第5話

 仕込みを終えて時計を見ると時刻は十七時の少し前になっていた。今日の仕込みはボロネーゼに始まり、難しくはないけれど手が取れれる仕込みが多かった。けれど、幸か不幸か二時間程度お客さんの来店は無く、静かに仕込みをしている間はカウンターの両端に陣取ったエリと大久保は互いに干渉すること無くスマホをいじっていた。時折オレに話しかけてきたが他愛のない話が主であった。二人で話せばいいのにと思いつつ、相手をしながら仕込みをしていた。


 ちゃんと話を聞くオレは人が良いのだろうか?


 店内を彩るジャズが本日何度目かの楽曲チェンジをした時、大久保が不意に目をオレに向け、さらにこう告げた。


「・・・帰る。」


 立ち上がった大久保に伝票を差し出して一言。


「忘れ物だぜ。」


「分かってるって、忘れてないさ。」


 差し出された伝票を受け取った大久保は再度オレに目を向けた。財布を握っているので、ここで支払いを済ませようとしているのだろう。しかし、ここではお釣りを用意できない。レジへ向かうように促した。


 エリにレジをお願いしようと思った。しかし、現在彼女は休憩中。それに、真剣にスマホの画面を見ている。とても声をかける事ができない雰囲気だった。


 オレは洗い物の手を止めてレジへ向かった。


 レジに行くとキャッシュデッシャーには伝票とカードが一枚置いてあった。クレジットカードだ。


「カードで良いのか?」


 一応確認する。置いてあるんだから十中八九これで支払うのだが。


「ふっふっふ、どうだろうな・・・。」


 大久保の声は冗談めかしていた。しかし、その言葉を聞いたオレの眉間がピクリと動く。下から睨むように大久保へ目を向けた。


「一括でお願いします。・・・怒んなよ。」


 その言葉を聞いてカード会計を継続した。



 大久保が帰ると時刻は十七時になっており、メニューが簡易メニューからディナー用へ切り替わる時間でもある。


「エリさん、そろそろメニューの切り替えお願いしてもいいか?」


 レジから戻りながらエリに声をかけた。あくまでお願いレベルの指示といった感じ。それに、休憩時間もそろそろ終わりだ。エリはオレのお願いを聞き入れたようで、椅子から立つと前掛けを腰に巻き直した。


「はーい、すぐに差し替えちゃいますね。」


 エリはカウンターの脇にある棚の中からディナーメニューを取り出し、それを持って各テーブルを回った。


 オレはキッチンへ入る。まずは洗い物の続きだ。


 アイドルタイムからディナーへメニューが移行しても、キッチンは特に何かを用意する必要も変える事もない。それに、今夜の予約は無い。そもそも予約をして来るような店ではない。来店するお客さんを待って対応をしていく訳で、お客さんが来るまで待っているしかない。


 メニューは切り替わるが、この店に来店するお客さんは食事ができるカフェとして利用している。ディナーではお酒も提供しているので、二人で来店して一人がコーヒーでもう一人がお酒を飲むケースだってある。オレとしては好きに活用してくれればいいや、それくらいの気持ちで立ち上げた店だから狙い通りと言えば狙い通りである。後は居心地が良い空間を作り出せれば、また来たいと思ってくれるだろうさ。


 用具を洗い終えた頃、エリも全てのテーブルのメニューの差し替えを終えたようで、簡易メニューを両手に持って揃えていた。


 お客さんの来店はいつも突然である。来店を知らせるためにドアに付けたベルが鳴った。


「いらっしゃいませ。」「いらっしゃいませ。」


 オレとエリ、二人の声が重なる。エリは手にしていたメニューの束をカウンターの上に置くとドアの方へ向かった。


 エリに丸投げしている訳ではないが、ある程度責任を持たせた方がその人のためになる、そんな持論を元にエリには仕事をしてもらっている。言い訳としては十分だろう?もちろんエリにはその事を伝えているし、彼女が困っているときはもちろんフォローだってする。怠けない前提の話ではあるけれど、重要なのは従業員がのびのび仕事できる環境を作る事で、失敗してもその失敗を糧にすればいいだけの話。お客さんには多少迷惑をかける事になるが、その辺を上手くやるのは店主であるオレの仕事だ。責任は店主が取ればいいんだから。


 オレはキッチンの中から来店したお客さんを見る。どうやら来店したのは一人。エリが対応している人物はファッションモデルさながらの細身で身長の高い女性だった。遠目で見ても顔立ちは良く、俗に言う美人の類だ。ジーンズに白シャツという飾りっ気の無い服装をしているが、特徴的な長い黒髪をポニーテールにまとめた姿は女性が惚れる女性と言ったところだろ。


 エリがその女性を店内へ促している。ジェスチャーからこのガラガラの店内の何処に座っても構わない、そんな事を言っているのだろう。対応しているエリに対しても嫌味の無い笑顔で答えている女性。


「それでは、こちらへどうぞ。」


 エリが席へ案内する。近くに来るとなおさら美人さが際立つ。


 美人が選んだ席はこともあろうにカウンター席。つい先程まで大久保が座っていた場所だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る