第36話

 前掛けの腰紐を締めたエリがレジを指さした。明確にはレジが乗っている棚の下だ。


「嫌だな、忘れちゃったんですか?あそこの下に入っているヤツですよ。黒い革の。ほら、中に何も書いてなかった本。タムさんにも見せたじゃないですか。そしたら、そこに仕舞っといてって。」


 追加で注文しようとしていた冬木真冬の動きが止まる。追加の注文内容はおそらくカフェ・ラテだと思う。けれど、エリの言葉を聞いた冬木真冬は口を一文字に結んで、ゆっくりオレに目を向けた。


「タムさん、後でお話があります。」


 冬木真冬の口調はキャバクラ嬢の名刺を見つけた奥さんのそれである。


「えっ・・・?」


 オレと冬木真冬を交互に見るエリが困惑の声をあげる。


 冬木真冬が予言書を探していることは知っている。彼女自身がそんな事を言っていたと記憶している。それは、小春と梨夏の二人からの協力依頼があったんだと思う。これはオレの予想だが、当たらずも遠からずだってところだろう。冬木真冬が協力を快諾したかは定かではない。小春はともかく梨夏に関しては、協力関係を要請するにしても強引だった可能性も考えられる。


 話し合いの現場に居なかったオレには正確な事は分からない。それでも、経緯どんな感じであっても協力関係となったのは事実。予言書の特徴についても二人から聞いていたのは間違いない。そして、その特徴とエリが言った本の特徴が合致。探し物がすぐ近くにあったのだ。忘れ物とは言え、現所持者を問いただしたいのは無理もない話だ。


 拷問や尋問の類にはならないと思うが、この本が予言書だったと知らなかった事にしようと思う。


 冬木真冬はすぐに予言書を確認することはなかった。


 依頼されてはいるが、冬木真冬の優先順位の上位に該当する案件ではないらしい。だけど、彼女はエリに一つのお願いしていた。


「後でタムさんの連絡先を送っておいてください。お願いします。」


 その時の冬木真冬の笑顔をオレは忘れることはないだろう。


 、その単語に力を込めた、やけに強調した言い方だった。当のエリは状況が理解できていない様子でオレの顔をチラッと見た。だが、すぐに冬木真冬へ視線を戻す。


「うん、分かった。」


 この一言で美人に詰められると言う、一見ご褒美にも思えるイベントが確定。今の時点で冷や汗をかく準備はできている。


 エリの意思を確認した冬木真冬は会計を済ませて退店してしまった。


 エリは冬木真冬を見送った後でキッチンへ向かって歩いて来る。ひどく難しい顔をしている。彼女の頭の中では自身がわかる範囲での原因究明が行われている事だろう。内容はもちろん、冬木真冬のオレに対する態度の変化。冬木真冬も表面上は平静を装っていたが、仲の良いエリには分かってしまうのだろう。


 エリはカウンター越しにこちらを見た。


「何をしたんですか。」


 そう言ったエリの声は人を責めるような物言いだ。


「得に何もしていない・・・と、思う。」


「本当ですか?」


 エリはわかりやすいジト目を向けてくる。


 今回に関しては本当に何もしていない。いや、今回に関しては何もしなかったことが原因なのだ。それでは、どうするのが正解だったのか。その解を示してくれる人はオレの周りにはいない。だって考えても見てくれ、以前お客さんが忘れた本が貴方の知り合いが探している予言書かもしれません。そんな事を言われた方だってどんな反応をして良いのか分からないだろう。


 事情を知らない場合、確実に言い出した人間の精神状態を危惧すると思う。最悪繋がりを断つ事も視野に入れるだろう。幻覚作用を持った薬をやっている可能性を考えてだ。そんなファンタジー要素満天の薬が合法で出回っているなんて聞いた事がない。


「本当だって、オレは何もしてないって。」


「真冬ちゃんを怒らせると恐いですよぉ。私は起こったところを見たことはないんですけどね。でも、普段穏やかな人が怒ると恐いって言うじゃないですか。あっ、それはタムさんも同じですね。」


 エリは一人で勝手な事を言って、一人で勝手に納得して、一人で勝手に笑い出した。彼女のマイペースは相変わらずだ。


 確かにエリの言う通り、冬木真冬を怒らせると恐そうである。


 その後数時間が経過した。営業も終わりの時間を迎え、仕事を早々に終わらせたエリも帰ってしまった。オレもこの金庫をレジの下にしまって本日の業務を終える。


 スマートフォンの画面には受信を知らせる通知は無い。


 エリは冬木真冬にオレの連絡先を教えたのだろうか。他に予言書が見つかった可能性もある、そんな事を考えた時スマートフォンがメッセージを受信した。誰かも分からないアカウントではあるものの、本文の一番最初に自身が冬木真冬であると告げる一文があった。


 来ちゃったか、オレとしてはそんな気分。このままメッセージを開かずに帰宅してしまう選択肢もある。この時ほど物事を即決したためしはない。


「よし、見なかった事にしよう。」


 オレは急いで着替えを済ませると、ガスの元栓と照明を全て落とした。


「家に帰ってから既読を着けて、ごめん見てなかった、そんなメッセージを送ればいいよな。」


 仕事ができないクソ野郎の言い訳みたいな事を考えつつ店のドアへ向かった。


 オレはドアノブへ手を伸ばす。するとドアが勝手に開いた。瞬間的にオレの直感が危機を知らせた。黒い影の姿が頭をよぎる。足を半歩引いた。だが、できるのはそれだけ、この体制のまま襲われたら身を守る自信はない。だけど、黒い影だった場合はドアを開くなんて行動をしないだろう。


 ドアが完全に開いた。


「あら。」


 ドアノブを掴んでいたのは冬木真冬だった。

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