第4話 万人の万人に対する闘争
早朝、朝日の気配を感じて、目を覚ます。
学生の一人暮らしには少し広めのマンションの一室、凛花の眠るベッドの隣に簡素な布団を敷いて、眠っていた。
首だけを動かして、窓の方を見遣れば、青白い光がカーテンの足元を照らしている。
「すぅすぅ。」
ふと、穏やかな寝息が耳朶を打つ。
その音源はベッドでは無い。俺の傍らからだ。
すぅーっと血の気が引き、寝惚けていた意識が覚醒する。
我ながら呆れる速度で身を起こし、顔を振り向ける。
そこには膝を丸めて、俺に寄り掛かるように眠る凛花がいた。それも陶器のような、きめ細かで、しっとりとした肌を惜しげも無く晒し、ほっそりとした鼠径部と美しい造形を保つ爆乳を黒い下着で守っただけの無防備な下着姿。
(・・・・・オワッタ。)
一瞬、最悪の予想が脳裏に過ぎるが、慌てて首を横に振る。
いや、そんなわけが無い。
俺は酒や煙草、薬には手を出さない性分なので、そういう過ちは犯さない。
きっと、凛花が寝惚けて潜り込んできたんだろう。
「・・・・・寒い。」
肌寒そうに身を震わせ、凛花はのそりと起きる。
最悪のタイミングでの起床に、俺は咄嗟に弁明した。
「ちょっと待て!落ち着いて話を聞いてくれ。誓って言うが、俺は何もしてない!」
「・・・・・」
朝の静けさに響き渡る弁解の声。
凛花は鬱陶しげに眉間に皺を寄せ、瞼を擦る。そして、億劫そうに言う。
「分かってるわ。私が貴方の布団に入ったんだもの。」
「・・・・・どうしてそんな事を?」
「1人で眠ってたら、ダンジョンでの事、思い出しちゃったから。」
弱ったように長い睫毛を伏せ、しおらしい声で答える。薄らと暗い部屋のせいか、凛花の横顔はとても儚げに映った。
「・・・・・」
責めるに責められない理由が返ってきたので、俺は困ったように口篭る。
一応、納得は出来る。
1人で眠っていると、死の恐怖感を思い出し、不安感から強迫観念に駆られる。
それから無意識に安心出来る存在を探すようになり、あの時、自分を助けた俺を見つけた。
そして、良くないと考えつつも、強迫観念に逆らえず、隣で寝てしまった。
無くは無いだろう、と思う。
フラッシュバックと言って、過去のトラウマの光景を思い出して、激しい恐怖に襲われたり、夢の中で同じ事を再体験したりしてしまう現象は、既に確認されている。
死ぬような思いをした凛花も、そうなっていてもおかしくは無い。
「そういうことなら仕方ないか。」
事が事だけに俺は気持ちを切り替え、隣で寝ることに関して不問にする。
「ただ、せめて服くらい着てくれ。信頼してくれるのは嬉しいが、無防備が過ぎるぞ。」
「服?」
顎先が内側へと入り込み、深紅の視線が半裸の肢体へと落とされる。
瞬間、凛花の顏は真っ赤に染まった。
悲鳴こそ挙げなかったが、奪い取るように掛け布団を引き寄せ、白皙の肌を隠す。
(気付いてなかったのか。)
呆れを含んだ感想を心中、漏らす。
あわあわと慌てふためいている凛花から意図して視線を外し、立ち上がる。
「俺、朝飯作るから、冷蔵庫の中の物、勝手に使うぞ。」
そのまま凛花に背を向け、冷蔵庫の方に向かう。
そして、やはり振り返らずに告げた。
「それまでに着替えを済ませておいてくれ。」
「・・・・・あ、ありがとう。」
「気にするな。」
まったく賑やかな朝だ。
しかし、悪い心地はしない。
勇者のままなら、決して手に入れることの出来ない、騒々しくも、平穏な日常がここにはあった。
◇
午前9時、凛花の家を出る。
すっかり空へと上がった太陽が青空の中で燦々と輝き、ひりつくような熱さの陽射しを落とす。
日本で最南端に位置する沖ノ鳥島。そこに重なるだけあって、気温も高いように感じる。
定期的に植えられる街路樹の木陰に隠れるように移動し、バス停まで移動する。
「足、大丈夫か?」
「えぇ、ちょっと痛めてただけだったから。1日したら治ったわ。」
革靴をかつんと鳴らして無事をアピールする凛花。無理した様子もないので、本当に平気なんだろう。
視線を前へと戻し、右に少しズレて、前から歩いてきた外国人の男に道を譲る。
「それにしても、外国人多いな。」
外国人とは、我ながら大雑把な纏めようだが、生憎、人種には詳しくない。
こっちの話だけではなく、異世界でも、エルフとハイエルフの区別が付けられず、何度か叱責されたことがあったので、きっと性分というやつだ。
まぁ、単一民族国家である日本に生まれたので、人種という枠組みに疎い部分が有るのは、ある程度、仕方ないと思う。
「ダンジョンを目当てに色んな国から人が集まっているからね。大体、住民の3分の2は外国人と言われているわ。」
「それ大丈夫なのか?標識とか、全部日本語だったぞ?」
「その辺りはAR技術の応用で対応しているらしいわ。ほら、眼鏡みたいなのとか、イヤホンを付けている人多いでしょう?あれはAIの自動翻訳機能を使って、生活しているのよ。」
「言われてみれば、確かに。」
促されるままに、辺りを見回すと、普通の眼鏡よりも少し厚みのあるVRグラスを付けている者がちらほらと散見出来る。
自動運転のタクシーもそうだが、10年前ではまだ試行錯誤の段階にあったものが、着実と実用化されているらしい。よく見れば、配達用のドローンらしきものも飛んでるし。
ふとした実感が胸に去来する。決して感動とは言えないが、捉えどころの無かった月日の流れを、今度はしっかりと手で握りしめたような手応えがあった。
それを胸の奥深くにしまい込み、凛花の話に耳を傾ける。
「まぁ、使ってない人も一定数いるから、同じ言語とか、同じ人種同士のコミュニティが形成されているのが現状だけれど。」
「それだと騒動も絶えないんじゃないか?地域によっては常識とか違うんだし。」
「そうね。トラブルは多いみたい。それにこの島では銃の所持が認められてるから、流血沙汰も絶えないって聞くわ。私は
「・・・・・おいおい、本当にここは法治国家の中か?」
「どうかしら。軽犯罪だと警察とかも動かないらしいし、本質的には無政府主義に近いのかもしれないわね。」
凛花はそう冗談めかしたが、洒落になっていない。
それでは、まるで先生のいない教室だ。
誰かが喧嘩をしていても止める人はいないし、皆、好きなことだけをするようになる。
下手をすると、トマス・ホッブズの語った『万人の万人に対する闘争』のように、自分の利益のためだけに銃撃戦を繰り広げたり、殺し合いをしたりする可能性もある。
「だから、スリとか、ひったくりも多いみたいだから、気をつけて頂戴。」
「みたいだな。」
「え?」と呆然とする凛花の腕を引っ張り、近くに寄せる。
すると、凛花の持つハンドバッグへと伸ばされていた手が空を切った。
話に夢中な凛花の隙を窺っていたらしい。
後ろから走ってきた自転車の男が「ちっ」と舌打ちし、勢いよく走り去る。
「大丈夫か?」
「え、えぇ。」
それだけ確認すると、俺は走り去る自転車の男の方へと向き直る。
そして、腕を伸ばし、パチンと指を弾いた。
途端、数m先を走行していた自転車の男が何か強い力に突き飛ばされたように横転し、物々しい音を当てる。
「まったく、悪い事は出来ないな。すぐに天罰が当たるんだから。」
無様に転んでいる男を指差し、
凛花は目を瞬かせたあと、表情を一転させ、にんまりと悪どい笑顔を浮かべた。
「なら、貴方にも天罰が下るのかしら?」
「残念ながら、俺は勇者だから、そういうのは無しだ。」
「ふふふ、狡い人。」
どうやら凛花も溜飲を下げたらしい。
如何にも小物な犯行を行った自転車の男を追うことはせず、まるで何事もなかったかのように歩き出す。
俺も彼女に追従した。
それから停留所でバスに乗り、天橋学園へと到達する。
「ここが学校なのか?」
天橋学園の文字が書かれた自立看板。
その傍らに立って見上げるのは、巨人のように聳えるオフィスビル。
てっきり学校の校舎的なものを想像していた俺は、予想を大きく裏切られ、困惑した声を落とした。
「会社にしか見えないんだが。」
「実際、そう考えている人の方が多いじゃないかしら。利用者の半数以上は成人した大人だし。」
「・・・・・って事は子供もいるんだな。」
そう言うや否や、銀髪の少女が玄関から出てきた。
凛花と白を基調とした制服。
雪の精霊のような日本人離れした容姿。
肉食獣を思わせる前のめりな歩き方をし、首の襟首辺りで切り揃えられた銀髪をゆさゆさと揺らしている。
年齢は中学生ぐらいだろうか、日本人離れした端麗な容貌からは、若さよりも、青さを先ず感じる。
彼女は、俺の視線に気付いたのか、つり目気味の碧眼を更に鋭くし、剣呑に問う。
「何?」
「特に何も。」
「なら、見てんじゃねぇよ。気色悪い。」
荒々しく吐き捨てて、少女は過ぎ去って行く。
正面きって面罵されたと言うのに、俺の心には些かの怒りも湧いてこなかった。
ただ、離れていく華奢な背中に、言い知れぬ悲哀と痛ましさを感じていた。
「行きましょう。」
俺の心の機微を予想したのか、凛花が腕を引っ張って、強引に俺の意識を少女から切り離す。
きっと気を遣ってくれたのだろう。
心配そうに寄せられる整った柳眉が、凛花の憂慮を良く物語っている。
だから、俺は何も言わずに瞑目した。
祈るような数秒を経て、踵を返し、既にこの場にはいない少女に背を向けた。
ビルの中は非常に混雑していた。
物騒な銃を携えた男から、まだ小学生ぐらいの少女まで、さまざまな人影が行き交い、落ち着いた雰囲気のロビーに猥雑な喧騒を響かせている。
案内された窓口に並び、数分待って、俺の番が来る。
そこで1枚の書類と説明用のパンフレットを手渡され、氏名と住所を書くように言われた。
聞いていた通り、非常に簡素な手続きだ。
恐らく、子供でも登録できるような措置を講じた結果だろう。
パンフレットを読み終え、特に問題点を発見出来なかった俺は、淡々と書類にサインし、探索者になった。
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