第8話
「ありがとうございました。」「ありがとうございました。」
オレとエリの声が重なる。二人分の感謝の言葉を聞いたお客さんが出ていった。すでにラストオーダーは過ぎている。先のお客さんが本日最後。店内に居るのはオレとエリの二人だけになった。
ふぅ・・・本日何度目かの短いため息が漏れた。
バッシングを済ませたエリが洗い物をカウンターの上に置く。彼女もまた短いため息を吐いた。エリもオレと同じことを思っているのかもしれない、ため息が出てしまう理由だってわかる気がする。
「お疲れ様。昼から大変だったな。今日は何の日だったんだ?」
エリがこちらへ目を向けた。いつも明るい彼女にも若干疲れの色が見える。
「お疲れ様でした。今日は近所でお祭りでもあったんでしょうか?そんな話は聞いてませんでしたけど。ネットでこの店がバズってるって話も聞いてないですし・・・人気店になるのはもう少し先でもいいような。とにかく今日は一日忙しかったですね。」
若干漏れた本音であろう言葉はスルーするとして、今日は一日通して忙しかったのは事実。エリを休憩に行かせる余裕すら無かった。うーん、労働基準法に引っかかるからバイトとは言え休憩は取らせないといけないよな。素直に反省しないといけない。
「腹減ってないか?まだパスタ湯生きてるから何か作るよ。」
労いの意を込めて問う。オレができる事なんてそんなもんだ。だけどエリは首を横に振って否を示した。
「今日はつかれたんで早く帰ります。」
「・・・そっか。」
エリの返答が少し意外に思えて続く言葉が出てこなかった。いつもの彼女なら食べて帰る。単純に今日は疲れたから、それも理由の一つかもしれないが、何やら他に理由があるのではないかと思ってしまう。プライベートを詮索する事はしたくないので、オレからは何を聞くこともしない。
エリだって一人になりたい時だってあるのだろう。だって人間だもの。
「その代わり明日の賄を豪華にしてください。ステーキとか。久しく食べてないですね。それならトンテキでもいいです。」
エリが満面の笑みをオレに向けた。単純に疲れて早く帰ろうって事だったみたいだ。
賄を豪華に・・・彼女がどんな物を望んでいるのかは分からないけれど、トンテキならできなくもないけれど、ビーフを賄で使うならばハンバーグか。手間を考えると遠慮していただきたい。
そんなエリに対して返答できる言葉は多くない。むしろ、この一言しかない。
「善処します。」
エリはこの一言を聞けて満足した様子で閉店作業に移った。
「・・・あら?」
作業をしていたエリが不意に声を上げた。
目を向けるとエリが客席で何かを見つけたようだ。この店が異世界に繋がっているダンジョンでもあるまいしお宝を発見したって事でも無いだろう。
エリが荷物入れから一冊の本を取り出した。十中八九忘れ物だ。それにしても本がそのまま入っているとはどんな事態だ。バックに穴が空いていたのか、注意力が散漫になるほど酔っていたのだろうか。はて、そんなになるまで酒を飲んで帰ったお客さんはいただろうか?
「タムさん、忘れ物です。本?ノート?」
本は黒い革製のカバーに包まれている。仮に本でもタイトルは見えないし、キッチンの中からでは中身を読む事はできない。
エリがページをパラパラと捲る。
「あら。空白ばっかりで何も書いてない。何なのかしらこの本。どうします?まさか捨てはしないですよね。」
エリはそう言って本を閉じた。両手で持っているエリの姿を見るとB4くらいのサイズ。ノートと言われればそう見えなくもない。
「カバーが立派だから一応取っておこう。もしかすると大切なモノかもしれない。その席に座ったの予約のお客さんではなかったよね?」
オレの問にエリが首肯する。それで忘れ物の主の連絡先が分からない事が確定した。
「とりあえずここに置きますね。」
エリが本をカウンターに置いて閉店作業に戻った。
カウンターに置かれた黒革のカバーには金色の文字で何か書かれていた。語学に疎いオレにはなんと書かれているのかは読めない。
こんな派手な色で自身の名を書く者は日本人にはいるまい。もし、そんな人がいたとしてもオレの周りにははいなかった。それに、仮に名前を書くにしても本来タイトルが書かれているであろう場所には書くまいよ。かなりの傾奇者ならば話は別であろうが。
エリは閉め作業をサッサと終えると、文字通りさっさと帰っていった。有言実行ととらえるべきなのかね。
エリが帰ってからキッチン内の清掃作業、レジ締め、発注をしていく。それら全てを終えたのは一時間後。一日の終りにはパソコンの画面とにらめっこする機会が多く、元々デスクワークを不得手と捉えていた自分としては非常に疲れがたまる仕事である。もっとも、それができなければ店主なんてできないから苦手なんて言ってられないのだけれど。
一通りの作業を終えたオレは着替えを済ませて照明を落とす。その際にカウンターに置かれた一冊の本に目が止まった。先程エリが置いた忘れ物である。
「本当に何も書かれていないのか?」
エリを疑う訳ではないが、一応この目で確認だけはしておこう。
持ち上げるとズシッリと重さを感じる。外見の黒革のカバーが本の重さを増やしているのかもしれない。開いて中を見るとエリが言っていた通りだった。どこまでも空白のページが続いていた。本当に何も書かれてはいなかった。
「子供の落書き帳にしては重すぎるよな。」
誰に聞かせる訳でもない冗談を独り言ちて本を閉じてカウンターの上に置く。これの対応は明日考えればいいか。
オレは全ての照明を落として帰路についた。
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