一、パーフェクトゲーム

 神は言った。『皆が自由に、平等に、公然と穏やかに、そして正義の国の民である自覚を持って生活をし、己に足りていない部分を他の誰かと補い合うことが出来たのならば、きっと皆が幸せな生を謳歌することの容易に叶う、そんなすばらしい国家となるだろう。私はそんな幸せの国を、皆とともに創ってゆきたい』

 それからすぐに、神に呼応するようにして正義の国の、民としての思想理念が出来た。

『正法国の民なれば常に誇り高く在れ。己を律し、戒め、神法は当然に遵守すべし。隣人が困っていたのなら、手を貸し共に歩むべし。他者を個人として尊重し、決してその権利を侵犯することが無きように努めよ。我らの神が保証してくださっている個人の人権を意図的に害する行為──すなわち人倫を損なう行為は最も恥ずべき大罪であり、同時に神を侮辱する反逆的業罪と知れ。そしてまた、犯した過ちは即座に正し、正された過ちは寛大に許容すべし』

 理念を現す正神旗は、かつての蒼天と、神の降臨の光と翼と法輪の前に、一振りの剣が描かれたものだ。

 神の下に、『自由』と『平等』と『安穏』と『未来』保証されていると示す旗だ。



 いつか、天が堕ちてから。時代は流れ、幾星霜と移ろって、842年9月第二週の現在。世界が瘴気によって暗く鎖され、魔群という神と人類の敵が蔓延るようになってから幾千年と経過した。そして人々は生存圏を奪われ、小さな壁の中へと押し込められた。

 けれど執務室から見えるユスティリアード正法国の都市・パルフェは、そうとは思えぬほどに盛んな活気でいつでも賑わいを見せている。小さないざこざを除けば、国家の治安維持組織──執行警団が出張るような大事件など一年に一、二件あるかどうかという程度には平和で穏やかだ。

〈正義の神〉がそうあってほしいと望んだ通りに、正法国は尊重と思いやりの精神で溢れている。また同時に、都市内部の街並みは神と民の高尚高潔な精神をそのまま現実に表したかのように美しい。

 メインストリートは精緻な石畳で整備され、広々とした道の脇には剪定の済まされた街路樹の緑が青々と繁っている。街を歩いている人々の顔に不安や恐怖などといった気配はなく、むしろ彼らの表情を彩っているのは幸福や笑顔などの好感情ばかり。

 子ども達は元気に走り回っていて、カフェのテラス席では将来について語りあっている学生達の姿が見える。それはいつもの、そしていつまでも続いていく光景だ。

 他者を愛し、他者からもまた愛される自由の国こそ、〈正義の神〉が慈愛を持って統治するユスティリアード正法国だ。その治安を維持し、人々の笑顔が曇ることのないよう務める警団の総団長位には、だから誇りをもっている。

「シンカ総団長、いつまで街を眺めているおつもりですか」

 声に振り向けば、副官のキリアだ。理知的で赤縁メガネの似合う、僅かに朱の混じったポニーテールの黒髪の女性。お小言も多い真面目タイプだ。

「……ノックをしろと、いつも言っているだろう」

 その両手を目に入れないようにしながら文句を言う。あわよくば、その書類の山を押し付けられないかな、などと期待しながら。

 しかしやはり、意味はなかった。

「……二度ほど繰り返しましたが? まさか聞こえておられなかったわけではないですよね」

 ──いつまでも遊んでんじゃねぇぞ。

 妙な圧力を伴って発された言葉に、シンカは墓穴を掘ったと後悔する。

「い、いや……」

 総団長を務めているだけあって、彼の力量は人類の中でもかなりの上位に位置している。それは齢六十という隠居をしていてもなんらおかしくはない年齢で、それでも現役を貫いているバイタリティーからも伺える。だがなぜだろう。彼は二名の副官と妻と娘と孫娘の圧力に敵ったためしがない。その内孫娘は、今年で六才だ。

 苦く言い淀むだけの総団長を見かねてか、副官はため息を一つ吐いて言葉を続ける。

「いくら年中暇続きの警団とは言え、来月は兵団の壁外征伐と神ペルフェリーナ様のご帰還が重なるのですから。今から遊んでいたのでは、当日を迎えて慌てることになりますよ」

「あ、ああ。もちろん分かっているとも」

 キリアの雰囲気が軽くなったことで、シンカはホッと胸を撫で下ろす。

「しかしな、我々の仕事の成果がしっかり現れているものかと、ついつい街の様子を眺めてしまうのだ」

 至上と崇める神に任されている仕事だ。手を抜くことは出来ない。

 だが。暇は暇なのである。退屈なのである。だって、この執務室には小鳥くらいしか訪ねてこないのだもの。大きな事件もないし。

「ソレ、言い訳も含まれていますよよね」

 察したらしく、鋭い指摘が飛んだ。

 だがしかし。直接的に魔群という脅威を排する役目を担った兵団とは違い、もともと治安の良い正法国の壁内では警団は、暇を持て余していることがほとんどなのだ。さすがに職務中にカードで遊び始めたり酒を飲み始めたりする不真面目な者はいないが、巡回をしている者が市民と長時間にわたって話し込んでいる、などという光景は日常のものである。

 それくらいには国内は平和だ。

 だからと言って大事件が起こればいいだとか治安が悪化すれば良いなんてことは思わないが、それはそれだ。

「……退屈はごまかせない。ならば警団の仕事っぽく、街の様子でも眺めて暇を潰していたほうがよっぽど有意義だとは思わんかね? ……思うだろう? 私は思うぞ」

 開き直った。それはもう堂々と。いっそ清々しいまでに。もはやここまで来たなら、シンカには怒られることなど覚悟の上だった。

 しかし副官は、その返答も読んでいたとばかりにニッコリ笑顔を浮かべている。

「そんな総団長閣下に朗報です。……コレの処理、頑張ってこなしてください。期間の定めはそれぞれに記載してありますので、そちらご参照ください。では私は、現在話題の中心となっているパルテナのケーキでも食べてきます。お疲れ様でした」

「……私に仕事を投げつけ、自分はスイーツを楽しみに行くのかね。あまつさえそれを私の眼の前で公言するなど、君は少し──いや、かなり私のことを甘く見ているようだな」

 総団長という役職の位の、威厳をもう一度理解させるためにも。ここは少し教育を施したほうが良いだろうと、シンカはおもむろに立ち上がる。そのまま冷蔵の棚の前まで進んだ。

 暴力など使う必要はないし、そもそもそんなモノは正義の理念に反する。では何をするのかと言えば────

 そこでキリアが、大仰に手をたたき合わせて見せた。

「あ、そうでした」

 何をしようと今更無駄だ。この手だけは使いたくなかったが、己の自由のためには仕方があるまい。

 謀略に笑むシンカを、しかしキリアは満面の笑みで見ている。

「先ほど孫娘様に偶然お会いしましてね。おじいちゃんに〝コレ〟を渡してくれと、可愛らしい手紙を受け取ったのです。ついつい忘れてしまうところでした」

 キリアは基調の白色に紺色の混じる、女性用制服のポケットから一枚の紙を取り出した。そしてその紙を、満面の笑み──否。勝ち誇ったような笑みでひらひらと横に振っている。

 ──この女、意図的に隠していやがった。

「……ふん。私が、この私が、いくら孫娘からの手紙とは言え、それだけで靡くとでも思っているのかね。そうだとしたなら、君はやはり、私のことを甘く見ていると言わざるを得ないな」

「あっ、それは失礼いたしました。しかし困りましたね……」

 わざとらしく柳眉を寄せて、直接的に困ってしまった、と表現するような表情だ。

 それを見てシンカは思う。……こいつはダメだ。早くなんとかしないと。

 長年の勘が告げている。この先を言わせたら自分が負けると。鬼札を切るなら、やるしかない! 今! ここで! この瞬間しかないのだと……!

「キリア、よく聞きなさい。実は君が喜ぶだろうと思い、パルテナ作のイチゴのショートケーキを今朝方に買ってきたのだよ。……よければ食べていかんかね」

(──勝った。──計画通り。)

 勝ち誇ったニヤケ面になるのをグッと堪え、紳士的な、それこそ本当に「副官である君に、日頃の感謝の気持ちを伝えるために用意していたのだよ」と言っているように聞こえるような慈愛に満ちた笑顔を浮かべて見せる。

 これはたまたま・・・・買っていただけのものだ。それこそ出勤時にカフェの前を通りかかり、気になったから買ってみた、程度のもの。

 だから別に計画通りでもなんでもないし、そもそも今日、副官が大量の書類を持って執務室に訪れるなど想定していなかった。しかし今この場には、自分のために買っていたケーキが二切れほどある。

 一切れ分を食べられなくなるのは惜しいが、背に腹は変えられない。書類の山を食べることになるよりマシだ。

「……ッ」

 副官は顔を伏せ、プルプルと肩を震わせている。その様子を見て、シンカはさらに勝利の確信を強めた。

「どうしたのかね。今から食べに行くのだと、先程言っていただろう? 日頃の君の勤勉をねぎらう意味もあるのだし、遠慮する必要はないのだよ?」

 ──食えクエ。そして書類の数も減らせ!

 


 眼の前には、「やってやった!」という喜色に満ちた表情を隠しきれていない総団長の姿がある。おそらくは彼の中では、ケーキ一切れで書類の山を相殺出来るつもりでいるのだろう。

 なんとお可愛いこと。

「どうしたのかね。今から食べに行くのだと、先程言っていただろう? 日頃の君の勤勉をねぎらう意味もあるのだし、遠慮する必要はないのだよ?」

 今も鼻の穴をピクつかせながら、渾身のドヤ顔を発揮している。

 彼は今、私がケーキの誘惑と戦っていると考えているのだろう。しかしそれは間違いだ。

 確かに私が総団長のものを食べてしまえば、その弱みに付け込まれる可能性は極めて高いだろう。が、ここで食べたいケーキを強奪できないようでは、総団長の右腕を長年務め上げるなど無理というもの。

 ──さあ、私の手腕にひれ伏しなさい。



 副官が、ニッコリ笑顔で、伏せていた顔を上げた。百戦錬磨のこの副官が、キリアが、この程度で諦めるものとも考えられないが……しかし。

 ──違和感。いや、これでいい……! 私はこのまま、〝私のケーキ〟をキリアの食わせるだけで勝てるのだから。もう何も迷う必要などない。

 少しばかり揺らいでいる自信を取り繕い、泰然と問いかける。

「食べるかね?」

「はい。ありがたく頂戴したします」

 ──勝った! 俺の勝ちだ!!!

「そうか! 食べるかね! よしよしよし、では私はケーキの準備でもしておこうではないか!」

「ええ。では私は、お茶を淹れておきますね」

 


      ◇



 書類の山は一旦脇に寄せて、休憩がてらにケーキを食した。さすが急激に人気を獲得しただけあり、食後の後味に至るまで、すべてがしかと纏まっていた。甘さもこれなら、くどくはない。そして何より、勝利の味が大変に美味だった。

 眼の前の副官を一瞥すれば、上品にも優雅に茶を啜っている。

 飲み終えるのを待っていると、カップがソーサーへと戻された。

「ケーキ、ごちそうさまでした」

「いやいや、構わんよ。ところ──」

「お茶を頂いている時に思い出したのですが、そう言えばシノハルちゃんからは、〝おじいちゃんのために〟作ったという可愛らしいアクセサリーも受け取っていたのでした。こちらも渡しておきますね」

 ──なにか、大切なものを見落としたか……? いや、だが……。

 ここに来て新たに切られた手札。しかしシンカにはもう手札は残っていない。ここから更なるなにかが加えられれば、ケーキの分を帳消しにしつつ、書類の処理までやらせるなどというパーフェクトゲームを達成されてしまう可能性がある。

 己のケーキを代償に捧げた以上、シンカの心情としては、少なくとも書類の半分は食ってもらわねば困るのだ。だからこれ以上は、黙らせなければ──

「あ、そうそう。シノハルちゃんは、総団長のことを尊敬していると仰っていましたよ。なんでも、いつも皆のために頑張ってくれていてすごいと思っているのだとか」



 神の恩恵によって差した陽光の明るい執務室では、カリカリカリ、と絶え間なく万年筆を走らせる音が響いていた。黒壇のシックな机の両脇には膨大な量の紙の束がこれでもかと積まれていて、出口の前のソファには紅茶を啜る監視者が、一人いる。だから逃げることも叶わない。

 そもそも、束縛の呪──可愛い可愛い孫娘の、想いの詰まった特級呪───喜ぶべき労りの手紙と、これまた喜ぶべき言葉があるから彼は逃げられない。ここで逃げればチクれれて軽蔑ルートまっしぐらだ。

 それは嫌だ。──いつまでも尊敬されるカッコいいおじいちゃんで、俺はいたい!

「──それはそうと、キリア。最近なにか問題は上がってきていないか?」

 難しそうに少し考えてから、副官が言う。

「そう……、ですね。強いて挙げるのならば、執行兵団からの報告書、でしょうか」

 兵団の魔を討つ剣の紋章がついた紙を取り上げる。『直近の魔群の動向』と題されたものだ。

「……たしかに、増えているな」

 確かに全方位の戦線で、魔群の発生・往来の頻度が微増している。

「はい。しかし壁外征伐が終わってから時間も空いておりますし、何より今回の征伐の期間は予定より四日短縮されておりました。なので、奥地にいた魔群が徘徊してやってきた、と考えれば一応の筋は通ります。それに……」

「それに、増加とは言ってもかなりの微小だな」

 丁寧に作成されたグラフを見れば、どの方角も三から六、七ポイント程度の緩やかさだ。

「ええ。それこそ、しっかりと魔群発生の実態と討伐を記録してグラフを細かく作成するようにしていなければ気がつけない程に」

「〝たまたま〟で流すことも出来るが……──キリアはどう考える」

 長い目で見ればなんらおかしなことは無いし、過去にもこういった事例はある。しかしやはり、なぜだか少々引っかかる。

 そのわずかな不快を、彼女も感じていたのだろう。問いかけには迷う素振りもなく答える。

「はい。警団はどうせ暇なのですし、こういう時くらい使っておいても良いでしょう。もし無駄になったとしても彼らの勘を鈍らせないための訓練という口実にはなりますし、何より、仕事を与えられれば喜ぶことでしょう」

「ははは。確かにその通りだ。──よし。それではこの件は、全てキリア・カゼナ総次警大長に任せる。君の思うように警団員を動かせ。団長位への司令権限も授与するので、法器も持って行くといい」

「はッ! この任、キリア・カゼナが承りました。最善手にて処理いたします。それでは、失礼いたします」

 腰を直角に折り、右手を左胸へと水平に当てる警団式の最敬礼をし、キリアは部屋を出ていった。

 それを見て、シンカは少しの苦みに顔を顰めた。やられた。それが今の所感だった。

 本件に関する捜査と指揮の為の、総団長の許可と法器──警団における最高位の指揮権限を現す徽章を受け取って、すぐに退室した様子を見るからに初めからコレが本題だったのだ。

 そして彼女は、見事にそれを手に入れた。あまつさえ、直属の上司のデザートまでをも手に入れて。もしかしたらそんな茶番ですらも、彼女にとっては計算の内だったのかもしれないが。

「……やれやれ。優秀な部下を持つと大変なものだな」

 ──楽しみのケーキも強奪されることだし、今回のように全て手のひらの上で踊らされるなんてこともあるのだから。加えて、突き上げのプレッシャーもなかなかのものだ。

「……ふぅ。──……──書類が多いな……」

 書類の内容はやはり、先月の決算書の確認だとか区画毎の治安の報告書だとかがメインだった。ルーンカヴェルフェ家とその分家が爆発した、なんて報告書も一部混じっていた。

 執務室の近くを通った者達が昼頃の食堂で、総団長閣下の絶叫の声を聞いたとかなんとかで語り合っていたとか、いないとか。


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