第3章・疑惑の里 #3
天守様――
その夢見るような虚ろな眼差しは、どこか病的に美しい。
濡れた様に赤く湿った唇が薄く開き、そこから時折覗く白い歯が、赤い唇をより一層赤く見せている。
陶器のような白い肌も、ゾクリとするほど艶めかしかった。
美しいが、でも宇佐美は何故か腹の底が冷えていくのを感じた。
野崎は女の姿に釘付けになっている。
その様子に、先に対応に出ていた小男が軽く咳払いをした。
「あ、すみません—―えぇっと……なんでしたっけ?」
我に返って狼狽える野崎を見て、宇佐美は思わず眉をひそめたが、ふと視線に気づいて一華に目を向けた。
「……」
じっと、自分を見つめる大きな黒目。
黒炭を思わせる様な漆黒が、全ての光を吸収するように、じっと宇佐美に注がれている。
(なんだ、この女……?)
宇佐美がそう思った時だった。
屋敷の奥から、耐えがたい臭気が漂ってきた。
甘いような、酸っぱいような。
何とも表現しがたい不快な匂いに、宇佐美は思わず顔をしかめた。
(またこの匂いだ……なんで誰も感じない?)
野崎を見ても気づいていないようだ。
それに—―気のせいだろうか?
屋敷の奥の部屋。その暗い空間に、無数に
と同時に、胃に鉛を放り込まれた様な感覚が強烈に蘇ってくる。
胃液が逆流してきて、宇佐美は慌てて口元を押さえると、堪え切れずに外へ飛び出した。
「―――ッ‼」
「宇佐美?」
外に飛び出し、植え込みに向かって嘔吐する宇佐美を見て、野崎は慌てて駆け寄った。
「おい、大丈夫か?」
植え込みの前で
こめかみに汗が浮き、苦しそうだ。
「大丈夫ですか?」
小男が心配げに近づいてきた。
「あ……えぇ多分。車に酔ったんだと思います」
そう答える野崎に、「それはお辛いでしょう」と小男は言い、「よければ中で休んでいかれては?」と聞いた。
だが、それを聞いた宇佐美は野崎の腕を掴むと、激しく首を振った。
「……」
その様子に、野崎はしばらく黙っていたが、「ありがとうございます。でもすぐに帰りますから」と断った。
「そうですか。ではお水をお持ちしましょう」
小男はそう言うと、屋敷の方へ戻っていった。
野崎は宇佐美の肩に手を置いたまま、そっと聞いた。
「何か見えたのか?」
「……」
宇佐美は黙っていた。今は吐き気を抑えるので精一杯だった。
(早くここから離れたい……ここにはいたくない)
「どうぞ」
水を入れたコップを手に、小男が近づいてきた。野崎は礼を言って受け取ると、宇佐美に手渡した。
「ほら。少し口を
「……」
宇佐美はじっとコップの水を見つめた。
口をつけようとして—―なぜか手を止める。
『そこで出されたものは、口をつけない方がいいです』
別れ際に、美波が言った言葉が脳裏を過った。
『もしコミュニティに行かれるのなら、十分に気を付けて下さい。あそこの水には、何かが混ぜられてる可能性があります』
それが何なのか。詳しいことはまだ調査中だから言えないと言っていたが。
——冗談を言っているようには見えなかった。
「野崎さん……」
小声で宇佐美は言った。
「彼に、三上さんの事聞いてください」
「え?」
「俺から気を逸らして」
「……」
野崎はじっと宇佐美を見た。
何かを訴えるように、自分を見つめる宇佐美に野崎は頷いて立ち上がると、「そうだ、思い出した。お尋ねしたいことがあるんです」と、小男の方へ歩み寄った。
相手の視界から宇佐美を遮る。その隙に、宇佐美はコップの水を素早く植え込みに向かって捨てた。
そして安堵した様にため息をつく。が——
視線を感じて屋敷の方を振り返った。
一華が—―屋敷の入り口から、じっとこちらを見ていた。
宇佐美が植え込みに水を投げ捨てた瞬間を見ていたようだった。
「……」
宇佐美は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
一華は能面のような冷ややかな顔で、じっと宇佐美を見ている。怒るでもなく。笑うでもなく。
一切の感情が消えた。
それは【無】そのものだった。
「三上さんの事はご存知ないそうだ……宇佐美、平気か?」
「もう行こう……」
怯えたように野崎の腕を掴むと、宇佐美は強引に引っ張った。
「早く……早くここから出よう」
「え?おい、ちょっと――」
戸惑う野崎に構うことなく、まるで子供のように「早く、早く」と宇佐美は腕を引っ張った。
掴まれた腕から、宇佐美が怯えているのが分かった。
尋常ではないその様子に、野崎も自然と背筋が寒くなる。
(確かにここはおかしい……)
宇佐美に手を引かれたまま、野崎は振り返った。
屋敷の前には小男と一華が立って、じっとこちらを見ていた。
ゾッとするような無表情だ。
その様子を背後に見ながら、野崎は思った。
ここにはきっと、何かある———と。
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