か。はは、は……すまん、な…………あと、は、……たの…………」

「なん、で……なんで、こんな……、」

 そこには、右半身の無くなったシンカの姿があった。

 悪魔が適当に、気の向くままに歩くだけで総団長が二人も死んだ。目的は分からなかった。けれど恐らく、最初に視認し、父と呼んで連れ去られていったアーレント兵団長の犠牲を黙認していれば、こんなにも死人は出なかった。

 それはあまりに残酷で惨たらしい現実。


 それは、無駄死にだ。


「……こんなの、あんまりよ……」

 全軍の統率を執れる指揮官は戦死。魔群の残党は膨大。天にもまだ、竜が残っている。にも関わらず壁は崩れ、これから多くが死んでいく。

 ──私たちはいったい、どうしたらいいのだろうか。

「……だれか……、……だれか、たすけてよ……」

 魔の郡勢が驀進ばくしんを始めた。




 その日、二名の総団長、三名の兵団長、四名の警団長、二十二名の兵団大隊長、二十九名の警団大隊長が一度に殉職した。加えて、行方不明となった兵団・警団両員は六百五十を超え、死亡が確認された者は千に上った。たった数分で、死んだ。

 そして同時に、数千年と人類の生存領域を守護し続けていた壁が破られた。それにより第二防壁よりも奥、第十八区以降の地に居住していた法国の民は住処を奪われ、防壁の聳える内側の地へと殺到。

 この一件により、食糧問題や避難民の住居問題、失業者の再雇用や精神病を患った者への治療対応、兵員の補填、両親を失った子どもへの対応など。様々な問題が一度に上がる。

 正義に悖る行為は許されず、よって国の滅びを回復するには領土を奪還するしかなかった。


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