第13話

「ふぅ、疲れた・・・。」


 帰宅して開口一番出てきたのはネガティブなものだった。オレの声を聞いたからだろうか、奥から黒猫が現れた。その黒猫はオレから距離をおいて座った。


「おう、クロコ。ただいま。」


 同居者に帰宅を報告する。だが、黒猫はオレを見上げるばかりで声をかけてくる事はなかった。オレだって声をかけたって言葉が返ってこない事は理解している。それでも顔を見たら話しかけたくなるじゃないか。


 猫相手に話しかける成人男性を見て、寂しい人間だと思うかもしれない。短いため息の後、うつむき加減で一歩を踏み出す。


 部屋の中は暗い。


「おかえりなさい。」


 声がした。気のせいでなければだ。どこからともなく聞こえた声には覚えがある。今朝聞こえたのと同じ声だったと思う。


 声のした方を見るとクロコがオレを見上げているだけ。


 気のせいだったのだろうか、そう思うと自然とため息が漏れる。だってそうだろ?幻聴にしてははっきり聞こえ過ぎだ。


「疲れているのかな、オレ。」


 クロコから目を離すと壁にあるスイッチを押した。すぐに天井のLEDが闇を追いはらう。明るくなったおかげて視界が広がった。部屋の中は今朝のまま。テーブルの上にコンビニ袋を置いて上着を脱ぐ。その後で座椅子に身を預けた。


 オレの後を歩いていたクロコが少し距離をとって座る。コイツはベタベタと甘えない。もともと野良猫だった事も関係しているのだろうか。飼い猫になって数年、飼い主としては少し寂しい気もする。だが、クロコにとってはこの距離感が心地よいのだろう。それでも目の届く範囲にいるのだ、嫌われていない証拠だろう、そんな身勝手な考えのもとクロコと生活してる。


「疲れているのなら今日は早く休みなさいな。」


 さっきと同じ声がした。誰の声かなんてどうでもいい。今は瞼が凄く重く体がダルい。


「はいはい、もう寝ますよ・・・。」


 気の無い返事をした。その直後、オレの意識は睡魔に襲われて眠りの渦の中へ飲み込まれてしまった。



「タム、起きて。ねぇ、起きてってば。時間だよ。」


 耳に入ってくる声で、眠りの渦から這い上がる事ができた。声の他にアラーム音が聞こえる。


 薄目を開けると蛍光灯の光が飛び込んできた。


「今日もやっちまったか。」


 昨日に引き続き寝落ちしてしまったらしい。


 寝ぼけ眼を擦りながらスマホを探す。ポケットの中が震えている。バイブが作動しているスマホを取り出しての画面を見ると、現在の時刻とストップ、スヌーズの文字が表示してあった。


 当然アラームを止めるように操作をした。


 大きくアクビをして背を伸ばした。昨日同様に背中の骨がキシキシと軋むような感覚がある。


「あぁ、痛ったぁ・・・。」


 体もそうだが当然頭も重い。


「ほら、ちゃんとお布団で寝ないからだよ。体痛いのも自業自得だからね。」


「御袋みたいな事いわないでくれ。」


 反射的に返答したけれどオレは一人暮らし歴が長い。嫁か御袋みたいな事で小言を言うような人間がこの部屋の中にいるとは考えづらい。だが、悠長に声の主を探している時間はない。だって、アラームが鳴っていたって事は普段の起床時間はとっくに過ぎているのだから。


 立ち上がって一応部屋の中を見渡した。やはり人の姿は無く、床に腰を下ろした一匹の黒猫がいるだけだ。クロコと目が合った。


「早く支度しないと仕事に遅れるわよ。まずはシャワーを浴びていまいなさい。あと、出勤する前に渡しのご飯を用意してから行ってね。昨日の夜から腹ペコよ。」


 クロコは笑顔を作るように目を細めた。


 クロコの声が聞こえている?オレはまだ夢の中にいるのだろうか。


 オレを見上げるクロコが見ている前で頬をつねる。痛みを感じるって事は夢の中ではないってことだ。頭の中が混乱してきた。


「ほら、何をボヤボヤしているのよ。サッサと動かないと遅れちゃうわよ。」


 クロコに急かされるままバスルームへ向かった。確かに考えに浸っている時間なんて無い。だが、シャワーを浴び、歯を磨きながらでもクロコが喋っている今の状況を現実と受け入れる事ができないでいた。


 バスルームから出ると、クロコが自分専用の食器の前からオレを見た。


「次は私のご飯よ。ほら、急いで。」


 よくできた嫁、もしくは優秀な上司のように的確で明確な指示を出す黒猫。そして、それに従う人間。どっちが飼い主なんだ、そう聞かれた場合は答えに困ってしまうな。


 クロコ専用の食器に猫缶の中身を入れる。クロコは、ありがとう、そう言って食べ始めた。


 内容を加味するとオレに話しかけているのはクロコで間違いない。いつの間にか猫の声が聞こえる特異体質になってしまったって事か?なんとも地味な特技を身に着けたもんだ。


「まぁ、聞こえるものは仕方ないか。」


 よくわからない状況ではあるが、とりあえず受け入れるしかない。猫と話ができる事でオレには何のデメリットも無いように思うが、それは後で考えればいいじゃないか。


「それじゃ、行ってくるよ。」


 玄関へ向かうオレの背中にクロコが声をかけた。


「行ってらっしゃい。頑張ってね。」


 それに対しては何も返答しないが、見送ってくれる者がいるってのは良いものだと初めて思った。

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