第4話 屋上から



 団地の三階に到達した。


転居を進めるチラシと住民の意思確認用の書類を配布してきたが、まともに手渡した相手はたったの一人で、その一人ですらマトモとは言えなかった。


周辺の住宅地の避難が完了しているためか町の音が聞こえない。団地内部からは生活音も笑い声も聞こえない。聞こえるのは雨樋を流れ落ちる半固形物の音だけ、


いや、人の声は聞こえていた。隣の西棟で仕事をしているおっさんの悲鳴のような怒鳴り声だ。半開きの玄関に向かって叫んでいるが、遠すぎて言葉の意味は分からなかった。同じ三階にいるため手を振ってみたがこちらには全く気づいてはくれなかった。




建物が揺れている。


ゆっくりと、小さく揺れている。


建物自体が呼吸をしているかのようだ。廊下の端に立っているとわかる。廊下の真ん中の部屋がわずかに膨らみ、その膨らみがゆっくりとした波のように左右に分かれて、俺のほうへとゆっくり波が来る。端に到達すると揺れは消え、建物は不動の素材に戻った。


しばらくするとまた同じ膨らむ動きを繰り返す。


団地の中のナニかが動いている。それが卵の殻である団地を震わせているのだ。


 俺は震えながらも前に進んだ。


下に降りるよりも前に進んだほうがマシだったからだ。わずか三階の高さなのに地面が遥か遠く見える。廊下も微震しているせいか酔ったように気分が悪くなり熱も出てきたようだ。


それでも仕事を続けてた。役割という殻を被ることで身を守ろうとしているのかも知れない。今までの人生、真面目にやることですべてをやり過ごせてきた。今日だって大丈夫なはずだ。


弱々しくノックして、チラシを差し込む。


ノックした瞬間、硬質であるはずのドアが一瞬ブルルと震えて拳に嫌な感触が残った。


水平である廊下をまっすぐに歩けない。足が床を正しく踏み込めない。何回も目測を誤り転びそうになる。それでも仕事をし続けた。真面目に、真面目に。だがそれはつねに真剣でもなければ真摯でもなかった。言われたことを言われたとおりにやるだけで、自発的なことは一度もなかった。


ノック、チラシ。


ノック、チラシ。


フラフラと廊下を進む。


グラッと建物が大きく揺れた。尻餅をつきその場に座り込む。地震かと思ったが揺れはその一回だけだった。


卵の殻が揺れたのか?


もう時間はないのか?


怯えながら撒き散らしたチラシを回収し、残りの玄関にチラシを差し込んで前に進んだ。


三階は何事もなく仕事を終えることができた。だれも、俺のチラシを受け取ることはなかった。




震える足で階段を上がる。下に降りるのが怖かった。あの女や子供ともう一度再会することを考えたら四階で仕事をしたほうがマシだった。


階段は4階の上、屋上にまで続いていた。


最後の階。4階。


ドアも壁もアクリルのフェンスも階下と変わらない。日が暮れ始めているせいか、廊下はやや暗くなり、遠くに見える空も夜空へと変わりつつある。西棟におっさんの姿は見えなかった。ちょうど階段を上っているのだろうか。向こう側はもしかしたら普通の団地で、なにもおかしなことは起こっていないのかも知れない。おっさんは分かってて嫌な方を俺に押し付けたのだろうか。そんな事を考えても怒りが湧いてこない、感情が疲労しすぎている。


四階の暗い廊下には、今までと同様に玄関のドアが並んでいた。


最初のドアを軽くノックした。


「あ、はぁ~い」


いきなり人間の声がして、腰を抜かしそうになった。まったく想定していなかった普通の人間の声だった。


「あの、この建物にはジュシン災害の避難警告が出されています。その、つきましてはそのお知らせのパンフと、必要でしたら自主的避難拒否の同意書もあります」


今日、初めて人間的な仕事をしている。まともな対話がもたらす安心感が暖かかった。


「あ~どっちもいらないや」


「そういわずに!お願いしますよ!」


中からの声は若い男の声だった。彼は俺のことを面倒な訪問者としか思っていないようだが、こちらからすれば極寒の地で見つけた暖かな暖炉の光だ。俺は必死にチラシを渡そうとした。


「受け取っていただけませんか?もうこの団地は駄目なんですって!あなたも危ないんです!、読むだけ呼んでくださいよォ!」


「だってここに越してもう三年も立つし、いい感じなんだよね~」


「引っ越しに関する補助金もでますよ!ほら、ここ!どこだっけ…このあたりに」


俺はこのチラシをまともに読んでなかったが、そんな文言があったと記憶していた。暗い中でチラシを指でなぞり該当する文章を探し出した。


「ありました!一時金、20万円!20万あったら引っ越せますよね!」


ドアは一切ひらく様子もなく、声だけが返ってくる。


「う~~ん、いいや、だってここ気持ちいいし~」


ドプンという大きな液体がゆらめく音が聞こえた。


「ひなん・・・一時金も30万まででます、大盤振る舞いですよ!」


避難民に国から出る金額を初めて知った。自分の日給とは比較にならない。


「だっれもう、くっついてるし。ォプ。ここ以外はもう駄目だしォプゥ」


「なにいってるんですか?いきましょうよ!危ないってここはもう!」


俺は玄関に手をかけ、ドアノブをガチャガチャと回した。もうこの場に一人でいるのは耐えられなかった。このドアの向こうの男と会って安心したかった。顔が人間だったら誰でも良かった。その思いだけでドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。


ドアがあっさりと開いた。


男はそこにいた。薄っぺらい半透明のしなびたゴム人形、人間が脱皮して出来て薄い皮の抜け殻のような物が、ドアに引っ付いた状態で、ドアの動きとともに廊下に引き出されてきた。


皮の男の中には内蔵も脳も骨格もなく、薄すぎて向こう側が透けて見えた。。


それ以外に誰もいなくて、声は消え失せ、周辺は再び無音となった。


俺は、玄関に引っ張られて延びている男の皮を見て、延びた先へと視線を動かした。男の下半身は蛇のように長く、先っぽは家の中に入り、廊下の奥にまで続いていた。彼の体は5mはあった。


家の中は玄関と廊下の一部を残して消えていた。部屋の中にあるのは半透明の琥珀色の分厚い皮膚。廊下も居間もトイレも、この巨大な皮膚を有するなにか巨大なものによって削りとられていた。団地の部屋の端から端まで、玄関からベランダまでの間に、その半透明の生物は詰まっていた黄色く濁ったその体を通して、玄関から薄っすらとベランダの窓枠が見えていた。玄関の男の皮は、その生物から引き伸ばされたものであって、今見ると、すでに人の形ではなく干乾びた腸の様に見えた。


ぶるりと建物が震えた。その揺れの正体が目の前にいる。この生物のような物が「ジュシン災害」の元凶であることは間違いなかった。俺は室内に一歩だけ足を踏み入れ、その姿を観察した。内部はほとんどが液体で、生物の体の反対側まで透けて見える。反対に見えるのは、団地4階分の窓枠だった。まるで取り壊しの途中で残された外壁だけ、それだけが黄色い水の向こうに立っていた。壁も柱も部屋も消え、外壁部分が生物にもたれかかるようにして残っている。


遠くから見た時に、窓から見えた液体はこの生物の姿そのものだったのだ。今や完全に卵の殻部分と化している団地の外壁。この生き物が少し震えれば建物全体が震えるのも当然だった。透明の巨体を通じて四階の高さから一階の底まで見通せた。窓枠から入り込む西日が生物の体に光の階層を描いている。巨大な生物の内部を泳いでいるものがいる。


それは群れなして泳ぐウミヘビたち。光の筋とすれ違う時、その体が光を反射する。その瞬間に見えたのは、ウミヘビの頭部に生えた人の頭だった。俺にも分かった、それはかつての住人たちだ。何十もの人頭ウミヘビが団地内の海を泳いでいる。


遅すぎたのだ。今更こんなチラシ、巻く必要もなかったのだ。金のためだけに、無為で無駄な事を、仕事と称してやってきたのに…。






「ああああぁぁぁぁーっ!」


隣の棟からおっさんの叫び声が聞こえた。


ドアから出て見てみると。西棟の四階を狂ったように叫びながら走るおっさんの姿が見えた。すでに日は暮れかかり団地に明かりはない。暗い中をよく見てみると四階のすべてのドアが開いていた。そこからどうどうと液体がながれ出て、おっさんを追っていた。


おっさんは、水に追われているのだ。前後のドアから水流が飛び出し挟まれた。


進退窮まったおっさんはフェンスに足をかけ、四階から飛び降りた。遠くに見えるその必死な脱出風景は、小さすぎておもちゃのように見えた。


死すら覚悟したおっさんの飛び降り。しかしおっさんと俺は同時に気づいた。団地前の地面には池のように黒い水が広がっていることを。


「ひっ」


おっさんが発したのは小さな小さな悲鳴だったが、俺の耳には届いてしまった。


バン!という地面に叩きつけられるよりも激しい音が響き渡る。水面はわずかに波打っただけだが、おっさんの姿は消えていた。


黒い水面のおっさんが落ちた地点から、赤黒い水が広がっていったが、それは逆転し徐々に縮んでいき、ちゅるんと中に飲み込まれた。


おっさんがこの世から消えると同時に、俺の立っている東棟が揺れ始めた。


揺れに耐えきれず雨樋が外れ、中に詰まっていた赤黒い液体を宙にばらまく。骨組みだけとなっていた建物は、ゆで卵の殻のようにポロポロと剥がれていく。


廊下が端から崩壊し、こちらに迫ってくる。とっさに考えた。


「あの中に入れば助かるんじゃないか?」


部屋の中の琥珀色の液体世界。


ナニかを捨てれば、命は助かる。


選択肢が浮かび切る前に、まだ崩れていない階段に向かって走っていた。団地の端が崩れ巨大な生物の一部が姿を表す。その琥珀色の皮膚は最後の西日を受けて輝く。


階段にたどり着いたが、その階段自体も下階から崩れ始めていた。道は上にしか残されていなかった。俺は何も考えずに階段を登り屋上に出た。


屋上は怪物の突起に合わせてうねうねとうねり、屋上自体が生物的な形状に変形していた。俺はそのうねりの上を走った。もう崩壊は四方八方から迫ってくる。俺は藁を掴むように、鉄骨の構造体である貯水タンクの金属の柱にしがみついた。貯水タンクもすでに斜めに傾き始めていた。屋上は砂漠の流砂のように崩壊していく。固定されているものは何もなく、全てが崩壊し落下していく。団地を卵の殻としていたモノは今、目覚めようとしていた。周囲の崩壊に恐怖しながら、子供のように鉄骨に抱きついた。


その時、西棟が全壊し巨大な何かが姿を表した。屋上はすべて崩れ、空中に放り出された。俺は怖くなって目を閉じた。地上に姿を表したアレを見ると死ぬ、という根源的な恐怖がまぶたを閉じさようとしたが、好奇心が目を開かせた。人生の結論を目にしたいと開かせてしまったのだ。


眼の前には暗闇に染まっていく空の色。


あらゆる団地の破片が宙を舞っている。


僅かな太陽の光がその巨体の輪郭線を照らしていた。半透明の皮の中には液体と人でなくなった人達。


明らかに四階建ての団地よりも大きなそれは、琥珀色の巨大なミジンコとタコの触手が合わさった生物…


それは空を飛び、


理解しようした瞬間、脳の神経が焼き切れる。神経はフリーズし、握り込んでいたチラシを手放す。空中に舞い散る、用のない紙たち。


視界に入った情報が変換されず、電気のように脳に流れ込み、神経のつながりを破壊していく。


黄昏に浮かんでいた巨大な物は、太陽の光が消え去るのと同時にその姿を空に溶け込ませていく。夜の闇と一体化するモノ。


「邪神」


それを見てはいけない。


遅れてきた本能が目を閉じる前に、俺の瞳孔は焼け始めていた。視界の隅が焼けただれ視野が強引に広げられる。邪神の全体像が見たくないのに見えてくる。それは姿を見せるだけで視神経を焼き始めた。初めて感じた痛みに絶叫する。喉の奥、鼻の奥、耳の奥とは違う、目の奥の痛みは強烈だったが、俺の視神経は一瞬で焼き尽くされた。


 わずかに残った一つか二つの視神経が、最後に俺に見せたのは迫りくる地面だった。


空中を落下し、肉体は死に体、落下死は目前。その時感じたのは、今まで感じたことがない自由だった。


重力もない。いるべき場所も、向かうべき未来もなくなった。


そしてなにより、俺の手にはもうチラシがない。


一瞬の自由への到達は地面との接触で終わった。


地面の匂いを鼻が感じ取った瞬間、鼻は潰れ頭蓋骨内にめり込み、その瞬間に。


全てが暗く消えた。








暗闇はまだ続いていた。


全ての感覚と肉体を失った俺は新たな視野で世界を見ていた。


それは青黒い闇に黄金の稜線が輝く世界。今まで見ていたのとはまったく違う感覚でこの世界を見ていた。


俺はカスカスに見える自分の体をおいて宙に舞い上がる。あの大きな黄金のミジンコの神に吸い寄せられているのだ。空に浮かぶ黄金の枠線で描かれた邪神、その巨体と比する者はこの世界にはない。


近づくと邪神の体には寄生したウジのような状態の人間たちが何十人もいた。邪神に吸収された団地の人々のようだ。彼らはゆらゆらと揺れながら邪神の一部となりその喜びにより狂っている。それを見た時、俺は嬉しく思った。


俺の手にはまたチラシがあった。彼らのもとに届けなければならない。今度は一人ひとり丁寧に、心を込めて、


「ここにいるのは私自身の意思である」


確認するまでもないことだが、それが俺の仕事だから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

邪神団地でチラシ配りを 重土 浄 @juudo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ