第12話
仕事を始めてから数分後、エリが出勤して来た。挨拶の後で世間話をする。内容は俗に言う他愛のない話。話もそこそこに、エリが開店準備を始める。簡単な掃除とテーブルのセッティング、エリは早々にそれらを終わらせカウンターで少しの間ゆっくりする。時間になるとエリはドアにかかっている札をCLOSEからOPENに変えた。
今日のランチタイムは特別忙しくもなく暇でもなく、一度満席になる程度の普通の営業の装いだった。
営業開始から数時間、オレの手が空いた。仕込みが一段落したのだ。
「洗い物これで最後です。」
エリがカウンターの上に皿を重ねる。
店の中にはオレとエリの他に一組三名の女性グループが残っている。おそらくあの三名は全員が主婦なのだろう。スピーカーから流れるジャズの音色を押しのけるような声で談笑している。その内容は旦那の愚痴から子供の進路まで多岐に渡っている。彼女達の話を盗み聞きをしたい訳ではないのだが、狭い店だから聞こえてしまうのだ。
カウンターの上にいつまでも皿が積み重なっているのはみっともないので洗い場へ下げる。
「お疲れさん、とりあえず一段落って感じかな。」
エリに声をかけた。すると、彼女は小さく息を吐いた。
「お腹減った。」
エリがつぶやいた。彼女の顔を見ると、うつむき加減で疲れた顔をしていた。いつもの元気が無いとは思っていたけれど、昨夜帰宅してから出勤するまでに何かあったのだろうか?プライベートな案件なのでオレから聞くことはしない。けれど、雇い主としては心配してしまう。
オレの視線に気付いたエリが顔を上げて笑顔を作った。
「昨日帰ってからすぐ寝ちゃって。タムさんの賄食べてから変えれば良かったなって。今朝も起きるの遅くなっちゃって。」
エリはそう言って笑顔を向けている。その笑顔を見てオレは察した。
「それで、賄で何を食べたいのかな?」
エリはその言葉を聞いて、待ってましたと言わんばかりに言った。
「私、牛肉が食べたい、です。」
その言葉を聞いてオレは一瞬動きを止めた。
接客をしている以上、エリも使用している材料をある程度分かっていると思う。メニューで使っている牛肉は三種類。ひき肉とサーロイン、それとヒレ。ひき肉はすでにボロネーゼに仕立ててパスタソースになっている。そうなると、エリの言葉の真意とは?
意図を探るべき問を投げようとした。しかし、彼女の方が一枚上手で。
「でも、今日はパスタの気分じゃないですね。タムさん、私、ご飯が食べたいです。」
その言葉を聞いて苦笑いを返した。
パスタを拒否するってことは、ボロネーゼを拒否する事と同義だ。仮にこのキッチンにスパイスが揃っているならボロネーゼをキーマカレーのようにアレンジする事は可能だろう。しかし、カレーに仕立てられるほどスパイスの種類はない。故に使える牛肉の種類は限られる。
要するに、エリは遠回しにステーキが食べたいと言っているのだ。
「うーん・・・。」
かすかに唸り声を上げてエリの要望に答えられる賄を考える。それでも、手間を考えると出てくる答えは多くない。
「やっぱり、ステーキ丼か。」
ポツリと呟いた言葉。主婦三人組の話し声で消えてしましそうな声量だったけれど、タイミングが悪い。ちょうど話の切れ目だったようだ。店内に流れるジャズの音色だけの時間だった。エリの耳はオレの言葉を拾ったようで、彼女の表情は狙い通りと言わんばかりの晴れやかな笑顔になった。
「ありがとうございます。わーい、楽しみ。」
そう言ってエリは布巾を持ってテーブル席へ向かった。次の言葉を紡ぐ前にお礼を言われては何を言う事もできない。
本日の賄がステーキ丼に決定する運びとなり、オレは冷蔵庫を開けて賄で使用できる牛肉の選定に入った。数十分後、三人の主婦グループが帰り店内にはお客さんが居なくなった。エリはすぐにテーブルの上を片付けた。
「ノーゲストです。」
エリの声がした。彼女へ目を向けると、何かを期待するような目が向けられていた。期待している内容は分かっている。賄のステーキ丼だろうな。
「賄作っちゃうから、とりあえずテーブルのセッティングだけお願い。」
エリは、はーい、と普段と何ら変わらない返事をした。新規のお客さんも入って来なかったので数分でステーキ丼が完成した。
「エリさんお待たせ。丼とは言ったけれど適当な器が無かったからワンプレートみたいにしちゃった。飲み物は適当に用意してくれな。」
カウンターの上にワンプレートステーキランチ風に盛り込んだ皿を置く。
エリはオレの声に呼応するように、ありがとうございます、と礼を述べると前掛けを外した。それからウーロン茶をグラスに注ぎ、それを持ってカウンターの端の席に座った。
「美味しそうですね。」
エリは本日の賄を見ただけで満足した様子で、満面の笑みを浮かべている。
「醤油とワサビを使ったソースをかけてます。横に添えてあるサラダは塩とオリーブオイルで味付けてるからそのまま食べてください。」
どこかの料理漫画を彷彿とさせるような簡単な説明をする。オレは至高のメニューも究極のメニューだって目指している訳ではない。ただ、目の前で食べた人が笑顔になってくれれば、昔からそれだけは変わらない。
エリがサーロインとご飯を口の中に入れた。味を噛みしめるようによく噛んで飲み込んだ。
「あぁ、幸せ。」
頬に手を当てて幸せオーラ全開なエリの表情を見て、自分の仕事に多少の満足感を覚えた。
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