第7章・潜入 #2

 >今週末にお伺い致します。


 そのメッセージを読んで、倉持は苦笑した。

 態勢を整えてくるつもりか?

 なかなか慎重な男だな……と思い、スマホの画面を閉じる。


 隣の部屋で、ガタガタと物を動かす音がした。


「どうした?」

 立ち上がって部屋を覗くと、机に置かれていた花瓶を倒してしまったらしく、床一面に花と水が飛び散っていた。

「あぁ……落としちまったのか。いや、いい。俺が片付けるから」

 片付けようとする妻の手を払い除けて、倉持は床にしゃがんだ。

 それでも、自分で何とかしよとする妻に、倉持は「いいから。座ってなさい」と押しのける。

 何が気に入らないのか、妻は怒ったように夫の体を叩いた。

 加減を忘れた妻の力は、物慣れた倉持でも痛みを感じる程強かった。

「やめなさい!」

「ん――!ん―――!」

 拳で何度も叩く。さすがの倉持もイライラして、思わず怒鳴りつけた。

「いい加減にしろ!やめろと言ってるのが分からんのかっ!!」

「んん———‼んん———‼」

「―――このっ‼」

 倉持は妻の体を思い切り突き飛ばした。

 妻は木の葉のように一瞬宙を舞うと、床の上に崩れ落ちた。

「頼子⁉」

 ハッと我に返って、倉持は慌てて妻の体を抱き起した。

 幸い、毛足の長いカーペットの上だったのと、自重の軽さで怪我はなさそうだったが、自分のやったことに倉持は呼吸が震えた。

「すまなかった……大丈夫か?」

 妻は怯えたようにじっとしていた。

「悪かった。痛い所はないか?」

「……」

「由乃さんを呼ぼう」

 倉持はそう言ってスマホを掴むと黙ってメッセージを送った。そして、じっとしている妻を見る。

 彼女は放心したように、窓の外を眺めていた。

 たった今しがたの出来事も、傍にいる夫の事も、まるで眼中にないようだった。


 体はここにあるのに……彼女の心はここにはないのだ――


 倉持は足下に散らばる切り花を、じっと見下ろしていた。





 ――4月18日、木曜日。

 野崎は斎場にいた。


 弔問客のほとんどは警察関係者だったが、人も少なく寂しい葬儀だった。

 死後の捜査があった為、通夜告別式は既に内輪で済ませてしまったせいだろう。

 形ばかりの葬儀に、野崎は複雑な思いだった。

「夫がご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

 喪主を務める金井の妻が、訪れた警察幹部にそう頭を下げている様子を、野崎は少し離れたところから見ていた。

「彼、しばらく休職してたらしいね。メンタル病んでたって話だよ」

 白石がそう呟いて俯いた。

「そうみたいだな……」

 野崎は、妻の隣で大人しく座っている青年に目をやった。

 彼はキョトンとした様に周囲を見回している。

「パッと見、普通に見えるけどな」

「自閉症だって聞いてるよ」

 焼香を済ませた野崎と白石は、葬儀会場の前の坂道をゆっくりと歩きながら駅に向かった。


「俺が刑事課に希望を出してるって話をした時、本当は自分も刑事になりたかったって話してくれた」

「……」

「けど、時間が不規則な部署は、奥さんに負担がかかるから諦めたって言ってた。手のかかる息子を奥さん1人に任せられないからって……」

「そうか」

「けど仕事も子育ても一生懸命な人だったよ」

「真面目さが仇になったのかな」

「かもな――」

 野崎はそう呟いて、暗くなった駅前で足を止めた。

「奥さん子供残して—―こんな幕の引き方しかなかったのかな……」

「――」

 道連れにしなかっただけ偉いよ、と。喉元まで出かかった言葉を、白石は黙って飲み込んだ。


 目も当てられない惨状を目にしたり、理解できない犯罪者に遭遇したり。

 自分の中にあるまともな精神が、壊れていくような錯覚を覚えることがある。

 その上、警察ここは恐ろしいほどの階級社会だ。

 パワハラやセクハラ、いじめに妬みやっかみの類。

 これだけ世間で騒がれていても、組織の体質はそう簡単には変わらない。

 激務な上に報われない事も多い。

 そのストレスは半端じゃない。


 真面目な人間ほど潰される――


 耐えきれず辞めていく者を、今まで何人見送ってきただろうか。

 うつ病に自殺も。

 公にされないだけで、内輪ではよく聞く話だった。

「時々自分が怖くなるよな。俺ってまとも?大丈夫?みたいなさ。誰かに確認したくなる」

 白石の台詞に、野崎は笑った。

「分かるよ。まともな自分を確認したくなる」

 野崎はそう言って、駅前の明るい照明に目を細めた。

 そして、忙しなく行きかう人々の群れをじっと目で追う。

「だから、警察とは全く関係ない人間と接したくなる」

「それが宇佐美なのか?」

 ふいにそう聞かれて、野崎は困惑した。

「なんでそこで奴の名前が出てくるんだよ」

「だって気になるんだもん」

 白石はそう言って拗ねたような顔をする。

「俺の方が付き合い長いのにさ」

「どっちにヤキモチ焼いてるんだよ」

「一緒の部屋で寝てくんないし」

 野崎は笑った。

「なぁ、ウサギちゃんとキスした?」

「バカ!するわけないだろう」

 それを聞いて白石は嬉しそうに腰に手を回してきた。

「じゃあ俺としようぜ。ン――♥」

「やめろよ、こんな所で」

「お互いまともか確認し合おう」

「バカじゃないのか」

 呆れて悪態をつきながらも、野崎は少し嬉しそうに笑うと、黙って白石の肩を組んだ。

 いつも自分の事を心配して気にかけてくれる。

 この男なりの優しさを感じて、小さく「ありがとう」と囁いた。

 それに対して白石は頷くと、何も言わずに黙って肩を組み返した。


「ありがとうのチューは?」

「それはダメ」

「……ケチ」









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