そして

@SinginGlass

そして

 そうですねとその学者はつぶやくように言って、深い色の目をふせた。そのまましばらくそうしていて、なにか考えているようだった。かれも、あえてそのさきをうながすことはしないで、ただじっと学者の組んだ指を見ていた。

 かれは黙っているのが苦にならないたちだった。学者もそうらしかった。時間のながれる、ただそれだけが感じられるしずけさは、けっして居心地のわるいものではなかった。

 やがて学者が顔をあげた。目の色とおなじ、深い、それでいてやわらかい色の髪が、伸びるにまかせたまっすぐな髪がするりと後ろにながれる動きを、かれはじっと見ていた。かるく首をかしげるようにして、学者は口をひらいた。

 -そうですね、はっきりとは言えませんが‥‥あなたが、さいごのひとりかもしれませんね。

 それは答えではなかった。かれは問いかけたわけではなく、だから学者のことばはかれのことばへの返事ではなかった。それは、かれの感慨ともいえないつぶやきに反応して生まれた学者のつぶやきだった。おたがいに、おたがいの内からこぼれ出たつぶやきが、からまりあいなにも生みだすことなく身をよせあうようにとけあって空気に消えてゆくのを、だまったまま感じていた。

 かれが曾祖父から学んだ、かれと曾祖父のほかには使う人間のいないことばで、学者はかれにささやいた。私の調べた範囲では、あなたのほかにはもうだれも見つけられませんでした。もちろん、あなたのことも予想外でしたから、あなたのようなひとがほかにいないとは言いきれませんが。そう低い声でささやいた。

 そのやわらかい低い学者の声を、かれはきらいではなかった。長く学問をしてきたその声は、子どもの声のようにやわらかいままだった。かれのように仕事をし家庭を持ち、ときには酒場で議論にふけり、ときには子どもをどなりつけてきたような、使いこんだ深みも張りもなかったが、またかれの声のように、疲れたときにしわがれたりかすれたりすることもなかった。それはまったくいつもかわらない、やわらかい低い声だった。

 かれは学者の声がきらいではなかった。学者の、低くやわらかい声がきらいではなかった。その声で、かれのことばを使うのを聞いているのがきらいではなかった。ときどき口ごもって、よりふさわしい言いまわしをさがすときの、ああ、とかうう、とかいう意味のない音でさえ、学者の喉からはやわらかいやさしい声になってかれの耳にとどいていた。

 さいごのひとり、というつぶやきを口のなかでのみこみ、そうだろうかとかれは考えた。曾祖父が死んで、たしかに周りにはそのことばを使う人間はまったくいなくなっていた。それまでも、かれは曾祖父以外にそのことばを使う人間を知らなかったし、だから学者の言うのはまったく正しいのかもしれなかった。けれど世界は広い。かれの訪れたことのない土地のほうが、訪れたことのある土地よりはるかに多い。かれの曾祖父のように、まわりにそのことばを使う人間のないところで、だれにも知られないまま暮らしている人間がまったくいないとは言いきれまい。

 じぶんが、まったくさいごのひとりだという実感はかれにはなかった。

 けれどまた、どこかでそういうふうに暮らしている人間がいたとして、それをかれが知るすべのないことにも、かれは気づいていた。もしその人間が山をひとつ越えた村にいたとして、それをかれが知ることはないだろう。その人間も、かれを知ることがないように。そうやってほろびてゆくのだろうとかれは考えた。いや、すでにほろんでいるようなものかもしれない。だれにも使われることのないことばを知っている人間がいまここにひとりいようと、もうひとり、どこかかれの知らないところにいようと、おたがいにそのことばを使うことのないままであれば、それは、ないとおなじなのだろう。

 その考えはとりたてていやなものではなかった。ことばにもそんなふうにはじまりがあっておわりがある、それはしごくあたりまえのことのようにかれには思われた。

 -なにを考えているのですか。

 ふわりとひびいた学者のことばにかれは顔をあげた。

 それはかれのことばだった。学者の口からすべり出たのは、おわりゆこうとしているそのことばだった。

 ああ、とかれは思った。

 -すくなくともおまえがいる。

 学者は目を見ひらいて、かれを見つめた。かれはくりかえした。

 -おまえがいるからな、おれはさいごのひとりってわけじゃない。

 かれのことばに学者はふっと考えこむ目をして、そうして、しばらくだまったままでいた。やがて顔をあげて、なるほどそういう考えかたもできなくはありませんねとつぶやいた。

 その目をかれはじっと見ていた。


 学者がかれの住む村にやってきたのは、秋のおわるころだった。噂のほうが学者自身よりさきに村にとどいていた。かつてこの地方の一部で使われていたことばを研究するために、地球の裏側の、だれも名を聞いたこともないような国からひとりの学者が街にやってきたのだと、かれは酒場でそれを聞いた。

 「ちかいうちに村にも来るとさ」

 かれのグラスに酒をつぎながら言われたことばに、かれはふんとうなずいた。おまえんとこのじいさんが生きてりゃな、と続けた相手に酒をついでやりながら、ああ、まったくだとかれは答えた。

 はじめてこの土地に言語学者がやってきたときに、すでに十数家族でしかそのことばは使われていなかったという。山間のちいさな村の少数民族は、先の戦争がおこったときに、まっさきに兵隊にとられ弾避けになり、また労働力として狩りだされた。戦争が終わったあと、かれらの多くは村を離れ、また村にとどまった者も、戦争の記憶を残した世代は文化も言語も隠すことで周囲にとけこもうとつとめた。なにごとも周囲とかわりなくふるまい、また混血をくりかえすうち、いつかかれらの文化も言語も、かれらの意志によって忘れられようとしていた。数すくない純血の家庭においても、あらゆる少数言語がそうであるように、一歩家を出てしまえば通用しないことばは世代がうつるとともに家庭でさえ使われることがなくなっていった。親がそのことばで子に語りかけても、子は友人と使う、あるいは学校で使うことばで答えた。

 文字をもたないそのことばは、そうやってゆっくりと、たしかに消えてゆこうとしていた。

 かれの世代の人間にとっては、そのことばはないとおなじだった。街には民族教育センターという立派な建物があり、先住民族の文化を伝えんとするわずかばかりの資料があったが、陳列棚のなかに切りとられ並べられたことばは、それはすでにことばではなかった。そのことばについての説明と、かんたんな挨拶といくつかの単語が発音記号とアルファベットをつかって表現されているパネルなどもあったが、それはあくまで歴史的な記録、かつてそういうものがこの土地にあったことをしめすだけのものであり、じっさいにそのことばがどういうときに使われ、どういったひびきをもっているのかは、テープから流れてくる不明瞭な、いかにもそのためにだけ録音されたらしい一方的な音声からは測れるはずもなかった。

 かれは街で生まれ、街で育った。祖父母の代に街に出てきていたかれの家族は、子にそのことばを教えなかった。かっちりした骨格や陽に焼けやすい肌やかたい褐色の髪はかれの血をつたえるものだったが、かれはその意味を知ることなく街に暮らしていた。本来なら、そのことばをまったく知らないはずのかれはしかし、おさないころはその大柄な体格ににあわず病弱で、両親は毎年、夏と冬の長期休暇に療養と称してかれを空気のいいこの村に連れてきた。

 村にはかれの曾祖父がひとりで暮らしていた。曾祖父はおだやかなひとで、かれにさまざまなものをあたえた、そのひとつが、かれと曾祖父のあいだでだけ通じるそのことばだった。

 それはかれにとって病気をなおす魔法だった。ふせっていて、なにもかもに見捨てられてひとりきりでいるような心もとない思いにとらわれているときに、曾祖父はゆっくりと、やさしくかれにそのことばで語りかけてきた。はじめのうちまじないのようにかれの耳にひびいていたそれは、やがて意味をもったことばとしてかれにとどくようになっていた。熱がひくと曾祖父はわらってくれた。

 それは秘密の暗号のようなものだった。食卓をかこんで、かれとかれの曾祖父は、両親にさえわからないことばをかわして笑いあった。

 それは歌でもあった。歌うことの好きな曾祖父は、きげんのいいときによく鼻歌でなにやら歌っていたが、酒がはいると朗々と歌いだしたものだった。かれは、曾祖父の歳にそぐわないのびやかな声が好きだった。そのことばが歌われるとき、語られるのとはまたちがう色をもち、ひと言ひと言がそれまでよりさらにあざやかに色づくように感じられた。

 それはかれにとって、はじめは曾祖父にちかづくことばであり、やがてはかれのことばになった。

 そうやってかれはそのことばを曾祖父から受けつぎ、曾祖父のもとではそのことばで暮らすようになっていた。


 曾祖父がなくなったとき、かれは十六だった。そのとき、かれは、かれのことばで語りあえるたったひとりのあいてを失った。かれはすでに病気がちの神経質な子どもではなくなっていたが、休みごとに村を訪れる習慣はつづいていた。しかしそれも曾祖父の死とともに終わり、かれはやがて街に暮らすおおぜいのひとり、少数民族の血をつたえながら、文化を、言葉をつたえることのないひとりになっていた。

 かれが結婚したあいても、やがて生まれた息子も、かれとはちがうことばを話した。かれが両親と話すことば、かれが学校で使っていた、かれが社会に出て使うことばでかれは家庭をきずいた。

 かれの息子も体が弱かったので、息子が二歳のときにかれは仕事を辞め、街を離れた。それまでの蓄えで村にちいさな家を建ててうつり住んだ。はじめのうちは不便な生活をなげいていた妻も、やがて土地になれ畑仕事をするようになり、虫のついた野菜のほうがおいしいなどと言うようになった。

 「考えてみればあたりまえのことなんですね。虫だっておいしいものから選んで食べるんですから」

 息子とかれのあいだには秘密の暗号はなかったが、かれはかつて曾祖父がかれにしたように息子を川につれてゆき釣を教え、また山につれてゆき薪をあつめ野草を摘むことを教えた。かれの息子は釣のこつはなかなか掴まなかったが、鳥や小動物のあとを追うのはかれよりもうまかった。そのうちひとりで山にゆくようになり、土ねずみが食べているのを見たから毒はないはずだと言って、かれも知らない木の実などを採ってくるようになった。

 かれにとって曾祖父とのあいだでだけ生きていたことばは、そうやって使われることのないまま封印され、いつか忘れられてゆくはずだった。


 はじめましてと学者は言った。かれのことばで。答えないかれに、発音がおかしかったらすみませんと言った、それもかれのことばだった。

 件の学者が村にやって来たと宿屋を経営している昔馴染が知らせてきた。おまえのじいさまの血縁に会いたいんだとさ、こんどおまえの家につれていっていいかとたずねられ、かれはかまわないと答えた。

 引きあわされた人物は、目の位置はかれとあまり変わらなかったが、骨がそもそも細いらしく、かれよりひとまわりは小さく感じられた。肌の色はしずんだ白で、つやのない色の髪が肩の線をかくすくらいに伸びていたが、細く癖がないためかうっとうしさはなかった。半袖の衣服からすいとのびた腕には体毛がほとんど見られず、全体の雰囲気がどこかしらつくりものめいていた。よくよく見ると目じりの皮膚にわずかなゆるみがあって、見ためほど若くないかもしれない、とかれは考えた。つくりが小さくてきゃしゃなのはもしかすると民族の特徴で、そのために幼く見えるのかもしれなかった。それでもじぶんより五つは歳下だろう、だとすれば、ずいぶん若い学者先生だなとかれは思った。

 ぼんやりと学者を見たままなにも言わないでいるかれに、ことばが通じていないと思ったのだろう、学者はいったん口をとじた。そうして、こまったように笑って、あらためて町のことばで言った。

 「はじめまして」

 学者は自己紹介をし、かれの曾祖父に会いたかったのだとていねいなことばで悔やみを言った。

 「墓があるが、参るか」

 かれがたずねると、ぜひ、と学者は答えた。

 「墓地は村の教会のとなりだ」

 ちょうどいまからゆくところだからと学者をともない、かれは曾祖父の墓をおとずれた。ひらたい石に刻まれた名を学者はたどり、すこし間をおいてもう一度たどり、そして頭をさげた。それから胸に左手をあて、その手を上にすいとあげた、それはなめらかな動作だった。どうやら死者に敬意を表すしぐさらしく、学者はそれをいくどかくりかえし、また頭をさげた。

 その一連の動きを、かれはじっと見ていた。

 ことばはするりとかれの口をついて出た。

 -じいさまと話がしたかったのか。

 かれが、かれのことばでたずねると学者はおどろいたように顔をあげた。

 -話せるんですか。さっき──

 -ああ、ながいこと使っていないから、ずいぶんわすれてしまったが。

 そうですかと学者は笑った、その顔が、まるで泣きだしでもそうにゆがんだのを見てかれはうろたえた。それはどう考えてもいいおとなの表情ではなかった。学者は、いったん口をひらいてまたとじた。片手を口もとへもっていって、それからその手が顔はんぶんをおおうようにした。青じろい、ほそい指だった。

 しばらくして手をおろした学者は、息をのむような音をたて、いくどかまばたきをした。それからかれを見て、かれの目をまっすぐに見て、口をひらいた。

 ずっとさがしていたんですと学者は言った。この村にももうだれもいないと思っていた、あなたのひいおじいさんが死んでしまって、もうこの村にだれもいなくなってしまったと。あなたに話しかけたのも、あれも答がかえってくることを期待していたわけではありませんでした。もうだれもいないと思っていた、それでもここへ来たかったのだと、学者はあまりうまくないことばで、ぽつりぽつりと語った。

 墓に酒をかけているかれの背中にむかって学者は、ほかにこのことばを話す者がいるかとたずねた。かれはいないと答えた。いるかもしれないがじぶんは知らないと。

 学者は言った。

 -では、協力してもらえませんか。私は、あなたたちのことばをできるだけ正確に記録したい。いま残されている資料はほんとうにわずかなもので、それにこの分野には研究者もほとんどいない。このまま消えてゆくまえに、できるかぎり記録しておきたい。いつかこのことばが消えても、それがそこにあったことを、あとのものが知ることのできるように。

 -なんのために。消えてゆくのならそれまでだろう。

 かれの問に学者はまた笑った。私の自己満足です。私が、残しておきたいんです。そう言って笑った。


 学者は、かれの生活をみださないと約束した。週にいくどか、かれのつごうのいいときをえらんで夕食のあとに宿をおとずれると、二時間か三時間、学者はテープをまわしながらかれに質問をあびせた。それは語彙の収集だったりその用法の確認だったりした。また学者はじぶんでもそのことばでかれに接し、使いかたがおかしければ指摘してくれと言った。かれの気づいたまちがいを訂正すると、さらにくわしい説明を求められた。かれが、かれの知っているのは曾祖父とのあいだでのみ使われていた用法だからもしかすると正しくないかもしれないとしりごみすると、かまわないからとにかく思うままに説明してくれと請われた。

 それはまるで、あらためてそのことばを、そのことばの論理をふたりがかりで構築しなおしてゆくような作業だった。ひどく骨がおれたが、しかし、かれと曾祖父のあいだでのみ使われていたそのことばに、あらたに加わった学者という使い手の刺激によって、あらためてそのことばのひびきや息遣いを思いだし、また新しい色彩が重ねられることで、そのことばがより深く、よりつややかにみがかれてゆくようにも感じられた。使い手がちがうというだけで、まったくちがうことばに聞こえることもあった。

 ある語彙について、おれはそういう使いかたをしないがとかれが言うと、学者はそれはどういうことですかとかならず聞いてきた。それは用法がおかしいということですかとたずねられ、ああ、おかしいと思うとかれが答えると学者はしばらく考えこんで、ではあなたならどう言いますかと問いかえした。かれはそのたびに、じぶんの感覚というものを問いなおし、じぶんが正しいと思う、じぶんが美しいと思う用法を学者につたえた。学者はそんなかれの目をじっと見ながら、そうか、そういうふうに言うんですねとか、ああ、なるほどとか口のなかでつぶやいた。

 またときには、学者がかれの思ってもいない使いかたをし、かれのほうが考えさせられることがあった。かれがだまりこむと学者はすぐに、なにかおかしなことを言いましたかとひどく真剣な面持ちで聞いてきた。いや、おかしいわけじゃなくて、そういうふうにも言えるんだなとかれが感嘆をかくさずに言い、首をかしげる学者に、そういうふうに言ったほうがたしかにぴったりくるとくりかえすと、学者は子どものように頬をあかくして笑った。

 ことばは、たしかに思いをつたえた。かれの使うそのことばは、かれの性格のままに、いくらかぶっきらぼうなところがあり、学者の使うそのことばには、やわらかくひかえめなその姿らしい、たどたどしいながらにひたむきなひびきがあった。一文一文の長さやつかう語彙ひとつに使い手の個性は出るものなのだなとかれは考えた。かれと曾祖父はそういう意味では似すぎていて、ひとことふたことで互いの思いを通じさせることもできたために、かえってそのことばのなかでなるべくそのことばを使わないでいるようなところがあったが、学者というまったくかれを知らない、かれの知らない人間とそのことばをとおして接するときには、互いにそのことばを極限まで切り拓いてつたえあおうという意志もあって、じぶんのもっとも深いところをさらけだしているような、相手のもっとも深いところを目のまえにしているような思いにとらわれることがあった。

 かれが口を開くとき、学者はひとことも聞きもらすまいと、またかれの表情や体の動きも見のがすまいとして正面からかれを見すえた。またじぶんが話すとき、それがかれにどういう意味をつたえているか、どこまでじぶんの意志をつたえられるのかをできうるかぎり知ろうとし、やわらかい声でしずかに話しながら、どこかでかれに挑みかかるようなきびしさを隠さなかった。

 -あんたはどうやって、話す人間もいないようなことばをおぼえたんだ。

 それとも学者という人種はみんなじぶんの研究していることばができないといけないのか、と、あるときかれがたずねると、学者はにっこり笑った。

 -そんなことはありませんが、私が子どものころ、母がよく聴いていた歌があったんです。歌──女のひとの歌です。

 学者はふと昔を思いだす目をした。

 -そのなかに一節、母にも、だれにもわからない、だれも知らないことばが使われていました。

 それがこのことばだったんですと学者は言った。

 学者が口ずさんだその何小節かは彼にはまったく聞きおぼえのない旋律だったが、それは、かれの曾祖父が酔ったときなどに好んで歌ったものに似ている気がした。

 -それで、その歌の意味が知りたくて、この地方の古い歌をもとにしたものだと聞いて、それでこの土地のことを学び、ここのことばを勉強したんです。そのころすでに、もう話せる人間がほとんどいないということで、私も本で覚えました。

 わずかに残されている記録テープと本だけで学んだその言語が、実際に使われていたこの土地に来ることが長いあいだの夢だったと学者は言った、ゆっくりと、ひと言ひと言を口のなかでじっくりと味わってからかれにもひと口、そのかけらを分けあたえるように、さし出すように語った。その口調がすでに歌うようで、かれはじっと学者の声を胸にしみ入らせるように聞いていた。

 学者が、ふわりと声の調子をかえた。あらためて目のまえの顔をみとめたように、かれに笑いかけた。

 -でも、まだこのことばが話せるひとがいるとはまさか思っていませんでした。

 まさか、土地のひととこのことばで話ができるとは思ってもいませんでした。

 学者はそう言って、かれに、ありがとうと笑った。


 学者がかれのことばを記録したテープを再生しながら、なにごとか紙に書きつけている。長い髪を後ろで束ねた背中を見つめながら、かれはふと、もうすぐ年があけるなと考えた。それから、学者のもといた国ではどのように新年を祝うのだろうかと考えた。けれどそれを学者にたずねることはせず、かれはただ学者のかたわらで、ぼんやりと冬の寒さを感じていた。

 いつまで研究をつづけるのかとかれはたずねた。

 いつまでも、と学者は答えた。

 -私にできることはそう多くありません。

 ひとつの言語のすべてを私がひとりで記録することはできません。けれど私にできるだけ、ひとつでも多くの記録を残したい。

 国にもどらなくていいのかとかれはたずねた。研究のめどがついたら国に帰って成果を発表するのだろうと。かつてこの土地をおとずれた学者たちがしたように、記録テープと紙に記しつけた資料を持ちかえり、それらをまとめてひとつの結論を出すのだろうと。

 まだとうぶんはもどりませんと学者は言った。私はこのことばを研究するために、それに必要なだけ、五年でも十年でもそれ以上でもここにいるつもりですと。

 学者は大学をやめてきたのだと言った。だからいつまでにかえらなければいけないことはないのだと。じぶんの納得のゆくまでここで研究をつづけていいのだと言った。

 おかしな学者だなとかれは思い、そう学者に言った。あんたは研究のためにここに来たんじゃなかったのか。

 研究のために研究に来たのではありませんからと学者は笑った。このことばのもっとも近くにいられれば、研究はそのための口実でいいんですと言って、くすりと笑って、でもそんな理由では納得しない人も多いですから、だから研究という名目をたてたようなものですと秘密をそっと教える口調でささやいた。

 -家族はいないのか。国に待っている人間がいるんじゃないのか。

 かれがたずねると、学者はまた笑った。

 -母は待っているかもしれません。

 それだけ言って、あとを続けなかった。

 使う者もいない言語のどこがそんなにいいのか、とかれがたずねると、あなたがいます、と学者は答えた。使っている人間のいることばですと笑って言った。

 おれのことは予想外だったんだろうとかれは重ねてたずねた。

 -あんたはじいさまがもう死んじまっていることを知っていて、ここにはもうだれもいないと思いこんでいたんだろう。

 -そうです。あなたがいたことは、私にとっては計算外でした。

 学者はかれの目をじっとのぞきこんで続けた。

 -はじめてあなたを見たときに、一目でわかりました。町のひとたちとはまったくちがう。あなたひとりだけ、村のなかでもどこにいても、まったくちがう。体つきも、髪や目の色ももちろんですけど、それ以前に、私にはすぐにわかった。あなたが私の探していたあなただとすぐにわかって、だからついあなたにこのことばをつかって──それが自然なことだと思って──答えが返ってこなかったのが恐ろしく意外でした。そんなことはわかっていたはずなのに。このことばはもうだれにもつかわれていないと、それを私は知っていて、それでもこのことばをつかわずにはいられなかった、そうしてかえってきた答えも、あなたの答えも町のことばで、その声もまったく私の感じていたとおりの声だったのに、ことばがちがうことが信じられなかった。わかっていたはずなのに。──だから、ひいおじいさまのお墓のまえであなたが口をひらいたとき、はじめて、これでもとどおりになった、あるべきかたちになった、と感じました。

 なぜあのとき、はじめて会ったときに町のことばを使ったんですかと学者は聞いてきた。かれはそれには答えずに、このことばのどこがそんなにいいのか、とたずねた。

 わかりませんと学者は笑った。好きなもののどこがどう好きかを説明するのはむずかしいですねと学者は言って、また、じぶんのせりふに照れたようにわらった。それからすこし考えてことばをつないだ、音がとてもうつくしいことばだと思います、私が発音するとどうしてもたどたどしいけれど、むかし聴いた歌も、記録テープも声も、みな、とてもうつくしいひびきです、と学者はうっとり目をとじて、文字をもたないぶん、よけいに音が純粋に音のままで耳にひびいてくるのかもしれません、文字にするとそこに音が固定されてしまうけれど、このことばは文字をもたなかったために、親から子へ、子から孫へ、純粋な音でつたえられて、そうやってつねに磨かれてきたように思いますと、ことばをえらびながらゆっくり言った。あなたの話しかたもそうです、聞いていると、目をとじて、ずっとずっと聞いていたい、とてもうつくしい音ですとほほえんだ。

 その学者のことばがかれにかつての魔法を思いださせた。曾祖父がかれにあたえたものは、ただことばだけではなかった、それはかれをやすらがせる、かれをつつみこむ、やわらかな、いつもそこにあるあたたかな魔法だった。それはかれと曾祖父のあいだにだけありえたはずの、曾祖父が死んだときにそれきり消えたと思っていた奇跡だった。

 -そんなものかな。

 -ええ。

 だからいつまでも使わせてください、このことばを聞かせていてください、そう学者は言った。

 そして、かれは学者に答えながら、そのことばを使いながら、かつての魔法がよみがえっているのを、かたわらでじっとかれの声を聴いているその目の色から、つよく確信していた。


 冬が去り、氷のゆるみはじめるころ、村に風邪がはやった。ひどくはならないが長びくいやな風邪だった。学者も熱を出し、すみませんけどしばらく休ませてくださいと言ってきたので、かれは妻を看病に行かせるようにした。

 いく日かたったあるとき、夕食のしたくをしながら妻が言った。

 「あした、あのひとのところへいっしょに行ってくださいませんか」

 わけをたずねると妻は苦笑いして、だって、あのひとのうわごと、わたしわからないんですものと答えた。

 「ぼくも行く」

 「だめよ、うつったらたいへんだもの」

 息子をおしとどめながら妻はほほえんでかれに言った。

 「ほんとに学者さんて熱心なんですね、夢にまで見ているんですよきっと」

 食事のあと、妻とふたりで学者を見舞った。学者は顔を赤くしてうんうんうなっていた。苦しげにねがえりを打ちながら、学者はときおりぶつぶつとかれのことばをつぶやいていた。妻は学者の額に浮いた汗をぬぐってやりながらかれにたずねた。

 「なんて言ってらっしゃるの」

 「ああ‥‥まだ体がつらいらしい。味のある飲みものより水がほしいそうだ」

 でも滋養が、と言いながら、それでも妻は吸い飲みにつめたい水をいれて学者の口もとに持っていった。かれが後ろから学者の体をささえて起こしてやると、学者は水をなめるように飲み、それからまた小さい声でひとことふたことささやくようにことばを押しだし、妻がその意味をたずねた。

 「ありがとうと言っている」

 かれが学者の体をもとどおり横たえようとすると、妻はそれをさえぎって、着替えさせたいので手伝ってくださいとかれに言った。妻がかたくしぼった熱いタオルを用意しているあいだ、かれは、腕のなかの学者の体があまりにも細いのを感じていた。

 汗で肌にはりついた寝間着をぬがせるのは大儀だった。学者も協力しようとして体を浮かせるために寝台に手をつきかけたが、その腕がふるえていたので、かれはその手をとって、そのまま寝台に乗りかかるようにして、腰をささえながらしめった寝間着をはいでいった。そうして横たえてやり、妻が学者のからだを拭いはじめ、その指示のとおりにかれはその細いからだを横にむけたり手をあげさせたりした。からだが熱いせいか、ときおり学者はふるえ、そのたびに妻は、ごめんなさいね、もうすこしですからねと呼びかけた。

 そうやって、ふたりがかりで寝間着を替えてやった後、かれはふと思いついて、妻に櫛を持ってこさせた。

 「わたしがやりましょうか」

 「いや、いい」

 学者の体をじぶんにもたせかけ、片手で首をささえてやる。髪を束ねていた紐をといて、まだ頭を洗うわけにはいかないからなと話しかけながら、タオルで地肌をきつくこするように拭いてやり、かれはゆっくりと学者の髪を梳きはじめた。軽い刺激が心地よいらしく、学者は体の力をぬいて目をとじている。首のあたりに病人のごくかすかな息づかいが感じられ、かれは、つらかったらもたれてもかまわないと言ってやったが、学者はかるくほほえんで、だいじょうぶですと答えた。だらりとたれさがった腕の、学者の指のさきが、寝台に片膝をついたかれの、太ももにかるくふれていた。

 ふとしたひょうしに櫛の端がうなじにあたると、学者はくすぐったそうに首をすくめる、その指先に力が入る。

 かたわらで妻が、まるで子どもの髪みたいですね、しなやかだけれど乱暴にするとすぐ切れてしまいそう、気をつけてくださいねとつぶやいた。わかっているとかれは答え、寝乱れた髪が目の粗い櫛にからまらないように、細心の注意をはらって毛先から櫛をとおし、時間をかけて学者の髪を梳いた。それから髪のよごれもタオルで拭い、仕上げにもういちど髪を梳いてやった。妻がタオルを受けとり、すすぎに行った。

 細い髪があごにふれる。ひとすじ、ふたすじ、ほつれた髪のさきをまとめ、肩にすべらせてやる。

 学者の手があがった。かれの手のひらに指さきがあたる。骨のかたちをたどるように指さきへうつり、つかもうとする弱い力を感じて、おさない子の手をくるみこんでやるように、その手をかるくつかんだ。そうしてその指がひえているのに気づいて、かれはシーツの下へその手をいざなった。もう片方の手が、その上からかれの手にふれて、それが肩にあがった。肩から首へ、そうして、その手がふわりとあがって、かれの髪をなで、それからもういちど肩におり、すがるように襟をつかんだ。

 寒いのかとたずねてやると、わずかに首をふる。かれは学者の首をささえてやり、背中をかるくたたいた。顔色がさっきよりも白くなっているように思われて、苦しいのなら横になるかとたずねると、学者がまた首をふって、いまは動きたくないとつぶやいた。

 かれの手が学者の耳にふれた。耳のすぐ下、脈をさぐるように、その手はしばらくじっとしていた。ほおに、ほおから口に、ごつごつした指の腹はわずかにかすめた、その手がはなれてゆくのを、学者の目が追っていた。

 学者の体は熱く、それをささえていた彼の体にも、その熱はつたわっていた。

 帰り道、かれは妻に、あの男も変わったやつだなと感想をのべた。

 あんなにつらそうにしているのに、外国語でものを考える、それだけの余裕があるのだからと言うかれに妻は笑った。

 「おおかた、あなたにいじめられている夢でも見ているんじゃありませんか」

 わたしも経験ありますもの、学生のころの外国語の試験の夢をいまだによく見ます。必死になって試験官に答えようとするのに、あせればあせるほど知っているはずのことばも出てこなくて。

 そう言ってくすくすと笑って、そういえばあなたの寝言もわたしわからないことのほうが多いんですよと思いだしたようにつけくわえた。


 それから一月ほどもして、ようやっと学者が床を離れられるようになった。さっそくでも再開したいという相手に、それならとかれは毎晩、妻に作らせた夜食を持って宿におもむき、記録作業につきあった。恐縮する学者に、なおりぎわがいちばんやっかいなのだからと答え、かれは学者が全快するまでそれをつづけた。


 春がゆき夏になり、かれの息子の学校が休みに入った。あそんでくれとねだる息子と妻を川釣りなどにつれてゆくとき、かれはできるだけ学者もさそって、ゆく先々でも作業をつづけた。ひとみしりするたちの息子も学者にはなつき、先生、先生とあとをついてまわった。妻も見ためのわりに食べっぷりのいい若者を気にいっているようで、ときには息子やかれの好みよりも学者の好みを優先させて食事を作るほどだった。先生がいらっしゃってからうちのひと、とっても目がやさしくなりましたよと妻はいつだったか礼までのべた。あんまり思ってることを態度に出すひとじゃなかったのに、このごろはとっつきがよくなってくれて。先生のおかげですねと。


 夏がゆき秋が来て、木が葉をおとすころ、かれはときどき目の奥にさしこむような痛みを覚えるようになっていた。それはときに目をあけていられないほどの頭痛にまでなることがあった。そんなときのかれの表情にいちはやく気づいて、きょうはこれまでにしましょうかとじぶんを気づかう学者にかれは、いや、だいじょうぶだと答えていた。

 その間隔はわずかずつではあったが、たしかにせばまってきていた。


 そして冬になった。かれは学者に曾祖父から教わった歌をいくつか教えていた。聞き覚えでかなりあやふやなものもあったが、それでも学者はよろこんでかれとそれを口ずさんだ。古くからつたわるまじない歌のようなものもあり、民謡のようなものもあり、また即興の戯れ歌のようなものもあり、子守歌のようなものもあった。共通していたのは、くりかえしが多く音域がせまいため覚えやすい旋律だという点だった。学者は美声とは言いがたかったが、それでも、やわらかくおだやかに歌う声は聴くものをおだやかな気持にさせた。けれど学者はじぶんが歌うよりかれの歌うのを聴きたがるほうが多かった。歌っていても、かれが目をとじて聴きいっているのに気づくと顔を赤らめてすぐに歌いやめてしまった。そうして、かれに歌えとせがんだ。

 かれは息子にさえ聞かせることのなかった子守歌を学者のために歌った。

 なにかの折にそのことを言うと、学者はふしぎそうに首をひねった。

 -どうして息子さんにこのことばを教えてあげなかったんですか。

 さあどうしてだろうとかれは答えた。

 -おれも待っていたのかもしれないな、おまえみたいに。じいさまが死んだあと、だれかから話しかけられるのを待っていたのかもしれない。

 じぶんが教えてじぶんの思うとおりにそのことばを使う息子を、いや息子でなくてもだれでも、じぶんのつごうのいいようにしゃべる小鳥のような生きものを作りあげるのではなく、はじめっからそのことばを知っているだれかに話しかけられるのを待っていたのかもしれない。そう言ったかれに学者はわかったようなわからないような顔で笑った。

 -でも歌くらいなら教えてもいいな。

 -そうですよ。そうして家族みんなで歌うんです。

 きっとたのしいですよと学者は目を細めた。


 息子がかけよってくる。両手をひろげて、抱きついてくるのを受けとめてやるかれを見て妻がほほえんでいる。頭をなでて、大きくなったな、と言ってやるとほこらしげに胸をはってみせる。そんなようすを、かたわらに座っている学者がじっと見ている。

 夏がきたら上の学校へゆくのですものねと妻がわらうのへ、息子は胸をはった。おまえはなにがやりたいんだとかれがたずねると、宿屋の主人になると息子は言った。世界中からお客さんが泊まりにくる宿をやるんだ。先生みたいなひとがたくさんくる宿だよと息子が言って、学者はにっこりうなずいた。

 「きみが宿屋をはじめたら安く泊めてくれる?」

 「先生が泊まりにきてくれたらお金なんかいらないよ」

 たくさん部屋のある宿屋にするから、そうして、そのうちのひとつは先生の部屋にするよ、いつも先生のためにあけておくからと息子が言うと、それじゃあ商売にならないわよと妻がわらった。

 「そのためにはもっと勉強しないとね。宿代の計算もしなけりゃならないし、世界中からのお客さんを泊めるのなら、いろんな国のことばがすこしでもできれば商売のためになるわ」

 もちろんと息子が答える。上の学校へいったら、外国語も勉強するんだ。

 外国語、と学者がつぶやく。

 「きみは、きみのおとうさんの話すことばは勉強しないの?」

 ふっと息子が学者を見あげた。それから、父親を見た。ふたりを見くらべるようにして、息子はたずねた。

 「おしえてくれるの?」

 かれが答えるまえに学者が言った。もちろん。きみのおとうさんだって、きみがおんなじことばを話せたらうれしいよ。そうでしょう?

 「──ああ。そうだ。このあいだも話していたんだ。歌をおしえてやるのもいいかって」

 はんぶんは妻にむけて、かれは答えた。でも宿屋の経営の役に立つとは思えないがな。

 ふと息子を見ると、はにかんだ目をして、それからその視線が学者のほうへ動いた。学者が笑いかけてやっている。かれはふいに学者に話しかけたくなった。息子に、妻にわからないことばで。かつて曾祖父と話していたように。けれどそれをせず、かれはもういちど言った。

 「歌を、おしえてやろう。おまえにも。じいさまから教わった歌だ。おまえも歌えるようになって──」

 みんなで歌おう、と妻と息子に言った。


 そのときはとつぜんやってきた。

 仕事の帰り、かれは道端でとつぜんたおれた。あの刺すような痛みがかれの頭のなかいっぱいに広がり、それはすぐに背中にまでつたわってきて、かれは一歩も動けなかった。とおりすがりのひとがかたわらにしゃがみこみ、顔をのぞきこんでなにかを言ったようだったが、かれの耳にはもう聞こえなかった。数人の腕がかれを抱えおこしたとき、かれはじぶんの体がふだんよりずっと重いように感じた。まぶたさえひどく重く、かれは目をとじてしまった。

 つぎに目をあけたとき、かれは寝台に横たえられていた。かたわらに人影があるように思って、かれは首をまげようとしたがかなわなかった。頭の後ろから首すじにかけてしびれるような痛みがあった。それはしだいに冷たくなり、氷の棒が盆の窪から目のすぐ裏をめがけて刺しつらぬいてきているような感覚になってきていた。

 -つめたい。

 じぶんがなにを言っているのか、かれはもうほとんど意識していなかった。枕もとでなにか叫んでいる声がかん高く耳ざわりだった。

 「おねがい。ねえ、目をあけてください」

 おかしなことを言う、とかれは思った。目はあいているのに。ああ、これは妻の声だ、とかれはぼんやりした頭で考えた。妻が泣いている。その後ろには息子が立っているのだろう。視界は暗くなっていたが、かろうじてふたつの影が見わけられた。

 かれはなおもなにごとかをつぶやいていた。かれの妻子には理解できないことばで。

 「とうさん、とうさん?」

 「目をあけて──おねがい」

 「先生」

 泣きわめく妻に息子がよりそっている。先生。そういえば、妻も息子もあいつのことを先生と呼んでいた。かれの口からもれるささやきを、たったひとり意味のあることばとして聞くことのできる人間。

 あいつはいまここにいないのか。

 その思いはなぜかかれを苛だたせた。

 -‥‥だ。

 「とうさん」

 -どこだ。なにをしている。

 -ここにいます。

 何度目かにかれが呻いたとき、なつかしい声が応えた。

 -手を、かしてくれ。

 のべられた手にすがって起きあがろうとしたが、かれにはもうその手をつかむことさえできなかった。もちあげることすらできずにいる手を学者はつかんで、たしかめるようにつよく握った。

 後ろのほうで複数の声がなにかを言っていた。それはすでにかれには雑音でしかなかった。かれはじぶんの手のなかにある手をにぎりしめようとしながら、その感触もしだいにぼやけてゆくのをどうにもできないでいた。

 いくつもの音がかれをかこんでいた。それは声だった。女の声がひときわ高くなって、ほかの声がそれにかぶさった。

 けれどそのとき、かれの耳にはたったひとつの声しかとどいていなかった。たったひとつの声だけが、ことばになってかれにとどいていた。

 -いけません。まだだめです。まだ早い。早すぎる。

 -──早い‥‥?

 -まだ行かないでください。あなたがいま行ってしまったら、わたしはまたひとりになってしまう。

 どこへ行くんだと答えようとしたかれのことばは、もうかれ自身にも聞こえなかった。

 -やっと会えたのに。やっと見つけたのに。

 もっと話したいことがたくさんあった。そう、かれは言おうとした。

 かれの手をつかんでいる手に。

 言おうとした。


*** *** ***


 「歌を──」

 おしえてくれますか、と少年は言った。父親とおなじ目に、学者はうなずいた。おしえてあげる。歌も、ことばも。あのひとがおしえてくれた歌をきみにおしえてあげる。あのひとと使っていたことばをきみと使おう。

 そう言うと、少年がうなずく、いくどもいくども首をふって、くちびるをひきむすんで。

 そうして、少年が手をのばしてくる、その指さきが学者の肩にふれる。ふれたとたんに手をはなして、ごめんなさい、とつぶやく。どうしたの、と学者がたずねると、目をふせて答える、ひとの体にさわったらいけないって、他人がそうかんたんにさわっちゃいけないんだって、とうさんが言っていました。

 あのひとの国の文化らしいです、わきから母親が言いそえる。家族はべつですけど、顔や肩にふれるのはよくないと、私もむかし言われました。とくに顔と頭は、近しい友人でもふれてはいけないって。このごろはみんな、ほとんど気にしなくなっているそうですけど。とくに町では肩を組んで歩いたりするのはめずらしいことではありませんし。

 わたしの知らない風習や迷信がいろいろあって、教えてくれたこともありますけれど、教えてくれなかったことも多かったと思います。わたし、そういうことにあまり興味がもてなかったから。でも他人にふれることにだけは、とてもきびしいひとでした。わたしがいつだったか、よその子の頭をなでようとしたときに言われたんです。その、ひとりひとりについている精霊のようなものがまじりあってしまうからって、そういう‥‥人間の顔の、口は呼吸をするところだし、たくさんの精霊や、いろんなものの魂が宿っているから、他人がむやみにふれてはいけないんだって。つれあいや恋人にしかふれさせないんだそうです。わたしたちが婚約したときに、誓いのときにはじめてあのひと、わたしの顔にふれてきたくらいです──顔のまえにこう、手をかかげるようにして。そういうことにとても、きびしいひとでした、どういう意味があるのか、なにもかも教えてもらっているわけではありませんけど。

 それを聞きながら、学者は口に指さきをもっていっていた。指の腹でじぶんのほおに、くちびるにふれていた。それに、たしかにふれたことのあるはずの、乾いた指の感触を思いだそうとしていた。

 少年が母親を見あげ、それから学者に視線をうつす。父親によく似たうすいくちびるがひらかれる。

 「教えてください。とうさんと話したことも、とうさんから教わった歌も、ことばも。ぼくも知りたい。ぼくもつかえるようになりたい。ぼくも、先生と話ができるようになりたい」

 ああ、と学者はうなずいた。そうだね。きみとも、いっしょに──

 「いっしょに、いろんな話をしよう」

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