第35話

 二人が向かった空間と店の中を隔絶するようにドアが閉る。それを見届けた冬木真冬がゆっくり振り返った。ぎこちない笑顔だ。苦笑いと言うべきか。そんな彼女の表情を見ても、感情を正確に読み取る事はできない。それでも、オレが冬木真冬の立場であれば・・・まぁ、心中お察ししますとは言いってあげたい。


 それはそれとして、店主としては冬木真冬の気持ちに寄り添う前にしなくてはいけないことがある。


「いらっしゃいませ。いつもの席空いてますよ。」


 そう言って指し示した席は隣にエリが座っている。冬木真冬の来店に気付いたエリがパタパタと手を振っていた。当然、オレにではなく冬木真冬にである。


 冬木真冬に先ほどと違った笑顔が咲いた。


 長い黒髪のポニーテールを揺らして、冬木真冬が店内を歩く。まるでエリに引き寄せられているように。


 冬木真冬の態度を見てつくづく思う、エリと梨夏で対応が違い過ぎやしないかと。だけど、それはオレも同じなんだろう。


 オレは冬木真冬の後ろに続いてキッチンへ戻った。


 エリと冬木真冬は簡単な挨拶を済ませると手を軽く合わせた。それから椅子に座る間も無く話し始めた。オレがメニューを準備する間、若い女の子特有の若干高いトーンの話し声が店内に響いた。数人のオジさんがわいわい騒ぐようなガサガサした印象はなく、店内は幾分華やかになった。


 オレの耳には少しうるさく感じてしまうのは内緒だ。


「メニューを置いておきますね。」


 話し込む二人の邪魔をしないように、小声でそう告げたオレはカウンターにメニューを置いた。冬木真冬はともかくエリがオレの動きを見ていたので、然るべきタイミングで注文を促してくれるだろう。


 オレは希望的観測を踏まえ仕込みを始めた。


「真冬ちゃん、先に注文しちゃいなよ。」


 エリの言葉を聞いてオレの眉がピクリと動いた。


 エリが注文を促すと思っていたけれどオレの想定よりもかなり早い。いや、正確には早すぎると言った方が良いだろう。玉ねぎを二個程スライスにできるくらいの時間はあるだろうと踏んでいたのだが・・・まだ、皮むきすら済んでいない。


「そうですね。タムさんが困っちゃいますものね。」


 そう言いつつメニューへ手を伸ばす冬木真冬。今注文されても逆に迷惑・・・と、までは言わないまでも、ペースが乱れるのは事実。


 メニューを見た後は即断即決。


「そうですね、えーと・・・タムさん、鱈とほうれん草のトマトソースをお願いします。」


 何も言えずに首肯しかできなかった。


 よほどエリと話すのが楽しいのだろう、注文をオレに告げた冬木真冬は談笑を再開した。


 普段は大久保と並んで優柔不断の極みのような冬木真冬なのだが、今日に限って言えば微塵も悩むことはなかった。本日のパスタとして記載したものがそうさせたのなら、このメニューを考案したオレのセンスが良いって証拠だ。少し自信になる。


 普段通りサラダとパンをセットで用意して注文の品の制作に入った。


 鱈の煮込みソースを用意して、それにトマトソースを入れただけ。ほうれん草は冷凍物を使用。手抜きとは思わないでくれよ、一人で回しているんだからそれくらいは勘弁してほしい。鱈の煮込みソースはトマトソースを加えなくてもパスタソースとして成り立つものにしておく、そうすればどんなお客さんにも対応できる。だけど、その作り方は企業秘密ってことにしておいてくれ。


 冬木真冬はパスタを提供してからもエリと話しながら食事をしていた。時々エリの友達が来店するけれど、それはいつも彼女が仕事中であり、落ち着いて話をする事はできない。エリの休憩時間に合わせて来店してくれればよいのだが、それを言ってもなんとも曖昧な返事があるだけ。


 エリの年齢を考えれば友達の多くは学生時代のものだろう。この店で飲食店での接客のキャリアをスタートさせたわけで、徐々に考え方にズレが出てきたって事なのだろう。そうなると話すのが徐々に億劫になってくる。


 エリもそんな感じなのかもしれない。新しく友人になった冬木真冬の方が楽しくおしゃべりできるのだろう。


 ゆっくり賄を食べていたエリが完食した。それは、隣でパスタを食べていた冬木真冬と同じタイミングだった。


「ごちそうさまでした。今日も美味しかったです。」


 エリがそう言って両手を合わせると隣で冬木真冬も合掌した。そして、エリが言った。


「私、そろそろ仕事に戻るね。」


「ごめんね休憩中に。」


「大丈夫よ。楽しかったし。」


 そんな女子トークが聞こえてくる。


 冬木真冬が来店してからはそれほどお客さんも来ていないので、エリにはもう少し休憩してもらってもいいのだけれど。エリが自分で時間を確認して仕事に戻るといったのだ。ここはエリのやる気を尊重するとしよう。


 エリは自分の分と冬木真冬の分、二人分の皿を持ってキッチンの洗い場で汚れを落として洗浄機のラックに入れた。


 エリは前掛けの腰紐を後ろ手に締めながらオレに問うた。


「そう言えば、この前の忘れ物って持ち主さん取りに来ました?」


「忘れ物?」


 この数日でも忘れ物は数件あった。エリがどれの事を言っているのか、それはエリに聞かなければ分からない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る