第19話

 黒い影が氷の礫と化した。影だったは擦り下ろされるように細かい粒子となって崩れていった。まるでかき氷のように、その粒子は空気中でさえも姿を保つ事ができず消えてしまう。現実には存在しない、まるで幻であるように。


 オレは体の自由が効かず、全ての氷が消え去るまで見ているしかできなかった。虫の合唱も、フクロウの鳴き声でさえ聞こえず、崩れ逝く異形の影だった氷を静かに見ている事しかできなかった。巫女も同様に、刀の切っ先を下げて氷が崩れ行く様を黙って見ていた。特徴的な長い黒髪を一つにまとめ、淡い青に輝く刀を持った長身長躯の巫女。彼女が氷刃の巫女なんだろう。


 彼女の周りを氷の粒子が取り巻いて消えていく。幻想的でもあり今宵の満月に映る。不謹慎にも見とれてしまった。



 氷刃の巫女が刀を鞘に納めた。そして、こちらを見て笑顔を作った。


「ご無事ですか?」


 氷刃の巫女は顔立ちの整った美人だった。オレは彼女を知っている。


 体は無事だし頭は働いている。だけど、声は出せず氷刃の巫女の問に対しても返答はできずにいた。すると、巫女ではないもう一つの声が聞こえた。


「主ヨ。」


 男の声がした。


「動ケナイヨウダ。気ガ乱レテイル。」


 その声は片言で、やや聞き辛い。


 氷刃の巫女の背後から現れたのは大きな白い犬。いや、狼・・・白い狼だった。


「それはうっかりしてました。」


「邪気ニアテラレタノダ。数分モスレバ落チツクダロウ。話ハソレカラ聞ケバイイ。」


 氷刃の巫女が視線を向けている先に居るのは白い狼。もしかすると、この声の主は白い狼なんだろうか?そう考えるとこの白い狼が神様の御使いに見えてくる。氷刃の巫女が神の御使いの声を聞けるのは分かる。だが、その声がオレにも聞こえるのはなぜだ。動物は何時から人語を扱えるようになったのだろうか?


 それから数分間は体が言う事をきかず、神経なのか体なのか判然としない感覚が悪い状態が続いていた。だからと言って数分もの間、外でうずくまっているとは思わなかった。ずっと氷刃の巫女と白い狼が側に居てくれていたけれど、彼女達は何を語るでもなく側に居るだけ。回復の呪文を唱えてくれる事もなかった。だって、ゲーム等では巫女さんって回復役だったりするからな。


 言葉を発する事ができないので、ポケットに入っている鍵のを取ってもらう訳にもいかず。巫女さんにボディチェックをしてもらう訳にもいかない。それ以上に、動けない自分の体を調べられる事に抵抗がある、それが女性ならなおさらだ。


 白い狼風に言えば気が落ち着いてきたのだろう、徐々に体が楽になってきた。この数分間、惰性で呼吸をしているだけの状態で、息を大きく吸い込める程度には回復した。意識して呼吸ができる。肺が膨らんでいる感覚、それから息を吐き出しはじめた。ゆっくり。そう、とてもゆっくり。


 多少体が楽になったので声を振り絞る。


「・・・あ、あ。」


 喉から出た声は自分から出たとは思えないほど苦いもので、それでも声を出せるまでには回復のはありがたかった。微かな声だったと思うけれど、周囲に音が無い今ならばそれで十分だったようだ。氷刃の巫女と白い狼が同時に顔を向けた。


「どうですか、少しは落ち着いて来ましたか?」


 戦いを終えた氷刃の巫女の声は優しかった。


「はい。」


 短い返答をするので精一杯だった。体の状態は本調子には程遠い。それでも、両足に力を込めるとなんとか立つ事ができた。多少フラつくけれど歩ける程度には回復している。


「助けていただいて感謝します。」


 お礼の言葉を送って氷刃の巫女の顔を見た。氷刃の巫女の身長はオレよりも少し低い。


 知っている顔だ。それもここ最近見た顔。何処で?たしか店の中。そうだ、お客さんだ。カウンターに座った時はもっとカジュアルな服装をしていたんだ。巫女服を身につけていると雰囲気もガラリと変わるものだ。長身痩躯で容姿端麗の巫女。彼女には聞いておかなければならない事があるような。


「いえいえ、無事で何よりです。」


 氷刃の巫女が笑顔を見せた。人を安心させる柔らかい笑顔だった。月光が氷刃の巫女の顔を照らす。


「さっきのはいったい・・・。これまで生きていて見たことはなかった。一時期東京に住んでいたとは言え、ガキの頃からこの街の事は知っている。少なくともあんな生物がいるなんて聞いたこともない。」


 そもそもが生物なのか、その問いを投げかけるべきだろうか?仮に生物でないならば何なんだ。もしかして見えてはいけないモノを見てしまったのだろうか。


 氷刃の巫女がゆっくり話し始めた。


「まずは、体に外傷・・・怪我が無いようで何よりです。」


 氷刃の巫女は笑顔を崩さない。


「主ヨ、コノ者ニ話スノカ?」


 男性の片言の声がした。氷刃の巫女が背後に控える白い狼を見る。初めて聞いた時は半信半疑だったけれど、この声に対して氷刃の巫女は二度も白い狼の方を見たのだ。白い狼が人間の言葉を使用していると判断してもいいだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る