3

初めて、自分の顔が醜いと知ったのは小学校の四年生になったばかりの頃だった。

 茹で上がってしまうような暑さの八月の御盆で、おばあちゃんの家に親戚が集まっていた。私以外のいとこはみんなで外にで遊んでいて、私は家の中で持ってきていた本を一人、仏壇のある部屋で読んでいた。すると、大きな足音を立てて、伯父がやって来る。私の姿を見た伯父は鼻で笑いながら言った。

「そんな所で一人で寂しいな。お前、みんなと遊ばないのか」

「本読むからいい」

 言われた言葉と言われ方が癪に感じて、私は冷たく伯父に返答をした。

「……お前、愛想ないな。ブスなんだから、少しは笑えよ」

 この言葉は棘となり私の脳を傷つけて、このあとの私の人生をめちゃくちゃにする。


 毎晩、眠る前に洗面台で歯を磨く。丁寧に磨いて口を五回ゆすぐ。濡れた手と口をタオルで拭いて、私は鏡で見える自分の顔をじっと見つめる。見たって変わることもないし、醜いままだけども、私は自分を確認してしまう。

 小学校六年生にもなると、同じクラスの女の子の中で身なりを理由に階級が発生する。綺麗でスタイルのいい子と醜くてずんぐりむっくりな子。男の子からの扱いはひっそりと態度に現れて、クラスにはじんわりとスクールカーストが生まれていった。みんなそのカーストに順応していたり、気づいていなかったりする。でも誰も逸脱しようとしたりしない。だから、私のクラスでは目に見えるようないじめはない。

 後者である私はひっそりと、静かにしている。そうすれば醜くてもクラスから排除されることもなく過ごすことが出来る。だから私はなるべく優しく、穏やかで、愛想のいい女の子でいるようにしている。顔が醜いから。

 ブス、そう言われてから私は他人の顔をよく見るようになった。綺麗な顔、醜い顔、何が違うのか、明確な分別は分からない。けど、それはしっかりと人間の価値を定めるのに使われている。

 「この世で一番美しいのは誰?」と聞かれても分からない。けど、クラスで一番綺麗な顔は誰と言われればすぐに答えられる。

望くんだ。望くんは男の子だ。男の子に綺麗という言葉を使っていいのかわからないけど、望くんの顔は綺麗だと思う。

顔のパーツは全て適切だ。目は二重でアーモンド形、大きさも顔のサイズに合わせて丁度いい。鼻も小ぶりで筋が通っており、主張はしないのに確実に顔に彩りを加えている。口も口角が少し上向きで、閉じてもいいし、綺麗な歯並びが見えるから口を開いて笑ってもいい。

 顔のパーツもいいが、付いている位置も良い。目も鼻も口も、全てが適切な位置で一つも間違った場所にない。女の子で一番綺麗だと思うあかりちゃんでも、彼の顔には勝てない。望くんは、綺麗だ。

 私は望くんの顔を思い出しながら鏡に映る自分の顔を見つめる。私の顔のどの部分が醜いか正確に言うことができる。詳細をあげればきりがない、けど望くんの顔とは、正反対ということだけがはっきりわかる。

 時々、私は自分が化け物の姿をしているのではないかと錯覚してしまう時があった。綺麗な子の隣に立った時、授業で男の子とペアになった時、道行く人に顔をじっと見られた時。私は今、人間の姿をしていなくて、本当は醜い化け物の姿をしているのではないか。毛むくじゃらの目は小さいのに口が裂けるように大きく、鼻も尖ってて、全部のパーツが変な所についているような、醜い化け物。

 だから、私は毎日、自分が人間の形をしていることを確認するため鏡を見る。確認が終われば、私は自分の部屋に向かう。

 私の部屋には、祭壇があった。最初はそれが祭壇だとは思っていなかったけれど、祭壇という言葉を知って、それが最も適切だと思った。

 私の部屋には、壁の一面に二つの天井まである大きな本棚がある。そこには、これまで買った本が埋め込まれており、残りスペースも四分の一ぐらいしかない。あと二年ぐらいで、すべて埋まってしまうだろう。

 その片割れの本棚の上から四段目のところに、一冊の本が表紙を正面に向けて飾ってある。他の本は全て、背表紙だけど、その一冊だけ、表紙をこちらに向いて置いていた。私がその前に立てば、顔の部分にちょうど、その本がある。

 私は毎晩、その本の前で指を組んで祈る。静かに心の中で呟く。

 『明日も、化け物になりませんように。』

 祈りをささげるために、一冊の本を祀っているのが、私の祭壇だった。

 祈りを終えて、私はやっと眠りにつける。


 休み時間に、図書室に行けば、図書室の先生が声をかけてくれた。

「佐藤さん、先月も学校で一番の貸出数だったよ、すごいね」

 図書室の先生は綺麗で優しく、いつも来る私を気にかけてくる。お礼を伝えると、新しく本が増えたことを教えてくれた。新刊の本が置いてある棚の前に移動し、その中から気になる本を手にとり、最初の一行を確認する。

 本が好きだった。だって読んでいれば楽しいし、色んな人の考えを知ることができる。その上、先生やお母さんも褒めてくれる。けど、一番の理由は、いなくなることができるからだった。本を読んでいれば、図書室にいても、教室にいても、自分の部屋にいても、私はその場からいなくなって、どこへでもいける。本の中の魔法使いの、勇者の、動物の近くで、彼らを見つめることができる。それは私にとって代えがたい幸せだった。

 だから、今日はどこへ行こうかと思って、本を探す。

 手にとった新刊の本を持って移動する。海外の児童文学が並んでいる本のコーナーにいれば、近くに人の気配を感じた。

 振り返れば、そこには朔くんがいた。

 一つ年下の五年生の男の子で、望くんの弟だった。私と同じようによく図書館にいて時々、話す仲だった。

「こんにちは、朔くん」

 笑いながら挨拶をすれば、朔くんは少し頭を下げてそれに応えた。

 朔くんも望くんの弟ということもあって、綺麗だった。ほぼ、望くんの生き写しといっていい。けど、一つだけ望くんとは違う部分があった。

朔くんの一番の特徴は目だった。

一目見たとき、その目の大きさに驚いてしまうくらいには、顔の中で一番目立っていた。瞳も大きく真っ黒で、初めてじっくりと見た時、その瞳の中に宇宙を飼っていると感じた。きっとその目でじっと見つめられたら大抵の人が怯んでしまう、そんな目だった。

 日焼けしている望くんとは違う、色白な朔くんの腕は細くて服の上から見てもぽっきりと折れてしまいそうに心もとない。身長も低く、私と頭一つ分ぐらい違う。

 そんな朔くんが、顔をあげて私をその瞳でじっと見つめた。朔くんは言葉じゃなく、目で会話をする時がある。それだった、何か話がある時、朔くんがする仕草だった。

「どうしたの?」

 私が聞いて、朔くんはやっと話だす。単語と単語がくっついただけの、脈略のない文章。私は一つも取りこぼさないように耳を澄ませる。

 静かな声で語られた内容を整理する。「井出さん」と「変」と「タクミくん」と「意地悪」という単語を組み合わせて理解した内容を朔くんに問う。

「……じゃあ、その井出さんっていう女の子が「変」で、タクミくんって子に意地悪されているの?」

 朔くんは頷いた。「そっか、そっか」と返答しながら、井出さんという子を思い出す。あの子だ、一つ下の学年の女の子。

「井出さんって、背の高い、女の子だよね。朔くんのクラスで、背の順だと一番後ろにいる…」

 朔くんが頷いて、私は確信する。あの女の子。いつも男の子みたいな恰好をして、髪も短くて一目みて男の子と間違えてしまいそうなあの女の子。

 学校ですれ違うたびに密かに目で追っていた。その度、なんで容姿に恵まれているのに、そんな恰好をしているのか理解できなかったから。背も高くて、顔だって望くんまでいかなくても、整った顔なのに、わざわざ普通から外れるような、そんな変な恰好しなくてもいいのになんてずっと考えていた。

 だから、私はそのタクミくんの気持ちがわかってしまう。だって、おかしいもんね、そんな子がクラスにいたら、嫌だよね。

 けど、目の前にいる朔くんは、そんなこと一切わからないような顔をして、私に問う。井出さんは何にも間違っていないのに、タクミくんの方が間違っているのになんて顔をして。

 朔くんはきっと、井出さんの恰好なんて一切気にしていない。そういう子だった。

「じゃあ、あの本を読んでみればいいよ」

 私は一冊の本を朔くんに渡した。かっこいいになりたい女の子、周囲の人の声に負けてしまう女の子、かっこいいにはなれない女の子の、話。

井出さんが排除される理由が読めばわかる。物語はハッピーエンドを予感させるものだったけど、現実だったらきっと女の子は髪を切らない。切る事なんてできない。

「ありがとう」

 朔くんはそう言いながら本を受け取ってカウンターへ向かった。

後ろ姿を見ながら、朔くんと初めて話した時のことを考える。望くんの弟ということは知っていた。だから、話しかけてみた。けど、会話をするようになれば、彼が普通じゃないことはすぐ理解できた。

無口で、話す言葉はしどろもどろで、理解しようと努めないと何も理解できない。友達もいなくて、学校でもいつも一人だった。その上、一般的な人間の心情を一切持っていなかった。多少の差異はあれど、綺麗も醜いもおかしいも面白いも大抵の人間が習っていなくても察するであろうものを、彼は、何も感じ取ることができない。

だから、わからないのだ。井出さんがなぜ意地悪をされるのか。きっと、望くんの弟じゃなければ私は関わろうとも思わなかっただろう。

私はそう思いながら、自分の本選びに戻った。


 次の日、読み終わった本を返しに図書室に行けば、また朔くんが現れる。

「どうして、髪の毛を切ったのか、分からなかった」

 朔くんはいつものように簡潔に疑問を告げた。私のおすすめした本を読んだ後、必ずわからない部分を質問していた。

 朔くんはきっと、文字だけを読んでいて物語を読んでいない、読めない。

私が読んだその本の物語を伝える。そして、タクミくんと、井出さんの間にあった、私が読んだ物語を披露すれば、朔くんは首を傾げた。

「変、なの?」

「変なんだよ、タクミくんから見て」 

 そう言えば、朔くんの瞳がじっと私を見つめた。彼の宇宙の瞳に、真っ黒で何もなかった瞳に、彗星が流れた気がした。その彗星はなんだろうと思っているうちに朔くんは「ありがとう」と言って、私に背を向けてしまった。


 教室に戻って自分の席に座ろうとすれば、望くんが話しかけてきた。

「昨日、朔がさ、女の子みたいな本読んでたんだけど、佐藤さん何か知ってる?」

 私は借りてきた本を思わず強く握りしめた。望くんは私と朔くんが図書館でよく話していることを知っていた。

「昨日、母さんが気にしててさ、朔がまた変になったって」

「……昨日、面白い本を聞かれたからオススメの本、教えたよ」

 そう言えば、望くんは綺麗な眉を和らげて、安堵の表情になった。

「そっかあ、母さんが自分で読み始めたのかと思ってたみたいでさ。そう、言っとくわ。ありがとう」

 そう言って望くんは自分の席に戻ってしまった。私は自分の席に座って、斜め前に座っている望くんの背をチャイムが鳴るまで見つめていた。


 朔くんの瞳に彗星が流れたあと、朔くんは図書室に来なくなった。毎日来ていたわけじゃないから、最初は気づかなかった。けど、一週間の間に一回も会わないとその異変に気付いてしまう。「そういえばあの子、来ないね」なんて、図書室の先生も気になっているようだった。

 だから、朔くんが井出さんと一緒に図書室に来た時は、先生はとてもびっくりしたようだった。私が先生と話している時、二人は静かにドアを潜って来た。それに気づいた先生は「あら」と口にだした。私は彼らをじっと見つめてしまった。

 朔くんが一生懸命、井出さんに話しかけている。何を言っているのは聞こえない。けど、井出さんは相槌を打ちながら返事をしている。二人の会話は成功している。それは普段の朔くんを見ていると驚くべき光景だった。私と先生の近くを二人が通っていく。けど、朔くんは私に見向きもしなかった。

「あの二人、なんだかお似合いね、二人ともかわいいから……」

 先生はポツリと呟くように私に伝えた。伝えていなかったかもしれないけど、私に先生の言葉が聞こえてしまった。

 私は自分の体が変形していく感覚になる。

 顔は膨らみ、肌は紫色に変色する。爪が伸びて鋭利になり、見るも無残な化け物。

 わかっている。先生は今、朔くんと、井出さんのことを言っただけ。私の事なんて一言も言っていないのに、私が醜いなんて、一言も言ってないのに。私は真夏の仏間の感覚を思い出す。私は伯父さんの歪んだ顔と嘲笑を思い出し頭が締め付けられたような感覚になってしまう。徐々に私の体は変形して、さっきまで人間の形をしていたのに、私はいつ間にか化け物になっている。

 私は逃げるように図書室を出た。そのまま一番近くの女子トイレに入る。手洗い場の大きな鏡に映る私を見る。

 そこにはちゃんと人間がいた。ちゃんとした、醜い人間が立っていた。


 その日の夜。私は自分の部屋の、あの本棚の祭壇の前に立っていた。

 私は、毎晩祈っているその本を手にとった。そのまま、最初から読み始める。

 何度も何度も読んでいるから、私は内容をほぼ覚えてしまった。けど、これは娯楽の読書じゃない、祈りの読書だった。

 伯父に「ブス」と言われた日、私はそれまではっきりと言われたことがなかったその言葉を受け止めることが出来なかった。言うだけ言って、去っていった伯父を見送った後、私は一人、泣いてしまった。どうしようもない、感情の行き場は、涙となって、読んでいた本に落ちた。

 けどそこで、私は本を読んでいたことを思い出した。

 指を挟んでいたページを開いて読み始める。涙は本を濡らす。けど、その悲しみ以上に、その物語は面白かった。

 涙が止まり、伯父の言葉が私の中から消えた時、私は主人公と一緒に冒険していた。

 悲しみをなくしてくれたその本は、その日から、私の運命の本となった。

 最初はぬいぐるみのように寝る際に枕元に置いていたけど、そのうちに本棚に飾り、毎日祈るようになった。

そして、化け物になってしまった日には、この本を読むようになった。

 辛くても、悲しくても、本があれば、私はやっていけると思える、運命の本だった。


 その日から度々、朔くんと井出さんが一緒にいるのを見かけるようになった。図書館に一緒にいる時もあれば、人気のない階段で壁に寄りかかって話している場面も見た。ちらりと盗み見るけど、朔くんは私に気付かない。

 そんな中、事件は起こった。

「井出くんと、バッテンがラブラブだ~」

 悪意に満ちた声ほど、空間に響くことを知っている。図書室では、静かにしましょうというポスターがすぐ近くにあるのに、朔くんと井出さんの前に立っている男の子たちの目には見えないようだった。

「お前ら、デキてんのか~、図書室でデートいいなあ~」

 ニタニタと笑うのはいつか聞いたタクミくんだと、すぐわかった。そして、朔くんはそんなタクミくんを前にして、下を向いて手を握りしめていた。

 自分が言われているわけじゃないのに、私の胸が痛くなる。逃げ出したいのを我慢して、私は二人を見る。見ることしか、できない。

 すくんでいる私とは正反対に、隣にいた井出さんの瞳は炎で燃えるように力強く、意思を持って悪意の塊を見つめていた。

「やめろよ! なんで、そんなからんでくるんだよ!」

 その大きな声に、その場にいた全員が驚く。朔くんも、悪意も、もちろん私も。反撃をした井出さんは、燃える瞳をさらに燃やして相手を怯ませた。

 それは魔王に立ち向かう勇者のように、果敢で、勇敢な行為だった。これが物語であれば、私はページを捲る手が止まらくなるだろう。

けど、ここは現実だった。井出さんは、女の子としては異常な恰好をしている。

 やめてと思わず言いそうになる。それじゃまるで物語みたいじゃないか、普通にあらがうなんて、やめて。現実なんて変えられない。そんなことしないで。異常な人間は生きて行く上で淘汰されることを受け入れていかないといけないのに、反撃なんてしたら、

「苦しくなる……」

 私の心から溶け出た呟きは「お前らが、変だからだろ! 変わり者同士でくっついてろよ!」という悪意の声に上書きされた。

 そして、先生がやってくる。彼らがこの後、怒られることは誰が見ても明白だった。


 その日を境に、私は学校の図書室に行くことをやめた。やめたというより、行こうとすると井出さんを思い出して苦しくなるからだった。本を借りたいなら、市立の図書館に行けばいい。図書室よりも沢山の本がある。

 図書室に来ない事を心配した先生はわざわざ教室まで来てくれた。先生はあの事件があったから、私が図書室を嫌になってしまったと思っているようだった。

「もうあんなことないようにするから、佐藤さん安心して大丈夫だよ」

 ごめんね、と言いながら先生は私を諭すように告げた。

「あの後は、どうなったんですか?」

「……先生もよく教えてもらえなかったけど、みんな怒られたみたいだよ」

「そうなんですね」

 先生はその後、「また来てね」と言って、帰っていった。


 校内を一人で歩く朔くんを見かけた。朔くんはすれ違う私を見つめてくる。それは私と会話を求めていることを明示していた。けど、私は微笑み返すだけで、何も言わない。

 あの日以降一切見かけない井出さんが転校したことは、人づてに聞いた。

 やっぱり排除される。異常な人間は、排除されるのだと、一人、私は安堵していた。

 その日以降、私は平穏に学校生活を過ごした。一度も化け物になることもなく、卒業式を迎えた。



 中学生になった。

 中学生になっても何も変わらないと思った。私は優しく、穏やかで、愛想のいい女の子でいれば、平穏に生活ができると思ったのに。

「おい、ブス」

 同じ小学校出身ではない、クラスメイトの男子。数人はそう言って私をあざ笑うようになった。

 その言葉に笑い返えしたいのに、できなかった。何回も複数から言われる嘲笑に笑っての対応なんて、私にはできなかった。

笑えない私を笑う人は簡単に増えていった。友達になったと思った子も、私から離れて行った。

 私は、平穏とは程遠い、独りの中学校の生活を送ることになった。

 泣き喚いたって、私の顔が変わらないことはわかっていた。だから、私はひっそりと、ひっそりとしていようと決めた。部活は入らないで、図書委員になった。一ヶ月は流れるように過ぎ去っていった。


 五月の頭の休日だった。私は一人、市の図書館に来ていた。

 そこに見慣れた男の子が一人、立っていた。本棚の前に、一人で本を取るのでもなく、ただ立っている、やせぽっちの男の子は、朔くんだと、すぐにわかった。

私は、思わず話しかけてしまった。小学校の時にした朔くんへの対応を忘れて、話しかけた。ずっと、独りで、寂しかったのかもしれない。私のことを嘲笑しない誰かと私は話をしたかった。

「あ、朔くん」

 そう声をかければ、朔くんは本棚から目を逸らして、こちらを見た。前に見た時より、身長が高くなっていた。けど、そんなことよりも顔の青白さに驚いてしまった。

「ひさしぶりだね、元気?」

 そう話しかけるけど、朔くんはなにも言わない。その大きな瞳でこちらを見つめるだけだった。

「何見てるの?」

 その言葉にも何も返答しない、もしかして怒っているのかと、一人、焦る。朔くんが話したそうにしてたのに、それに応えなかった。それなのに、今更話しかけている。

「何か、面白い本あった?」

 焦る心情とは裏腹に、言葉は勝手にでてきた。

「中学校の図書室、あんまり本が多くなくって。やっぱり市の図書館の方がいいよね。朔くんも、小学校の図書室の本、もう読みたいものなくなっちゃった?」

 言い終わって、朔くんを見つめればその瞳が揺れた。彗星が流れていたその瞳は、今は真っ黒だった。夜の湖で、風で水面が揺れた時のようだった。その湖の水が溢れかえっては今度は、朔くんの目から出てきた。透明な丸い球体はポトリと落ちた。涙だと思う前に、朔くんは俯いてしまって、手の甲でそれを拭った。

「どうしたの?」

 朔くんが、泣いている。驚きと同時にその泣き方が、あまりに綺麗で私は見とれてしまった。泣く行為があんなに綺麗に出来るものだと、知らなかった。涙って、鼻水と一緒に出てこないんだ。白目を充血させて、顔に塩水の線を作って、その涙が止まった時に、鏡を見ると自分で笑っちゃうぐらい醜く、ならないんだ。やっぱり、綺麗な人間の涙は綺麗なんだ。

 そう思うと同時に、私はまた、化け物になっていた。口は引き裂かれ、ずたずたの歯が見える。目は針先ぐらい小さく、耳も尖っている。

 私が化け物になった後、しばらく、涙を拭っていた朔くんはやっと、その口を開いた。

「……普通になりたい」

 久しぶりに聞いた朔くんの声が告げた言葉は、私の願いと同じだった。普通になりたい、そう、それだけなのに。特別じゃなくていい、ただ、ゼロと百の真ん中にある線に丁度合わせるぐらいでいいんです、それ以上なんて望んでないんです。

「……脱出したい」

 手の甲で涙を拭いながら、朔くんは告げる。

「……月へ行きたい」

 その言葉に私は思わず、胸に抱きかかえた本を持つ腕に力を強めた。

 怒りのような感情が沸き上がる。普通になりたい、脱出したい、月へ行きたい。どれも笑っちゃう願いだ。きっとまた、クラスの子に何か言われたんだ。「変」だって、変わっているって。だから、ここじゃない、自分が行きたい月へ脱出したいと言っている。

何の努力もしないのに。

 朔くんはないでしょう、綺麗な子の隣に立ったら笑われたり、ペアになった男の子に吐く素振りをされたり、道行く人に顔を見られて可哀そうって言ったりされたこと、ないでしょう。努力して変われるなら私はどんなことだって頑張るのに。化け物になんて、なりたくない。人間でいたいのに。私は一生普通になんかなれないのに、朔くんは普通になれるのに、どうして、どうして、どうして。

 朔くんはいつだって、普通になれるのに。普通にならない選択肢をしているのは、朔くんなのに、どうして泣くの。どうしてそんなに綺麗に泣くの。やめてよ。やめてよ!

「行けばいいよ」

 だから、私は一番酷い言葉をあげることにした。

 「行かないで」なんて言ってあげない。きっと朔くんが一番欲している言葉だと思った。

 朔くんは顔をあげて、驚いたような顔をしている。だから、もう一度丁寧に言ってあげる。

「月、行けばいいよ」

 そして、何秒か私たちは見つめ合った。濡れた瞳は充血ひとつしてない。けど頬はピンク色に染まっている。顔を見たら誰もが心配で振り返ってしまうような、泣き顔だった。

「月、行っても、いいのかな」

「朔くんが、行きたいなら、行けばいい」

 私はそこまで言ったところで耐えきれなくなった。逃げるように振り返って、朔くんから、遠ざかった。泣いてしまいそうだったけど、こんなところでは泣けない。あんな醜い姿を誰にも見せられない。


 それから、三日後、私は朔くんの訃報を知る。


 青白い顔の望くんを見かけた。

移動教室のために廊下を歩いていれば、一人で力なく歩く望くんを見つける。いつもは、数人の友人とふざけながら歩いているのに。一人だった。私は思わず立ち止まりその姿を見つめるが、望くんは私なんか気づかず、通りすぎていく。

 話しかけたいと思った。

 声をかけようと踏み出そうとした瞬間だった。肩に衝撃を受けて、よろめく。同時に、二人の黒い塊が私を抜かして駆けて行く。笑い声をあげながら、三日月型にした汚い瞳で私を見た。わざとぶつかったその男子はいつも私に嫌がらせをする汚い猿だった。

 こんな所で話かける事なんてできない。

 私は振り返らず、教室へ戻った。


 次の望くんに話かける機会がやってきたのは三日後だった。

 放課後の図書室で私は一人、当番のためカウンターに座っていた。人も少なく、静かな時間を過ごしていれば、ドアの開く音がした。

 ちらりと、読んでいる本から視線をあげて確認すれば、望くんだった。

望くんは真っすぐ前だけを見て、足早に進んでいく。そして図書室の奥へと進んでしまい、姿が見えなくなった。

 どうしたのだろう、何を借りに来たのだろう、私は同じような言葉を心のなかで繰り返す。話しかけるチャンスがやってきた。けど、いざ目の前にすると、何を言おうとしているのか、自分でも分からなかった。

朔くんのこと、大変だったね。実は朔くんが亡くなる三日前に、朔くんと会ってたの。朔くん、普通になりたいって、脱出したいって、月へ行きたいって、言ってた。

だから、私言ったの。月へ行けばいいよって。そう、言ってしまった。

事故って言われているけど、ホントは自分で飛び込んだかもしれない。

 言葉は脳に現れる、けど、口から出てきてくれるだろうか? これは言ってもいいものだろうか、それとも言わない方がいいのか?

 俯いて本をに視線を落としていれば、声が降ってくる。

「お願いします」

 声でわかってしまう。顔をあげて望くんを見る。やつれていて、少し痩せたようで、頬がこけており、瞳も前はあんなに煌めいていたのに、今は大雨の日の川のように濁っていた。

「珍しいね、図書館来るの」

 私は笑みを浮かべてそれに応える。声は震えなかった。

 差し出されていた本と貸出カードを受け取り、何の本かと確認する。

 月の本だった。

目に入った表紙には月の写真が使われてあり、タイトルから、それが月について書かれている本だとわかった。私は頭から血の気が引くような感覚になった。朔くんの訃報を聞いたときと、同じだった。

「月を調べてるの?」

 上擦らないようにしっかりと声を出せば、望くんは頷いた。

「そうだよ」

 どうして、月を調べているの、朔くんが何か言ったの?

 動かない私を不審に思ったのか望くんは「佐藤さん?」と首を傾げた。

「……新刊にも月の本、あるよ」

 やっと出てきた言葉は一番言いたいものではなかった。

「そっちもいいかも」

 立ち上がり、カウンターから出て、新刊の本が集まっている本棚を見る。その中の一冊を手にとり、表紙を確認して、振り返る。後ろに立っていた望くんに、私は本を差し出す。

「こっちの方が、さっきのよりも新しいし」

「うん、ありがとう」

 望くんは、受け取って本を見ている。

 今だと、思った。

「……朔くんのこと、大変だったね」

 その一言で、望くんの空気が一変した。本人は気づいていないかもしれないけど、一瞬で、氷のような瞳になった。冷たくて、敵を前にした孤独な狼の瞳が私に注がれる。

その瞳に見つめれ、言わなければならない言葉は、簡単に姿を変えた。私が朔くんを殺したの、と言うつもりだったのに。

「……人間って、物語を作るんだって。朔くんがいなくなって、色んな人が色んなことを言ってるけど、それは全部その人が朔くんがいなくなった理由を理解したくて、勝手に自分が納得できる物語を作ってるんだって」

 それは、朔くんの噂が飛び交う中で思っていたものだった。最近読んだ本に書かれていた物語を勝手に作る人の話。

 朔くんを知らない人が作る身勝手な物語の内容に、価値はない。ないけれど、人々の好奇心を満たしていることは確かだった。そんな物語で満たされるなんて愚かだけれど。

「佐藤さんは、どんな物語を作ったの」

 冷たい瞳のまま、望くんは問いかけた。その質問の答えで、望くんと私の関係が大きく変わることは、明白だった。

「……脱出したんだよ」

 さっき、頭で整理したはずなのに、口から出てくる言葉はまとまりがなく、思い付いたままのものだった。

「脱出?」

「朔くんが亡くなった三日前に私、朔くんと図書館で会ったんだ。久しぶり、なんてしゃべってたら、突然、朔くんが泣きだしたの。理由を聞けば、「普通になりたい」って言ったから、どうしたのって理由を聞いても何も教えてくれなくて、「月へ行きたい」って、「月へ脱出したい」って言った。私は何のことかわからなくて、きっと嫌なことがあって、逃げたいって言ってると思った。朔くん、前に宇宙飛行士になって月に行きたいって言っていたから……」

 無我夢中で語った言葉は私の作った物語だった。そこまで言って、言葉が止まる。その後に私がしたことを言わないといけないと、思うのに私の口は動かない。

「普通になりたいって言ったの?」

 私が言葉を続ける前に、望くんが聞き返した。氷の瞳のまま、眉を歪ませていた。衝撃的な言葉を耳にしてしまった人間の表情。

「うん、きっとまた誰かに言われたんだろうね。朔くんよく同じクラスの子にからかわれていたから」

 そっか、と言って望くんは黙り込んでしまった。その沈黙に耐えかねてしまうぐらいには、長い沈黙だった。その沈黙の間に、望くんの目はどんどん濁っていく。川が氾濫して、濁った水が出てくる寸前の瞳だった。いつか見た、朔くんと同じだった。

 私はそこでやっと、望くんを傷つけたことに気が付いた。

 事故だと思っていたのに、自ら月へ行くと言った事実を気が付いてしまったのかもしれない。本人の反応を前にして、やっと、言ってはいけないことだったと、理解した。いつかは言うべきだった、けど、それは今じゃなかった。

 私はすぐに謝って、訂正しようとした。別に、そういうことがあっただけで、たぶん、湖の近くで月を見ようとしたんじゃないかな。それで、運悪く落ちちゃったんだよ。だから、事故だとは思うよ。

 けど、それを伝える前、私たちを遮ったのは、「本、借りたいんですけど」と言いながら現れた男子生徒の声だった。

 私はあわててカウンターに戻り、貸出を行う。男子生徒の後、望くんの貸出を行えば、望くんはそのまま、図書館を出て行った。

 静かになった空間で、一人考える。

 言わなくてよかった。

私が朔くん言ったことを望くんに伝えればきっと、今以上に望くんの瞳は濁る。そして、私を責める。私のクラスメイトのような視線で、望くんは私を見るだろう。

 そんなのは、耐えられない。

 物語だから、本当のことは言わなくていい。全部を語らなくていい。

「行けばいいよ」

「月、行けばいいよ」

「朔くんが、行きたいなら、行けばいい」

 朔くんの訃報を知った日から、頭に繰り返し現れる台詞は、語らなくてもいい。

 そう、自分を納得させるのは、簡単だった。

 


 次に望くんに会ったのも、図書室だった。

 私は、月のことが書いてある本がある棚の前にいた。望くんは、あの日以来、図書館に来ていないようで、あの月の本を返しにこない。望くんが返却したら、私もその本を読もうと思っていた。オススメをしたくせに、自分で読んでいなかったから、もし本について会話をすることになったら、困ると思ったから。

 けど、本はどこにもいない。新刊の本の所にも、目の前の棚にもない。そう思い、本棚を見つめている時だった。

 横から人の気配を感じたので、顔を向ける。

 そこにいたのは、望くんだった。私と目があって、驚いた顔をした後、眉をしかめた。それは、拒絶を示すものだと、すぐにわかった。私を嫌なものを見る目、いつも向けられる視線だった。

「また、借りにきたの?」

 声が震えた気がした。けど、望くんはそんなことよりも、私から逃げるように足を後ろに踏み出していた。

「いや、通りかかっただけ」

 そう言いながら、もう望くんは背をこちらに向けている。怒っていることは、明白だった。

今を逃したら、チャンスはもうこないかもしれないと思うと、口は勝手に動いていた。

「ごめん!」

 許しを請うための声は、静かな空間に大きく響いてしまった。図書室で、こんなに大きな声をだしたのは、初めてだった。静かな声で話さないといけないと分かっているのに、音量が上手く調整できない。

「脱出したって言ったの、怒ってるよね」

 望くんは立ち止まっている。私の声は届いているけど、こちらを向いてくれることはない。

「いつか、伝えなきゃと思って、話しかけるチャンスがなくって、まだ伝えるのに早かったかもって、話した後に気付いて、謝りたかっ」

 まとまっていない言い訳を述べれば、帰ってきたものは怒号だった。

「うるさい!」

 その声と共に望くんは走り出す。望くんがどんな顔をしていたのか、わからないまま、私は一人取り残される。図書室の先生が来て、騒ぐんじゃないと怒られて、私は周りの生徒にじろじろと見られながら、図書室をでた。

 図書室を出た瞬間、走り出す。私は一番近くある女子トイレに駆け込んだ。

 個室に入り、そのまま壁にもたれる。

 心のどこかで思っていた。

 ひょっとしたら、朔くんのことで、望くんと秘密が共有できると思ったのだ。朔くんが、この世からいなくなった理由は、月へ行くため。それを知るのは唯一私だけ。

 それを共有すれば、望くんはもしかしたら、悲しみを私に見せてくれるかもしれないなんて、思っていた。

 でも、帰って来たのは怒りだった、怒号だった。

 恥ずかしい。自分が望くんの特別になれるかもなんて、わくわくした気持ちを抱いたのだ。朔くんを殺したのは、私なのに。罪悪感とともに、期待をした。私が言わなければ、私の罪は誰にもわからないから。

 謝らないといけない。

 私が朔くんを殺した。

 私がした罪を望くんに言おうと思った。

 望くんは、私の犯した罪を裁く権利がある。



 望くんに本当の事を言おうと決心したのに、チャンスはなかなか巡って来なかった。

 教室へ行って話しかけるなんてできないし、通学中も難しい。どうしようかと考えていたとき、チャンスは向こうからやってきた。

 放課後、当番のために図書室にいれば、ドアが開く。望くんだった。また、何かを借りに来たのかと思って見ていれば、ドアから真っすぐ、私がいるカウンターに向かってきた。

 心の準備ができていないまま、望くんは告げる。

「ちょっと、話がしたいんだけど……」

 私はぎこちなく頷いて、近くにいた図書室の先生に許可を得る。

 図書室を出て、望くんの後を追えば、渡り廊下についた。どこからか、吹奏楽部の練習の音や運動部の掛け声が聞こえてくる。空は日が傾き始めていた。

 止まった望くんは渡り廊下の柵に、体を預ける。私もその隣に立つ。望くんは私を見ないまま、話し始めた。

「この前は怒鳴ってごめん」

 自分が言おう思っていた謝罪を受けて、私は驚く。

「こっちこそごめん。言うべきじゃなかったし、怒ってもしかたないことした……。実はね、」

 自分がしたことを告げようとした。けど、望くんの耳には入っていなかった。望くんは遮るように。

「朔、たぶん、自殺した」

 思わず望くんの横顔を見る。望くんは前を見つめたまま、淡々と続けた。

「事故って、言われてるけど、朔がいなくなった夜、俺、言われたんだ。月にいってくるって」

 知らなかった事実に驚く。私だけじゃなかった。朔くんは望くんにも言っていた。

「うん」

 やっとも思いで返答すれば、望くんは続ける。

「佐藤さんにも言ってたから、たぶん、自分で、湖に行った」

「うん」

「でも、母さんにも、誰にも言えなかった」

「うん」

「……俺なんだ、朔に変って言ったの」

 そして、望くんは美しい物語を披露する。

 朔くんと喧嘩した際に、「変」だと、告げたこと。それ以降、朔くんが喋らなくなったこと。そして、ピロピロ星のピロピロパーポポを倒す朔くんの夢。

 それを告げる望くんは、私の知っている望くんではなかった。

 けど、時々こちらを見ながら話す望くんの目は濁っていなかった。以前のように、やつれていない、憑き物がいなくなったように、すっきりとしていた。

 一通り、話終えた望くんは満足そうだった。私は、少し俯きながら感想を伝える。

「物語を作ったんだね、月で英雄になった。それは事実だよ、望くんが作った、事実」

 そう、言うのか精いっぱいだった。

「朔と図書館で一緒にいてくれてありがとう。朔は、きっと佐藤さんのこと、好きだったと思う」

 砕ける音が聞こえた。

 私の醜い心にある綺麗だった部分は鋭い音を立てて、粉々になった。望くんにとって、私は朔くんと仲良くしていた人。それ以上でも以下でもない。

 望くんは私を必要じゃない。必要になることはない。悲しみは一人で乗り越えた。隣には、誰もいなくていい。

 その後の会話はよく覚えていない。

 いつのまにか、日が暗くなっていた。帰宅を知らせるチャイムが鳴る。そういえば、と思って浮かんだ疑問を口に出す。

「部活、いいの?」

「うん、やめてきた」

「え、なんで?」

「やることができたんだ」 

「俺、朔が宇宙飛行士になりたいって言ったこと知らなかった。朔が、月で供養されてる。なら、俺が月に行かなきゃいけない。方法はこれから調べるけど、きっと、勉強しなきゃいけない。俺、一個のことしか集中できないから、やめた」

 望くんは決意を込めて、宣言した。

「俺、月へ行くよ」


「じゃあ」

 そう言って、彼は去っていった。私は一人取り残される。

 私の知っている望くんではなかった。

 弟は月へ行っており、ピロピロ星のピロピロパーポポを倒すため、戦闘機を作っている。その最後に弟は敵を倒すために戦死した。そして、月に弔いに行くために、宇宙飛行士になる。

 そんなことを言うのは、私の知っている望くんではなかった。

サッカーをしていた、誰にでも優しかった、笑顔が素敵な、私の恋する気持ちを生みだした相手ではなかった。

普通以上に特別だった望くん。彼は、今、橋を渡った。渡ってしまえばもう戻ることができない橋。それを理解して、彼は橋を渡った。

 橋を渡った彼に、今、私が言える事はなかった。彼は受け入れた。

 私は渡り廊下に出入りするためのガラス扉に映る自分を見る。

朔くんに最後に会った時から、私はずっと、化け物のままだった。心が人間であれば、よかったのに、私は見た目も、中身も化け物になってしまった。化け物の自分の姿を見て、これからずっと、この姿なのだと一人悟っていた。

 望くんに裁いてもらうなんて、自分勝手だった。

 私の罪は自分で罰を決めないといけない。


 その日の夜。私は自室で一人、裁判を行った。祭壇の立つ醜い化け物に相応しい罰は、三つ。

私への罰は生き続けること。そして、この醜さを享受し続けること。

そしてもう一つ。

私は祭壇にある運命の本を手にとった。一ページを開く。紙の上の部分を掴んで、そのまま下へ移動する。そうすれば、簡単に本の一ページは意味を持たない紙切れへと、変貌した。次のページも、次のページも、同じことをする。最後のページまで続けて、足元には、紙切れたちが横たわっていた。

 私はその日以降、死ぬまで、一冊の本も読むことはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ムーンホールフォール 衣純糖度 @yurenai77

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ