第17話

 家業時間が終わった。エリが言った通り集中して作業をしていた。そのため時間が過ぎていくのはあっと言う間だった。


 ここでオレには悩みの種が存在感を示してくる。


 黒革の本に書かれた時間が迫っている。素直に来て欲しくない時間。いつもは早く仕事を終わらせよう、だが今日はとてもそんな気分にはなれなかった。オレの気持ちとは裏腹に、今日に限ってお客さんが帰るのが早い。ラストオーダーから片付けを終えるまで滞りなく仕事が進んで行った。


「タムさん、ホールの片付け終わりました。」


 エリが告げた時キッチン内の締め作業を終えた。終わってしまったと表するべきなのか。後はレジを締めれば本日の業務が終わってしまう。


 どうにも今日は仕事する手が重い。それでも、この憂鬱やストレスはオレだけのものだ。エリに伝染してしまうのは避けたいから、表面上だけでも明るく取り作らなきゃならない。


「お疲れ様。終わったら着替えちゃって。」


 そう言ってレジに向かう。エリから返事は無かった。それでも、更衣室兼倉庫のドアが閉まる音が聞こえた。指示は届いているらしい。


 レジ金と伝票を持って近くのテーブルに移動する。この作業は座ってできる仕事だしな。


 レジ金の点検は感覚が介入する余地はない。手順を踏めば答えが出てくる。その辺が料理と違うところで、人によっては苦手な部分だ。


 作業手順も毎日やっていれば慣れたもので、五分程度で結果が出た。


「よし、大丈夫。今日もズレはなし。」


 今日もエリがしっかり仕事をしてくれたようだ。オレの仕事は増えずに済んだ。そうなると、次の仕事は金庫にお金を入れる、金庫をしまうだ。


 金庫の蓋を閉じた時、更衣室兼倉庫からエリが出てきた。


「今日もお疲れ様。明日もよろしくね。」


 普段と変わらない言葉をかけた。しかし、エリの雰囲気がいつもと違う。オレの顔をジッと見た後で椅子に座った。


 何かあるのだろうか?


「それじゃぁお姉さんが話を聞いてあげます。」


 すっかり忘れていた。数時間前の話の続きらしい。


 お節介と言うか世話焼きと言うか。オレの周りの女性・・・クロコも雌だから女性だよな・・・御袋も含めてこんな感じなんだろうか。まるでオレが頼りないみたいじゃないか。確かに四十手前で独身、私生活ではぐうたらで、食事もコンビニ飯が多い。そんなオレを見れば他人は頼りなく感じてしまうのだろうな。


 こうなると少し煩わしい気分になるものだ。


「いいって、何でも無いから。気持ちだけありがたくもらっておく。」


 レジ金を入れた金庫をしまうために椅子を立った。オレの態度を見てエリがあからさまな不満声をあげた。


 その後しばらくの間、エリとは世間話をした。機嫌取りである。それに、時間にして数十分だったが普段話す機会が少ない。言葉を交わさないと分からない事だってある。エリが何を考えているのか少しわかったような気がした。


 不意にエリのスマホが何かを受信、着信音があった。会話の途中だったけれど、エリがスマホを確認する。


「あら、やだ。もうこんな時間。ごめんなさい、帰りますね。タムさんも遅くならないうちに帰ってくださいね。」


 エリはそう言って椅子から立ち上がった。


 店の時計へ目を向けると、閉店してから一時間近くが経過しようとしていた。オレは店から出ようとしているエリの背中に声をかけた。


「引き止めた形になってゴメンな。明日もよろしくね。お疲れ様。」


 閉じるドアの隙間に笑顔で手を振るエリの姿が見えた。



 着替えを済ませると、オレは店のドアノブを握った。何気なく回しているドアノブが重い。目を閉じて大きく息を吐いた。


 詳細なんて分からないが、これから起こる何かを思えば当然だ。


「興味本位で占いの本なんて見るものではないな。」


 呟いた言葉は闇の中に消えていく。


 自身に事故が起こるとわかっていて外を出歩く人間なんていない。今夜は見せに泊まった方が懸命なのではないか、そう思えて仕方ない。しかし、それではこの店が原因の事故が起こるだけかもしれない。


 因果は収束するものだ。おっと、アニメの見すぎだな。


 今は無事に氷刃の巫女って奴に助けられるのが懸命だろう。


 意を決してドアを開いた。


 夜の冷たい風が頬をなでる。夜にしてはやけに明るい。これは外灯の明るさではなく月光が強いのだ。夜空を見上げると満月で、夜なのに明るい今が不気味さを演出していた。


 店の入口から車までの距離遠くない。それでもオレは足を止めた。車の反対側。闇が形をもったような、影が膨らんでいくような。適切な表現が見つからない。それでも、それは大きく・・・ただただ巨大で、視線が上向きになる。


 数日前に遠目で見た大きな影が頭をよぎる。


 影の中に赤い・・・血のような光が灯る。その赤を見た途端、体が硬直した。全身が麻痺したように、氷漬けにされたように、体中の感覚が消えた。後ずさろうにもオレの意思では足も動かず、息を飲もうにも叶わない。それどころか目を背ける事すらできない。立っているのが不思議なくらいだ。


 大きな影に変異が始まった。


 細く枝分かれするように四本の四肢が形成される。凄く大雑把で、幼稚園児が描く絵のようだった。きっと、はこの世では異物でしかないのだろう。形を成すのがやっとで、四肢があるからの形が人なんだと理解できる。大きさは二メートルを優に超え、体に対して頭が小さく腕が異様に長い。赤い単眼が頭の中央に


 人型になったソレが一歩踏み出した。人型ではあるが腕を地につけた四足の姿勢である。音も振動もない、滑るような動きで距離だけが縮まる。


 赤い光がギョロリと動いた。赤い単眼がオレに向けられた。影が小さい頭を伸ばしてくる。硬直した体では逃げようがない。オレの眼の前で再度赤い光が動いた。可動域がかなり広く、影の顔全域を赤い光が移動したように見えた。この直後、体の自由が戻った。いきなりの事で膝から崩れ落ち、尻もちをつく形となってしまった。


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