第2話 団地の中へ


 建物に近づくと、雨樋のパイプの中を流れる水音が聞こえてきた。


 今日一日、雨なんて降っていないし、ここしばらく降っていないはずだ。それなのに屋上から延びているパイプの中からゴボゴボと大量の水が流れ落ちる音が鳴り響いている。


 入り口の前に立つと団地の細部が見えてくる。白く塗られたペンキは劣化し、葉脈のようなひび割れが壁一面に広がっている。風が吹く度に剥がれ、細かなペンキの破片がポロポロと宙を舞う。すべての鉄部品はサビが目立ち、プラ素材は白くかすんでいる。人が住んでいる気配をまるで感じない。建物は劣化ではなく老化していた。


「曲がってる?」


見上げる建物の垂直面がふっくらと膨らんでいる様に感じられた。


建物である以上、建築基準法がある以上、垂直な壁であるはずの建物の側面が、建物内面の圧力に屈したのか小さなカーブを描いているのだ。


遠くから双眼鏡で覗いた時に見えた


「団地内部にみっちりと詰まった何か」


それが四角いはずの建物を、わずかに膨らんだ曲線の入れ物に変形させていた。


 ギシギシという音が聞こえてくる様な気がした。視覚情報の異様さが聴覚に誤認識を起こさせる。聞こえる音は雨樋を流れ落ちる水の音だけだ、それ以外には何も聞こえないはずだ。


俺は目を背け耳を塞ぎ、急いで団地の一階に入っていった。


すべての蓋がガムテープで止められた郵便受けが最初に見えた。全室分の郵便受け、20個の蓋が使用不能にされていたが、一箇所だけテープが剥がされていた。そこだけに集中してチラシが詰め込まれて限界まで差し込まれてた。一つだけ空いている穴に強引に注ぎ込まれ続けたチラシが長く伸び。まるで郵便受けがチラシを吐瀉しているかのようだった。


入り口から左手を見る。


5つの住居の5つの玄関が端まで並んでいた。廊下もまた外側に向かって緩やかなカーブを描いていたため、5つの玄関ドアが等間隔に見えなかった。壁や床にホコリが溜まっているが、歩行者の足跡などは残っていない。誰もここを歩いていないのか。


隣の東棟を見ると、おっさんがすでに仕事に取り掛かり、住人にチラシを渡してなにか話している光景が見えた。開かれたドアに隠れているため住人の姿は見えなかったが、いまだに人が住んでいることは間違いないようだ。


俺もあきらめて仕事をすることにした。


仕事をしなければ、この場を立ち去ることも許されない。


最初のドア「Eー101」のチャイムを鳴らしドアを叩いた。マジックで書かれたであろう表札の文字は、かすれきっていて読めなかった。


ピンポーン・ドンドン


ピンポーン・ドンドン


返事がないからまた鳴らして叩いた。


内部に耳を凝らす、生活音が聞こえない。


しばらく待って、またドアを叩く。


多少無礼だが仕方ない。だが、中からは反応は帰ってこなかった。


諦めようと思った瞬間、ドボンという水音が室内で大きく響いた。


その音の異様さに思わず後ずさった俺の動きに合わせるかのように玄関ドアがゆっくりと開く。


中から出てきたのは50代くらいの女性だった。普通の人間に見えた。その顔は化粧っ気もなく素顔だったが、年老いた顔の作りに対してツヤツヤと艶があり、鼻は極端に小さく、目は極端に離れていた。


極端な、魚顔というやつだった。


「ァら、すみません。手が離せない用事がァりまして」


薄手のロングネックセーターにエプロンといった普通の装いだったが、下半身は裸だった。


それを見ても俺はうれしくはなかった。足は年相応の太い足で、水気を吸いすぎて膨らんだ大根のようだ。それは水死体を思わせる質感と色で、びっしょりと濡れていていた。足を伝って流れた水が彼女の足元に水たまりを作り始めていた。


 風呂上がり、という好意的解釈も難しかった。女の体からは湯気どころか熱気すら感じなかった。女の濡れた体からは冷気すら感じられるほど冷めていた。


 俺は女の下半身に目を向けないようにしながら今日来た目的を告げる。即席で作った名刺とジュシン災害避難地区指定がなされたことを告げるチラシ、そして残留希望者であることを証明する書類をなんとか渡した。渡した時に指が女の白い根っこの様な指に触れてしまった。水回りにできるヌメリのような感触に、背筋が震えた。


彼女の足元に広がる水たまりが、ついに俺の靴にまで届いた。


女は自分が下半身露出していることに一切気にしていない。当たり前のように立ちながら虚ろな目でチラシを眺めて世間話を繰り広げる。


「私ももう引っ越したいと思ってたんだけどね、どうしても旦那が許してくれないのよ、許しが得られるまでにあと3年はかかるっていってるしね。市役所のほうから来たって?サギなんじゃないの」


「いや、そういうわけでは…」


「旦那が死んでね~みんないなくなって寂しくなってきたでしょ。でも天気が悪いからなかなか目が覚めなくて、今日になってやっと娘が生まれたから、家族そろったって誕生日をしってたァの」


 俺の顔の向こう、明後日の方を見ながら話し続ける女。大きな口からツバキが飛び散っている。


こんな大きな口だったか?


虚ろな目は黒目が大きすぎて、いやそれ以上に眼球も大きすぎる。顔に大きな穴が開いているようだ。肌は白く艶があるが、生命感のかけらもない。喋りながら女が顔を動かすと横顔が見えた。


顔が突き出しすぎている。


人間の顔というのは正面に対して緩やかな曲面を描いていて、そこに目鼻がのっている。目鼻は水平垂直の位置関係にあるのだが、この女は顔面自体が正面に突き刺すように伸びていて、目はその左右両面にある。


魚顔ではなく、完全なウオな顔だ。


最初っからこんな顔だったか?


自分の記憶があいまいになる。最初にドアから現れた顔はもっと人間の顔だったはずだ。こんな魚みたいな顔じゃなかった。正面顔と横顔が違いすぎる…。


女はまだ人間が話すような内容をでたらめに話している。しゃべるたびにウポッウポッと口から空気が漏れた。


「ゥポッ上の人が、井上さんっていうんだけどね、上がうるさいからパパが天井をつつくたびに卵がボロボロ落ちてきてね、ウポッそれを見た息子が我慢できなくなって精子を振りかけたの、それみて大笑いよゥポッ」


魚みたいな女が楽し気に喋っているのは猥談のようだったが、意味がわからない。足を伝う液体は量を増し、赤く濁りだしていた。


 女は話し続けているが俺を見ていない。視線は感じない。突き出した顔面のせいで片側の顔しか見えない。横顔に張り付いている巨大な黒目はあまりにも大きすぎて視線という方向性を見いだせない。


 顔がどんどん延びている。


足元の水たまりが広がっていく。


目をそらし続けていたら、女の横から部屋の奥が見えた。真っ暗な室内。奥のガラス戸が閉じられていて居間は見えないが、西日がガラス戸から差し込んでくる。ガラスをとおる光はゆらめき、水面のように見える。


そのゆらゆら揺れるガラス戸の向こうを何かの影が泳ぐように通り過ぎた。


影は魚よりも大きく、鳥のように室内を飛んでいた。


居間であるべき場所を何かが泳いでいるのだ。


 耳元でぼちゃり、と水の跳ねるような音がした。その音に驚いた俺は目線を女に戻す。


黒い大きな両目がこちらを見ていた。


さっきまで意思すら感じなかった目に視線が生じていた。


まっすぐこちらを見ていた。顔面に対してあまりにも大きな目、魚屋の大型魚の眼球をくり抜いて貼っつけたような、あり得ない大きさの目とその視線…


 俺の顔だけではない、上半身まるごと見ている。黒目が、でかすぎる。




「ではッご検討をお願いしますッ」


おれはそれだけ言ってその場から逃げ去った。女に背中を向けて駆け出し、一軒となりの次のドアの前で停止し、次の仕事の準備をしているふりをして待った。仕事の途中であるふりをしながら、背後の動向に全神経を集中した。


背中に女の視線を感じた。あの大きな目が左右2つで見ているのを感じた。張り付くような視線だ。視線を感じた部分の皮膚が冷たい汗をかく。胸を抑え心臓を落ち着かせる。


背中に感じていた視線の圧力が弱くなり、自分の背後でドアが閉まる音が聞こえた。ようやく振り返ると、さっきの女の姿は消えてドアも閉じられていた。廊下には大きな水たまりだけが残っていた。




二番目のドアを叩きインターフォンを押す。


今回は一回だけ呼び出す。またあんなのが出て来て欲しくはない。俺は叩きながらも右側をチラ見して101の女が勘違いして出てこないかを警戒していた。


「これ読んどいてくださーい」


と仕事のアリバイとしての声かけのあと、玄関下にチラシを差し込んで次の部屋に向かった。誰も出てこないことに安堵していた。


東棟に目をやると、おっさんはすでに一階の最後の部屋に到達していた。あんな変人を相手に仕事が出来ているおっさんに驚き、かすかな尊敬すら感じた。




一気に一階の仕事を終わらせる。


インターフォンを一度鳴らし、ノックを一回だけ…軽く叩く。それで確認は完了したとばかりにチラシをドアの下の隙間から差し込んだ。ドアの前にいる滞在時間を減らし、すぐに次の玄関に向かう。


遥か遠く上の方、国から委託された業務は俺に流れてくるまでに最低限の額の仕事に変わり果てていた。俺がそれをさらに削り、最小の労働に作り替えた。


ドアを一回やさしく叩き、ドアベルをゆっくりと慎重に押す。そして返事も待たずにチラシをドアの下に差し込む、だけ。


俺は人生で初めて、自分自身の手で仕事を改変し、改悪した。


初めての「不真面目」を行っていた。


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