第3話 二階
この団地には建物の両側に階段がある。
つまり一度通った廊下を戻らずに上の階に行ける、もう一度同じ廊下を戻らなくてすむ。
あの女が作った水たまりを歩く必要がない。
二階に上がって見えるのは、高さ以外は一階と何も変わらない廊下の光景だった。
同じ様に5つのドアが並び、それを一個づつ丁寧に呼びかけていかなければならない。
なぜこんな仕事をしなければいけないのか?
これが安い賃金に見合う行為なのか、そういった不条理さが心を重くして、しばらくそこから動けなかった。
西棟に目を向けると、同じ目にあっているおっさんの姿が見えた。彼もまた二階に上がり、すでに半分くらい仕事を進めていた。玄関のドアをやたらと叩いては声を上げている。その姿は、とんだ命知らずに見えた。
手元にはまだ数十枚のチラシが残っている。これは俺のノルマだ。ノルマを終えないと帰ることは許されない。
ジャシン災害避難指定区域という異界にいながらも、俺は人間社会のしがらみと人生で培ってしまった半端な良心に縛られていた。
また端からドアをノックする作業に戻る。廊下の外側では雨樋に流れる濁流の音が響き、剥がれ落ちたペンキの粉が粉雪のように舞っていた。
一軒目、インターホンを鳴らし、ドアを叩く。しばらく待っても反応がなかった。チラシを差し込み、次のドアへと向かう。
雨樋を流れる濁流の音の中にゴトンゴトンという固形物が流れる音が加わっていた。
二軒目も、三件目も手早く済ませた。
インターホンの音とノックの音を被せて、なるべく気づかれないように工夫し、足音すら立てないようにした。その成果が出たのか、住民は一人として顔を出さなかった。
「ジュシン者」というものを実際にその目にする一般国民は多くない。
ネットには大量にジュシン者の映像が上がっているが、それはたいてい焼却処理前の遺体での姿だ。ブルーシートに並べられた魚のような顔になったジュシン者の遺体の画像にはたいてい「魚市場」という書き込みがされる。大量の不幸が溢れて日常化しているこの国では他人の不幸はいくらでもおもちゃにして良いこととなっている。もちろん俺も書いたことはある。
「ジュシン者保護」の名目でネット上の個人情報や、ジュシン前と後の顔写真の比較画像などは、プロバイダーが片っ端から消しているが、アップするスピードには追いつけない。
生きている時の動画もアップされている。その大抵は遠くの安全地帯から撮られた映像で、魚のマスクをした人間がのそのそ歩き、悲鳴を上げて逃げる一般人、という内容なので、数回見てすぐに飽きた。
今さら取り立てて興味を湧くものではない。
一般の、俺たちのような普通の人間にとってのジュシン者は「哀れな感染者」であり、基本的に死体として転がっている者という認識であった。
生きているジュシン者、それも意味不明だが言葉を話すジュシン者と接触したのは、今日が初めてだった。
二階の最後の部屋に到達した。
ここまで誰も出てこなかったため、今回も大丈夫じゃないかという期待が込み上げてきた。全部屋にチラシを差し込むだけで終われそうだ。そんな期待すらでてきた。
そう思ってノックしたらすぐに、ドアが開いた。
玄関にいたの子供だった。
俺は彼が半ズボンを履いているのを確認した。
「あ~~、ボク?お父さんかお母さんはいないかな」
人が出てきてしまった以上、仕事をしなければならなかった。
俺の前に立った子供は五歳位か?
身長が俺の腰の高さしかない。子供はうつむいたままでこちらを見ない。突然の来客に戸惑っているのか。
「あの~、パパかママを呼んできてくれないかな?」
子供の無反応が続いた。うつむいて見えない顔からポトリと液体が落ちた。おれはよだれだと思って足を後ろに下げる。その後もぽたりぽたりと液体が垂れるので、もしかして泣いている?何らかの家庭内の問題に遭遇してしまったか。
厄介事の臭いがしたので早々にこの子供にチラシを渡して退散しようと思った瞬間に、室内から音がした。
西日がよく通るのか、廊下の奥のガラス戸に人のシルエットが見えた。そして声が、
「ォゥプ!オゥプ!オオゥ!プフゥ~!」
俺は眉をしかめた。聞こえてくる声は人間ではないが人間に近い。ガラス戸の向こうのシルエットは声に合わせて上下に動いていた。
二体のなにかが絡み合って規則的に動いていた。
「ォップッ!ォォップゥ!ォプゥッ!」
まちがいなく生き物の嬌声だった。
奥の部屋でなにかが交尾していた。
だがそれは人の声のようでありながら、オットセイの鳴き声のような…まともな発声器官から出ている音ではなかった。
一声ごとに一突きごとに、ガラス戸を揺らし、声が外まで漏れてくる。水面のように揺れるガラスの中で、交尾中と思われる物体から墨汁のような黒い液体が噴出され窓枠内が黒く染め上がっていく。
濁った水槽の中で交尾しつづける生き物達。絡み合った二体が動きの勢いで徐々に上昇し、二体の足はもう床についていない。
玄関でその音を聞かされている子供と俺。
「ゥゥゥゥォイォォイ!ォプォプォップ」
いっそう動きが激しくなり、ガラス戸はガタガタと揺れ、放出される体液が濃くなる。音は玄関から飛び出し、団地中に響き渡っている。
こんな声を聞かされて涙を流していた子供のことを思い出し、彼の方を見た。。
うつむいた少年の顔から開けっ放しの蛇口のように水流が流れていた。
すでに俺の足元はビシャビシャになっていた。慌ててその場から下がる。
外の雨樋に流れる水の音と同じ音が、この子供の頭から聞こえてきた。
俺は勘違いしていた。この水は子供の目や口から流れているんじゃない。彼のつむじから水は湧き出ているんだ。黒髪の薄くなったつむじの白い皮膚から、湧き水のように水が湧き、それが髪の間を伝わり、魚のように細長くなった顔から滝のように流れ落ちている。
水の冷たさで青くなっているつむじから、水が止まらない。つむじの奥からブクブクという泡とも声ともつかないものが途切れなく湧き上がる。その水流に押されたのか、つむじの白い肉が溶けて流れ始まる。毛の付いた肉が流れ落ち廊下にびちゃびちゃと落下する。肉と髪を失っても水は止まらない。少年のハゲが広がっていく。周囲の青白い肌もグズグズになり水にドロドロと溶けていく。皮膚が流れ落ちついに頭蓋骨のヒビが見えてきた。
俺はチラシを持ったまま固まり、少年の頭部が冷水により剥けていく様を見させられている。
むき出しになった頭蓋骨の縫合が外れ、大きくがま口のように開きはじめた。子供の頭が開き、暗く小さな金魚鉢のような中身が外からも見えるようになる。
俺の眼球が固定されている、動かせない。視線が子供の小さな頭蓋骨の内部に釘付けになっている。
彼の頭の小さな暗闇の中にいたのは、やはり魚だった。大きな魚の頭が少年の頭の中に収まっていたのだ。頭蓋骨にぴっちり収まるサイズの魚の頭。湧き出る水流によりピクピク震えている。その魚の方向性の定まらぬ巨大な目が、暗闇から俺を見ていた。
脳の中の魚と目が合い、互いに見つめ合った。俺の目も魚のように見開いたままで、どんどん乾いていく。少年の流す水は廊下を濡らし続けて、滝のよう建物の外に流れていく。
バン!と廊下の奥から音が響いた。交尾していた何かがガラス戸を叩いた音だった。
途端、全神経が目を覚ました。とっさに駆け出した俺はすぐ側の階段に飛び込んで階上に駆け上がった。ビシャビシャと子供の頭から流れ出る音は階段の壁に阻まれ遠くになった。
三階に逃げ込んだ。
耳の中では水が流れ続けている幻聴がまだ聞こえていた。
三階から階下に耳を澄ませたが何かが追ってくる気配はない。恐る恐る廊下から顔を出し階下を覗いた。下の階は角度的に覗けなかったが、廊下から外に滴り落ちている水流だけが見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます