第12話・生きるということ


 千花の顔にすっと翳が差し、表情が見えなくなる。

「その花は思い出の花。死んだ人はね、思い出の中でしか生きられないの。星羅ちゃんは、死んだななちゃんを忘れようとした。だから、彼女はここにはいない。いくら探しても、思い出の花は見つからないよ」

 くしゃっと潰してしまった便箋。星羅は、ななの想いを見ることもせずに、拒んでゴミ箱に捨ててしまった。紙を握り潰したあのときの感覚が、じわりと手のひらに蘇った。

「だって、嫌だった。手紙を見たら、おしまいだもん。なながもういないってこと、認めなくちゃいけなくなる……」

 星羅は、顔をくしゃくしゃにして泣きながら言った。千花は、子供のように泣きじゃくる星羅をそっと抱き締め、あやすように言った。

「……ごめんね。置いていってごめん。泣かせてごめん。約束も、守れなくてごめんね」

 千花の声が、優しく星羅の心に染み入っていく。千花の声は、星羅の中で次第にななの声と重なっていく。星羅は思わず千花に抱き着いた。ぎゅうっと、強く、その存在を確かめるように両腕に力を入れる。

「違うの……ななはなにも悪くないの。ごめんなさい。忘れようとしてごめんなさい。ななの手紙、ぐしゃぐしゃにしてごめんなさい……」

 しゃくりあげながら謝る星羅の背中を、千花は優しく撫でてやる。

「寂しかったの。置いていかれちゃって……ひとりぼっちになっちゃって。私、なながいないとなにもできないから」

「うん」

「ななに会いたい」

「会えるよ。星羅が私のこと、思い出してくれれば、思い出の中でいつだって会える。だからお願い。私を、ずっと星羅の中で生かしてよ」

「なな……」

「もうここに来ちゃダメ。次ここに来るときは、もっとたくさんのことを経験して、人生に満足して、あー楽しかったって言ってから来るの。いい?」

 星羅は千花のセーラー服を掴む手をぎゅっと握り込む。

「……戻ったら、ななはいないの?」

「私はいつでも星羅の心の中にいるよ。だから、泣かなくて大丈夫。星羅と私は、ずっと一緒に生きてくの。私を生かして、星羅」

 星羅は千花からそっと離れると、涙を拭い、頷いた。

「……分かった」

「約束ね」

「……約束」


 小指と小指をしっかりと絡ませ合う。ふと、顔を上げると、そこにななの姿はない。そこに佇んでいるのは、千花だった。

 死は、悲しい。別れは、苦しい。どうしたって避けられないこの世の摂理だ。

 けれど、星羅はまだ生きている。

「私、帰りたい。先生に会いたい……」

 瞳に涙をいっぱい貯めて千花を見上げる星羅に、千花は優しく微笑んだ。

 見ると、千花の姿は霞み始めていた。

「……千花さん。あの」

「葵のこと、よろしくね」

「うん」

 千花は泣きそうな顔をして、くしゃっと笑った。

「……ありがとう」

 千花は、星羅をまっすぐに見て言った。

「ひとつだけ、頼みがあるの」

「頼み?」

「美月に、元気な赤ちゃん産んでねって伝えてくれるかな」

「ちゃんと伝える」

「葵には……」

 千花はつと黙り込んだ。

「葵先生には?」


 星羅は、じっと千花の言葉を待つ。


「葵には、なんだろうな。今さら浮かばないなぁ……。ちゃんと食べてとか、ちゃんと寝ろとかだとありきたりだし……うーん。いいや。ないや」

「え、いいんですか? でも、せっかく……」

「……じゃあ、葵には上を向けって、言ってくれるかな」

「上を向け?」

「葵が下向いてたら、代わりに叱ってやって」

「……分かりました」

「じゃあ約束」

 千花はくすくすと肩を揺らした。

「千花さん、ありがとう。私、頑張って生きる」

「うん。手術は怖い。術後もきっと辛いと思う。それでたとえ病気が治っても、退院したら社会に出るからね。勉強とか友達関係とか、進学とか就職とか、大変なこといっぱいあるけど、頑張れる?」

「頑張る。ななと千花さんと約束したから」

 千花が笑う。

「偉い。ななちゃんの分も、一生懸命生きて」

「うん!」

 星羅は千花と握手を交わし、力強く頷いた。


 星羅はまどろみの中をたゆたっていた。木漏れ日に包まれたように全身が温かい。

 遠くからかすかに聞こえてくるモニター音に、星羅はゆっくりと目を開いた。開いた瞼の隙間から差し込む光は強烈で、星羅は思わず目を細めた。

「星羅ちゃん……?」

 すぐ耳元で、よく知る人物の声が聞こえる。星羅は辛うじて動く瞳を声の方へ向けた。視界の隅が、少し濁っていた。星羅はどうやら、酸素マスクを付けられているらしい。吐いた息が少し湿って肌につく。薬の匂いが肺を満たしていた。

「葵……先生」

 星羅は、ベッドの上にいた。けれど、雰囲気がいつもと少し違う。いろんな機械音がする。

「ここ……」

 星羅がいたのは、ICUだった。

 葵は星羅と目が合うと、へなへなとスツールに座り込む。

「……私、なんで」

 出した声は掠れている。

「……星羅ちゃん、屋上で倒れてたんだよ。一時は危ない状態だったんだから。覚えていない?」

「屋上……」

 たしかに、エレベーターを上がった記憶はあるが。あのエレベーターは、屋上ではなく天空へ行ったはずなのに。

「千花さんは……?」

「千花?」

 葵が眉を寄せる。

「……なにか、夢でも見たの?」

 葵が優しく星羅に訊ねる。

 そうか。あれはやはり、幻。星羅は死の淵で不思議な夢を見たのだ。

「……頭は痛くない? ドキドキしない? 呼吸も、どう?」

「……大丈夫」

「そっか。良かった」

 葵は心底ほっとしたように目を伏せた。

「……先生、ごめんなさい。私、先生にひどいこと言った」

「うん?」

「先生、私ね、さっき夢を見たの。私にそっくりの女の子がね、星の川床を案内してくれたの」

「そっくりの……」

 葵がハッとした顔をする。

「すごく綺麗なところだった。星が海みたいにたゆたってて、花が咲き乱れてて、暖かくて。雨にも濡れたの。初めてだった。すごく気持ちよかった」

「……そっか」

 葵は星羅の夢の話を、優しい顔で聞いていた。

「それでね、先生に言伝預かったよ」

「言伝?」

「上を向けって、言ってた。先生すぐ下向くから」

「……ははっ。そっか」

 葵は頷き、かすかに微笑んだ。

「元気そうだったよ、千花さん」

 葵は驚いた顔をして、星羅を見る。

「私たちは、星の旅人。空の上には、いろんなものが混じり合っていて、果てがなかった」

「……そう」

「先生。私、手術受ける。頑張って中学卒業する」

 葵がさらに驚いた顔をした。そして、眉を寄せたかと思うと、瞳が滲み出す。光に反射した葵の瞳は星のように綺麗で、星羅はじっとその目を見つめた。

「私、生きたい」

「……うん。生きよう、星羅ちゃん」

 安堵したような感じではなく、心底嬉しそうな、少し子供っぽい表情で、葵が頷く。

「私は私の人生を生き抜いてから、ななに逢いに行く。それで、私が知ったことを全部話すの。星の川床を旅しながら」

「……素敵だね」

 葵は星羅の手を取り、優しく握った。

「絶対、助ける」

 星羅は重い頭をこっくりと動かし、微笑んだ。

 ふと、葵の横に視線が行く。棚の上には、ななから生前に受け取った手紙があった。

「それ……」

 葵に頼んで、捨てたはずだった。

「親友からの手紙を捨てるなんて、友達失格だと思うよ」

「ごめんなさい」

 謝りながら、その下にあるもうひとつの便箋に気が付いた。澄んだ青色の綺麗な便箋だ。

「先生、そっちの手紙はなに?」

「あぁ……それ、星羅ちゃんを見つけたときに近くに落ちてたんだけど、星羅ちゃんのじゃなかった?」

 葵はそれを手に取り、星羅に見せてくれる。宛名も送り主の名前もない。星羅は首を傾げた。

「……先生、開けて」

「うん」

 葵が丁寧に封を切り、中身を取り出す。入っていたのは、一枚の写真だった。銀河鉄道の汽車で眠る星羅の写真だ。少し色褪せている。写真の中の星羅は、青いビロード調のシートにもたれ、車窓に頭を預けてうたた寝をしていた。

「あれ、これ……星羅ちゃんだね? どこで撮ったの?」

 葵が写真を見て首を傾げる。

「……ねぇ、先生。私、チェキ持ってた?」

「チェキって、カメラ? いや、見つけたときはこの便箋以外にはなにもなかったと思うけど」

 星羅は写真をじっと見つめた。

 この手紙は多分、千花からのものだ。この写真はおそらく美月からもらったチェキで撮ってくれたものだろう。

 写真をひっくり返した葵が、「あっ……」と声を上げる。後ろに一言、メッセージが添えられていた。

『懐かしかったから、チェキはもらっちゃった。代わりに切符を同封したから、それでチャラってことで。またね! ――千花』

 便箋を逆さにすると、『星の川床→天浜病院ゆき』と印字された薄汚れた切符が一枚、葵の手のひらにふわりと落ちた。

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