第40話 堕ちた勇者と契約破棄


私は、この時のことをはげしく後悔している。私はなぜ、彼女のそばにいてやらなかったのか。私はなぜ、全てを思い出そうとしなかったのか。今やどこにいるのか分からない、誰よりも気高くて聡明な彼女。好奇心旺盛で、私の心を灯してくれた彼女。老いてなお美しかったその人に、出来ることならもう一度会いたい。私、スンシャ・クリムゾンはそう強く思うのだ……


(賢者のむかしばなし・完)



切断される空間、揺れる家屋、砂となる菓子、止まる柱。老婆の錬金術の結晶が、激しい音と揺れと共に崩れ落ちていく。

「こっちだ!」

「うん!」

レオナは倒れた柱で作られたサークルの中にソロを置く。サークルの中は他と違って床も屋根も傷一つついていない。ここならきっとみんなを守ってくれるだろう。

さて、“老婆の錬金術”には弱点がある。それはレオナの身体中に流れている。さきほど影の魔王を葬り、柱の動きを鈍らせ、時に相手の鼻腔をつんざき、時に丹精込めた芸術品を汚したそれ。

答えを知った老婆はガクッと膝をつく。

「悪魔の血………」

「そうそう大正解〜!!!答えは勇者様の血でした〜!」

ジェリーがおめでとうとばかりに老婆の片腕を無理やり持ち上げた。一方レオナは不可解とばかりに慌てながら

「待ってくれ!確かにおれはリアルタイムで出血しているが、ここは家の中だろう!?血は外からじゃねぇとこうはならないって……」

「そうそう、してたんだよ。とっくの昔に」

「は?」

ジェリーはからかうようにニタニタ笑って

「アンタ、この話の最初の方で自傷行為してただろ?その時の血が、お菓子の家の外側に付着してたんだよ」

「えっ、そうなのか!?」

レオナには全く思い出せない。そもそも自傷行為などしただろうか?

「まあ俺様も確認はしてねェけど……。でも相当出血してたもんなー」

ジェリーはレオナの元に駆け寄って、腕の血を舐め取る。レオナはムスッとして

「なんだよ今更」

「菓子がなくなって口寂しいんだ……いいだろ?」

「そんなことしてる場合じゃないリン!」

二人の間をソロが遮る。ジェリーはそれを軽く流して

「おっとそうだった……大切なことを忘れていたぜ。おいババァ」

ジェリーはカツカツと歩き、膝をついたままの老婆を見下して

「契約は破棄だ。菓子がオジャンになった以上、俺様はテメーに味方する理由はない」

老婆の菓子は全て錬金術で作られている。が、錬金術が破られている現在、老婆は対価を渡せない。

ジェリーは床を靴底で叩く。すると老婆のいた場所が一瞬にして崩れ落ちて、闇に葬られる。

「………あっ!」

老婆は崖と化した白い床を必死に掴む。下方には、どこまでも真っ黒な空間が広がっている。

「やめなさい……!」

必死の形相で叫ぶ。彼女は知っているのだ。ここから落ちたらどうなるかを。

むろん、彼も。

「アバヨ婆さん!!来世では幸せにな!」

ジェリーは老婆の手を踏んで蹴落とそうした。

しかしそれを許さない男がひとり。

「やめろジェリー!!」

柱のサークルの中からレオナが飛び出し、ジェリーを押しのける。彼は躊躇いもなく老婆へ手を伸ばすが、あと一歩の所で彼女が掴んでいた白い床が、崩れる。

「おい!」

不意を突かれて倒れるジェリーは、もっともらしい声色と表情で

「何やってんだ!忘れたワケじゃねえだろ、このババァがアンタに何をしたのか!コイツはアンタを殺そうとしたんだぜ!」

「関係、ねぇよ!」

レオナは身を乗り出して老婆の手首を掴み

「目の前で人が死にかけてるのに、放っておけるわけないだろ!」

ギリギリの所でバランスを保ちながら老いた身体を引き上げる。更に崩れる床。彼女を背負い、レオナは安全な場所へ走る。

「………あなた」

背負われた老婆はつぶやくが、レオナには聞こえない。

「あなた、若い頃のあの人にソックリね」

鋭い破裂音。崩れる世界。レオナは跳躍し、サークルの中に入る。ソロは心配そうに駆け寄り、ジェリーはつまらなさそうに足を組む。レオナは老婆の無事を確認すると、ホッと一息つく。

「で、これからどうなるんだ?」

「さあ?」

「………………」

「………………………」

ひゅう、とどこか間の抜けた音がした。それからは、意識がない。

「…………ハッ!」

目を覚ますと、森の中だった。レオナは上半身を起こして、真っ先にジェリーとソロがいることを確認する。

「スヤ……兄さん、おはよう」

「ちーすっ」

「お、おはよう」

レオナは困惑する。ここはどこだ?いや、どこからどう見ても普通の森だ。お菓子の家なんてどこにもないし、その残骸の気配すらない。なら今までのあれそれは何だったのか。

「もしかして、夢……?」

「それはないぜ」

ぬっとジェリーが顔を覗き込む。彼の手の中には壊れたガスマスクがあった。ソロが錬金術で作ったものだ。

「ま、ババァの錬金術は全部消えたようだけどな」

そう言ってジェリーはショルダーバッグを渡す。中には旅の持ち物が全て入っていた。

「………あの婆さんはどこ行ったんだ?」

「さあね」

「ジェリー」

「別に殺してねェって!逃げたんだろ、普通に」

レオナは立ち上がって森の奥をじっと見る。涼しい風が、彼の緑の前髪を揺らした。

「つうか勇者様、腹減らねえか?クソ不味いスープしか栄養取ってないだろ」

「いや、ソロに作ってもらった。錬金術で」

「へー、味は?」

「…………友情パワーで乗り切った」

「ひゃは、俺様とは真反対だな」

「せいはんたい?」

ソロが首を傾げる。

「わかんねーかな元金ヅル。テメーの作ったメシはクソ……いててて!」

森からは簡単に抜け出せた。あれほど迷ったのが不可解なほどに、アッサリと。思えばあの迷路も、老婆の魔法もしくは錬金術だったのかもしれない。

「寺だ、寺があるぞ!」

抜けた先でレオナは嬉しそうに声をあげた。が、安心しきって力が抜けたのかペタリと尻餅をついてしまう。

ゴールは目の前だが、しばらくは休憩だ。二人は本格的に腰を下ろしながら

「で、ジェリー。ここからは真面目な話だが」

「うん?」

レオナはさっき眠りについたソロの表面を、上質な布で拭きながら

「今後は、ああいうことは一切しないでくれ」

「ああいうことって?」

「全部だ全部」

「ふーん、具体的に言ってくれないと分かんねェよ俺」

「…………」

レオナは黙って作業を続ける。しばらくして、すっかり綺麗になったソロを優しく抱きしめながら

「………なあ、たのむよジェリー。おれにはお前しかいないんだ」

たぶん上目遣いでこう言った。

「………けっ」

ジェリーは冷めた一瞥、それからげんなりするように

「欺瞞欺瞞。つかそれ分かってやってんだろ」

答えを聞く前に不貞寝した。

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