第8章・蜂と蟻 #1
宇佐美はそっと襖を開いた。
そこに、あの黒い塊の姿はなかった。
あれほど酷かった悪臭も、嘘のように消えている。
中は、先程自分たちが通された客間と同じ10畳ほどの和室で、違っているのは床の間の代わりに祭壇のようなものがしつらえてあることだった。
その祭壇に置かれたロウソクには火が灯っていて、その明かりだけが唯一の光源の為、室内は非常に薄暗い。
宇佐美は中に入ると、そっと襖を閉めた。
あの塊はどこへ消えてしまったのだろう……室内を見回すが、もう何の気配も感じない。
恐る恐る祭壇に近づき、並べられている容器を見る。
(なんだこれ?)
それは陶器で出来ている、蓋がついた壺のようだった。
それが祭壇の上に8個置かれている。
「これって……」
宇佐美はそう呟くと、壺の1つを見た。
何も書かれていない。少し迷ったが、思い切って蓋を開けてみた。
臭いを警戒して一瞬身を引くが、臭わないのでそっと中を覗く。
中には黒く変色した何かが入っている。宇佐美はポケットからハンカチをとりだすと、その中から小さな欠片を1つ、つまみ上げた。
石膏のようにも感じるが……
(まさか――)
宇佐美は他の壺も見て呼吸が震えた。
(これって……全部骨壺?)
8個ある――全部で8人分の骨壺……そう思った時、宇佐美はブルッと身震いした。
部屋の片隅で、何かが動く気配を感じた。
振り向くと、大きな黒い影が、暗闇から身を起こすように宇佐美の方へと近づいてくる。
「……やめろ……」
宇佐美は首を振ると、手にしていた黒い欠片をハンカチで包み、ポケットに突っ込んだ。
そしてゆっくりと後ずさる。
「よせ。こっちに来るな……」
視線を逸らさず、宇佐美は影と対峙したまま、後ろ手で襖を開ける。
激しい腐敗臭が影の方から漂ってきた。
「来るな‼」
宇佐美はそう叫ぶと、部屋を出て廊下に飛び出した。
「野崎さん!白石さん!」
叫びながら廊下を走る。
「どこにいるんですか?」
次々と襖をあけて回る。しかし2人の姿はどこにもなかった。あの小男の姿も。
宇佐美は半ばパニックになり、大声で叫んだ。
「野崎さぁ――ん‼」
誰かに名前を呼ばれた様な気がして、野崎は目を開けた。
「……」
見上げた天井に映る影が、チロチロと揺れている。
ロウソクの明かりに照らされているからだ――そう思って身を起こした。
「うッ――!」
首の辺りに僅かな痛みを感じて顔をしかめる。
そして思い出した。誰かに背後から殴られたこと……不意を突かれたとはいえ、抵抗もできず気を失ってしまった事に腹が立つ。
「クソっ!」
頭を振って、野崎は周囲を見回した。
そこは、先程までいた客間とは全く雰囲気の異なった部屋だった。
和室ではあるが、20畳ほどの大広間で豪華な調度品が置かれている。
自分が寝かされている布団の周りには、蚊帳のような天蓋が張られていて、先程から甘い匂いが漂っている。
この匂い――あの忌み札から嗅いだ匂いと同じだった。
枕元に置かれた複数のロウソクの明かりが、ゆらゆらと揺れている。
(ここはどこだ?)
宇佐美や白石たちは……そう思い、急いで立ち上がろうとして思わず両手をついた。
頭がクラクラする。殴られた衝撃とは違う。これは何か――
「お気づきですか?」
その声に、野崎は視線を向けた。
綿貫が蚊帳の外からこちらを覗いている。
「ここは、どこです?あの2人は」
「お連れの方ならご心配なく。何もしませんよ」
綿貫はそう言うと、薄く笑った。
「用があるのは貴方だけですから」
「俺に?一体なんの?それに……これはなんの真似ですか?」
野崎はそう言いながら、自分が身に着けているものに苦笑する。
白装束1枚。このまま棺に入れば無事出棺のようないで立ちだった。
綿貫は野崎の前にピンマイクとイヤホンを投げ出すと、「外部とやり取りを?」と聞いた。
「失礼ですが、警察の方ですか?」
「倉持さんはなんと?」
「調査会社の人間だと……」
野崎は頷くと、「俺が警察だったら、今頃応援が駆けつけてますよ」と言った。
「……なるほど」
納得したのかしないのか、綿貫は曖昧な顔で頷いた。
「依頼を受けて来たんですか—―」
「まぁ、そんなところです……」
野崎は呟いて頭を振った。甘い匂いがキツクなる。思考力が奪われていくような気がして、意識を保とうと必死に抗った。
その様子に、綿貫が薄く笑う。
「俺に何をした?」
「抑圧からの解放ですよ」
「解放?」
綿貫は立ち上がると、大広間の襖を開けた。
そこから、同じような白装束を着た女たちに囲まれた一華が、真っ赤な長襦袢姿で入ってくる。
そして、天蓋の外に立ち、蚊帳の中にいる野崎をじっと見下ろしている。
ロウソクの炎に照らされた一華は、ゾッとするほど美しかった。
「貴方は天守様に見初められました。どうぞ天守様に種を捧げ、愛を享受なさいませ」
綿貫がそう言いながら、蚊帳を捲る。
一華が野崎の傍に寄り添い、身を寄せてきた。
甘い匂い。何とも香しく、官能的な匂い。
「魂を解き放ち、身を捧げなさい」
「……」
蚊帳の向こうでは、白装束の女たちが跪いている。
野崎は肩で大きく息をついた。心とは裏腹に、体が反応してくる。
柔らかな一華の体が自分の上の覆いかぶさり、見事に膨らんだ双丘が自分の胸に押し当てられる。
吐息が顔にかかり、吸い付くように唇が触れる。
「―――ッ」
野崎は顔を背けようとするが、抑えが利かない。本能が理性を蝕み始める。
(ダメだ――)
何かの薬物を使われているのは分かっている。
分かっているのに、どうすることもできない。
これは違う――
俺の本意じゃない……
「―――っ!」
野崎は一華を強く抱き寄せると、
「あぁ……!」
野崎の激しい抱擁に、一華は恍惚の表情を浮かべて仰け反った。
仰け反りながら、高らかに笑う。
「あはははははは――!!」
蚊帳の中で。
男と女が、2匹の獣へと変貌していく様を――綿貫と女たちは黙って見つめていた。
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