第5話


 目を覚ますと、外はもうほとんど明るかった。

 時計を見ようにも身動きが取れない。多井中に抱きしめられているからだ。

 初めて男の腕枕で目覚めた。むず痒いのに、きっとこのおかげで今こんなに身体が軽いんだろうというのも分かっている。


 すぐそこに寝顔があった。

 すうすうと肺の空気を入れ替える鼻と、少しだけ開いた唇。

 唇が痛い。噛むことないのに。

 

 ほんのついさっき、俺は女に身体を乗っ取られていた。いや、実際には俺の中にいたわけではない。霊媒師の言うように、俺に触れることはできないんだと思う。それに、もしかすると彼女のせいではなく、俺の方が彼女に影響を受けすぎてしまうのかもしれなかった。


 土曜日の時と同じように、体温が失われて心が悲しみに包まれた。

 多井中が居なかったせいか、俺はあっという間に彼女に飲み込まれて、そして悲しい過去も見つけてしまった。

 赤ちゃんを失って、彼を失って、結局彼女は自分も失った。

 あんな悲しい人生の終わりを迎えたら、俺だって浮かばれない。

 どうして誰も彼女のそばにいてあげなかったのかな。現実世界だと痛い女だったのかな。

 多井中に抱えられながら彼女の嘆きが勝手に口からこぼれた。でも意識だけははっきりとあって、俺の名前を呼ぶ多井中に、もっと触れてもらいたかった。そうしないと落ちていきそうだった。彼女のいる真っ暗な悲しみの底へ。

 両手を俺に封じられた多井中は俺にキスをした。

 いや、あれはキスじゃない。口しか使えなかっただけって感じだった。

 くつくつと喉が鳴った。

 押し付けて、齧って、吸い付かれた。喋るのを止めさせたいという強い意志を感じた。意識の中で俺は笑ってしまっていた。

 でも唇から欲を感じた。俺を行かせたくないって欲が。嬉しかった。

 あの幽霊にも欲があればよかった。幸せになりたいという欲が。愛されていないと分かっているのに、不幸な場所から抜け出す勇気が無かった。

 今もどこかで悲しいままいるんだろう。自分のいる世界ではなくなってしまったここで。もう誰も何も与えてはくれないのに。


「おはよう」

 見ると、多井中の目が開いていた。俺はホッとして笑って見せた。

「来てくれてありがとう」

 頷いた多井中も笑った。

「もう平気?」

「少しだけだるさはあるけど、大丈夫だと思う」

「そっか」

 大きな手が俺の頬を撫でて、俺は気持ちよくて目を瞑った。

「あのさ」

「ん?」

 目を瞑ったまま聞き返す。

「口、痛いかな」

 見ると多井中が気まずそうな顔をしている。

「歯形ついてる?」

 俺が聞くと、多井中は素直に「うん」と言ってから、ハッと驚いた顔になった。

「さっき意識はあったんだよね」

 目を細めて言うと、多井中はあからさまに目を泳がせて、おどおどと言い訳を始めた。

「えーと、両手が塞がってたし、できる事が何も思いつかなくて、口しかあいてなかったっていうか」

 想像通りの言い訳に噴き出してしまった。

「いいよ、お陰で追い出せた」

 多井中は困った顔で笑うと、「よかった」と頷いた。

「あれってやっぱり厚木さんの中にあの霊がいたの?」

 俺はさっき思ったことを話した。


「……それって大変なことじゃないか? 影響を受けてあんなことになるなんて」

「どうなのかな、今まではあんなこと無かったから。あの霊が特別か、あとは——」

「あとは?」

 聞き返されて、噛まれた唇を噛んだ。

「距離が、遠いのかなって」

「距離って、俺たちの?」

 俺は眉を上げて小さく何度か頷いた。

 気まずく思うのは確信が無いってこともそうだけど、もっとそばにいたいって気持ちがあるからだ。

「そうか」

 多井中は言って、ただひとつ頷いた。

 俺は少しがっかりしてしまった。でもすぐに自分を撫でる多井中の手首に酷いあざができているのを見つけた。

「ごめん俺だよなこれ、痛いか?」

「え? ああ大丈夫」

 多井中は笑ったけど、俺は悲しくなった。俺の意思では無かったけど、俺が傷付けた。

「ごめん」

「大したことないよ。それより、もう一度あの霊媒師の人に連絡してみよう」

「え?」

 多井中の目がまた頼りになるモードになっている。なんだか身体がぎゅっとなる。

「今日から夜は一緒にいる。でも俺がいても防げないかもしれない。きっとあれは普通の霊じゃないんだよ」

 心配してくれているのに、それよりも一緒にいられるのが嬉しい。

「迷惑じゃない?」

 いて欲しいくせについ確認してしまう。

 多井中は真顔で首を横に振った。

「ずっと心配だった。最初の日から」

 本当に?

 あれ、なんでかな、心臓がドキドキする。

「そうだったんだ」

 多井中はうんと頷いて俺の手を取った。

「霊媒師に一緒に暮らせって言われたときに、那央が一緒は嫌だって言うから、一人の時間が大切なタイプかなって」

 名前で呼ばれたことと、俺のために遠慮してくれたことが明かされて嬉しい。嬉しい、嬉しい。


「……そばにいて」

 あれ、声がまた。

「一緒がいい」

 勝手に出てくる。

「いいよ。でもこのベッドは小さいから、寝る時はうちで構わないかな?」

 多井中は気が付いていない。

「一緒に眠ってくれるの? 嬉しい」

 嬉しい、嬉しい。

「那央?」

 俺が首元に擦り付くと、戸惑ったような多井中の声がする。

「ずっと一人で怖かった」

「……そうだった、怖がりだもんね」

 多井中の腕が背中に回る。

 温かい大きな手のひらが気持ちいい。でも変だ。頭が左右に振れそうになる。

 きっと女がいる。近くに。多井中に抱きしめられてるのに。

 包み込まれる抱擁に胸の中が幸せに満ちていく。それなのになんで。

「霊媒師は必要ない、あなたがいればそれでいい」

「……分かった」

 多井中、気付いて。



「仕事が終わったら連絡するよ」

 6時になって、多井中は俺をベッドに寝かせたままにして部屋へ帰って行った。

 鍵が二つかけられる音がして、見ると部屋の隅に女がいた。不思議と今までのような不調は起きない。

「あんた何がしたいの」

 聞くと女は指先で髪を耳に掛けた。髪はもう乱れていなかった。

「別に、愛されたいだけよ」

 言って床に脚を崩して座った。

 女はハッキリと話したが、土曜に見た時よりも輪郭がぼやけて見えた。朝だからだろうか。

「俺のこの感情はあんたのものか?」

「半分はね」

「半分?」

 俺は眉を寄せた。

「あなたがじゃない。私があなたの感情を味わってるの。あなたあの人に愛されたいでしょう? 私も、愛されたかった」

「俺の感情?」

 疑問ばかりの俺を、女は微かに笑って見る。

「あなたは孤独でしょう? 女の子とは上手くいかない。家でもずっと疎外感を感じてた。私と同じ、孤独な人生」

 囁く声に、心臓がギクッと音を立てた。

「なんで……」

 声を震わせる俺に、女はくすっと笑った。

「あなたが私の人生を覗いてる時、私はあなたの人生を覗いたの。お互い様よ」

 見たくて見たわけじゃない! と言いたくなったが、女の最期を思い出してとどまった。

「よく喋るようにもなったな」

 女は笑いの漏れる口元を押さえ、肩を揺らした。

「それは多分あなたたちの力のせいね。お陰ですっかり冷静になっちゃった」

 女は両足を投げ出した。

「死ぬ前よりもずっと冷静。もう遅いけど」



 女の言うとおり俺は孤独だった。

 俺は男兄弟の真ん中で、元気のいい兄と弟に引っ張り回されていつも居心地が悪かった。

 小さい頃から俺だけが家族の中で浮いている気がした。それも個性だと親は言うから、そんなもんだと思っていた。

 できるだけ周りに合わせて生きてきたつもりだった。はみ出ないように、目立たないように。


「付き合った子のことは好きだったよ」

 告白はされた側だけど、いいなと思って付き合った。二人とも。

「でも性行為には義務感があった?」

 あった。

 したいと言われたから先に進んだ。俺にだって興味があったと思う。みんなその話ばかりするから。

 でも大変だった。キスをして、服を脱がせて、気分を盛り上げて。痛くないように、でも喜ぶくらいには強引にもして。

 時々目を瞑って刺激に集中しないと萎えそうだった。一生懸命に相手を喜ばせて、でもいく時に彼女を見ていたことは一度も無かった。それがずっと気がかりで、後ろめたかった。

「俺、あいつが好きなの?」

 女は意味ありげにゆっくりと目を瞑ってまた俺を見た。

「言ったでしょ、私はあなたを感じてるの。彼に愛されたいあなたを」

「でもなんだか変だった、俺のじゃない感じもあった」

「それは私があなたの気持ちに同調したから。優しくされると堪らなく嬉しいのに、いつも置いていかれて寂しいの。朝まで一緒にいられたらって、いつも願ってた」


 ——そばにいて、一緒がいい。

『いいよ』

 嬉しい、嬉しい。


 叶わなかった女の願いと同じものを俺も感じている?

 多井中ともっとずっとそばにいて、混ざり合いたい?

「ねえちゃんと愛されて? 私に愛される喜びを教えて? そしたら成仏できると思うから」

 俺は笑ってしまった。

「それは難しいと思うけど」

「霊媒師も言ってたじゃない。相性がいいって。彼はあなたのためにキスだってした」

 キスなのかあれは?

「あれは俺のためだよ。それって愛じゃないだろ」

「相手のためにがなによりの愛よ」

 そうなのかな。

「さ、ほらそろそろ起きないと仕事に遅れるわよ」

 女は幽霊のくせに俺を現実に引き戻した。

「俺の代わりに働いてよ。色々考えたい」

 女は笑って「やーよ」と言って消えてしまった。



 仕事には少し遅刻した。

 調子が悪いと言うと、確かに顔色が優れないと言って、急ぎじゃない作業に変えてくれた。

 淡々と仕事をこなしながら、自分の人生を思った。


 ずっと一人なんだろうと漠然と思っていた。兄も弟も早々に結婚して、親も結婚が早かったし、そういう家系なんだと思う。

 みんな家庭を持って幸せそうで、でも羨ましいとは思わなかった。

 二人の女の子と付き合って、あと二人、成り行きでセックスした子はいるけど、オナニーで十分だと思った。

 弟が先に結婚して、みんなにはつつかれたけど、正直言ってホッとした。三分の二が幸せならいいだろうと思った。


 家のドアを開けて初めて多井中を見た時、少し胸が膨らんだ。

 男らしい身体つきに、ちょこっと乗っかった優しい顔立ちと綺麗な身なり。

 うちの遺伝子とは違うと感じた。中身は変なやつなのに、時々きちんと気が利いて、抱き上げられると……今思うと多分、ときめきを感じた。

 話してても全然うるさくなくて、ゆっくり会話できるのも嬉しかった。実家では俺が口を挟む隙は無い。


 好きなのかな、好きなんだろうな。那央って呼ばれて嬉しかったし。

 そうか、女の子じゃなくて男だったのか。

 で? それでどうするんだよ。今からあいつを落とす手段をあの女の幽霊と考えるのか?

 ふっと笑い声が出た。

 あの女の人生を覗いた時、もっと欲があればと思った。

 愛されたいなら黙ってちゃダメだ。


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