第11話・壊れたあの日


 俯いた二人を、光の渦が包む。場面が変わる。

 アラーム音と、運び込まれた患者の呻き声。白い部屋を染める赤い飛沫。薬液の匂い。

 ストレッチャーが運び込まれるローラー音。

 全身ぐっしょりと濡れ、青白い顔をした少女がストレッチャーに横たわっている。


『ユキ! ユキ……!』


 しがみついていた母親が、必死に少女の名前を呼ぶ。何度も、何度も。

『お母さん、落ち着いてください』

『私が、私が目を離したから……お願い、あの子を助けて』

 看護師は二人がかりで母親をストレッチャーから引き剥がし、落ち着かせる。

『十歳女の子、川で溺れ心停止。心臓が止まっていた時間は分かりません。溺れているところを見つけた父親も川に入り、共に流されました。父親はまだ見つかっていません』

 救命センターは、まさに地獄絵図だった。

『除細動!』

 葵はストレッチャーに駆け寄り、声を張り上げた。

『大丈夫、頑張れ……!』

 葵は額に汗を滲ませながら、必死に少女に声をかけていた。その間も、患者はどんどん運び込まれてくる。

『先生、ななちゃんが……』

 小児科の看護師が部屋に入ってきた。真っ青な顔をして、葵を見る。

『ななちゃんが、急変しました』

 葵の顔が強ばる。

『なんで、今……!』

 どきりとした。


 ――これは。


「もしかして、ななが死んじゃったときの?」

 ななが死んだ日の、葵の記憶。

 あの日、葵はスタットコールに対応し、救命センターにいた。だからななの処置に遅れたのだと思っていた。

 星羅の中でなにかが壊れたあの日。あの日、葵は必死だった。星羅の瞳から、涙が落ちる。

 

『……先生』

 看護師が悲しげに葵を呼ぶ。それでも、葵は少女の心臓マッサージを続けていた。

『すぐ行く。ユキちゃん頑張れ! 戻ってこい!』

 目の前には、見たことのない葵がいる。汗を流して、歯を食いしばって、懸命に消えそうな命を掬いあげようとする葵がいる。緊迫した命の現場に、星羅は思わず手を握った。

『ダメです、戻りません……!』

 看護師が嘆く。

『除細動、もう一回!』

『先生!』

『いいから! こっち、誰かアシスト!』

 けれど懸命の処置も虚しく、アラーム音は無情に少女の死を知らせる。

『……葵先生、行って』

 別の患者を診ていた先輩医師が、見かねて葵の手を掴む。

『でも……この子はまだ!』

『もう無理だ、この子は』

 力なく首を振る先輩医師の手を、葵は振り切る。

『まだ分かりません!』

 それでも必死に少女に手を伸ばす葵を、先輩医師が叱責する。

『しっかりしろ! ななちゃんが待ってるんだぞ!』

 葵は涙を堪え、唇を噛み締めた。

『あとはいいから、早く行け』

 葵が診た少女は、結局助からなかった。そして、その後ICUに向かったものの、ななも……。

 

 亡くなった少女の母親が、葵に掴みかかる。

『どうして……』

『……力及ばず、申し訳ありません』

 葵は深く頭を下げた。

『ユキ。ユキ……』

 泣き崩れる母親を見下ろし、葵は肩を震わせる。

『……申し訳ありません』

 

 いつも大きく見えていた葵の背中が、途端に小さく、か弱いものに思えた。

「先生……あんなに頑張ってたのに、どうして謝るの? あんなに頑張って助けようとしてたのに」

「……だって、医者は結果がすべてだから。お母さんは処置室の中を見ていないんだもん」


 ――そうだ。


 星羅もそうだった。ただ冷たくなったななを前に葵はななを助けてくれなかったのだと、それだけを思った。

 星羅の肩に、千花がそっと手を置いた。

「人が弱っていくところを見るのって、結構辛いんだよ。患者である私たちには、どうしたって分からないけど。でも、今は分かる。私はここで、いろんな人の思い出を見てきたから」と、千花は言う。

 星羅は目を伏せた。そんなこと、これまで一度も考えたこともなかった。

 星羅はこれまで、健康体の人たちと一線を引いていた。

 自分とは違う。彼らは、自分のことなんてなにも分かりやしないんだと。けれど、それは星羅も同じだったのだ。星羅だって、残される側のことを考えたことがなかった。

 ななが先に死んでしまって、初めて気がついた。彼女との思い出をすべて忘れてしまいたいと思うほど、苦しいことに。

 葵はいつもその感覚を味わい、さらに遺族からの恨み言や罵倒を一身に受けていた。

「先生……」

 星羅の瞳からは、とめどなく涙が溢れる。拭っても拭っても、涙は止まらない。

 心が、からりと音を立てた。

「私、ななとの思い出、全部忘れようとしてた。だって、辛くて……思い出すと、涙が出てくるから」

「私が今ここにいられるのは、葵と美月が思い出を大切にしてくれているからなの」

「……そっか。だから私は、ななに会えないんだね。忘れようとしたから」

 この花の海に、星羅の思い出の花はない。

 これは罰。ななを忘れようとした罰なのかもしれない。

「気持ちは分かるけどね」


 その後、光の花は二人に千花と葵と美月の三人の思い出を見せた。面会が難しくなった千花と、美月が写真交換を始めたこと。死ぬ間際、千花が美月に残したメッセージは、葵と幸せになって、私の分も生きてほしいという言葉だった。

 悲しい音楽。菊と線香の匂い。千花の棺の前で泣き崩れる美月。呆然と立ち尽くす葵。卒業式の日、空いた一席。下を向いた葵を、美月がそっと抱き締める。美月に抱き締められ、葵はようやく涙を流す。一度溢れた涙は止まることなく、葵はいつまでもぼろぼろと泣き続けた。

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