第4話
昼が過ぎ、多井中が財布を取りに行くついでに自室から食材を取ってきてうちのキッチンで親子丼を作ってくれた。
多井中は料理のセンスもあるらしく、正直うちの母さんが作る親子丼よりもずっと美味しかった。
「どうしましょうか」
食事を終えて、食器を洗っている俺に多井中が言った。
身体は随分と楽になった。
「霊媒師のいうことがあってるなら祓ってやるしかないだろ」
「うまくいきますかね」
俺は首を傾けた。
「分からない。ただ対峙したら直ぐにやらないと俺は身体がもたないと思う」
「そんなにつらいんですか?」
多井中の口調から、こいつには全然影響が無かったんだと分かった。どうして俺だけ。
霊力が強いって言われてすっかり忘れてたけど、じゃああれはなんだったんだろう。ああさっき聞けばよかった。でもまた掛けたら追加料金を請求してきそうな女だ。
身体がつらいのもあったが、あの悲しみを知ってしまったからか、彼女をただ祓うのは可哀想だと思った。でも会話をした結果、俺は一時間も身体が動かせなくなった。あの状態にまたなるのは嫌だったし、それにあれ以上長く彼女の感情に染まったら、自分も無事ではいられないんじゃないかと思った。
本当に多井中がいれば触れても大丈夫なのか?さっきだって俺はこいつにしがみつかれていた。それでもああなった。彼女に触れて本当に……。
「厚木さん、大丈夫ですか?」
見ると多井中がまた心配そうな眼差しで俺を見ていた。
俺はなんとも言えない気持ちで頷いた。
夕方になるまで多井中と俺の家で過ごした。
お互いのフルネームを明かしたり、年齢や出身地を当てあったり、学生時代の話をしたりしているうちに言葉も崩れ、とてもリラックスすることができた。
とりとめのない友人同士のような会話がいつまでも続いた。
今日初めて会うのに不思議だ。ついさっきまでは多井中の言動に腹を立ててばかりいたのに。
日が暮れる頃には言葉も必要無くなり、ソファーで肩を寄せ合ってちょっとうとうととした。
夜はピザを取って夕食を済ませ、俺が洗った食器を多井中が拭いてくれる。
「こんなにゆっくり休日を過ごしたのは久しぶりだなあ」
多井中のしみじみとした口ぶりに、食器をしまいながらここ最近の自分の生活を振り返った。
「俺もそうかも」
「お互いお疲れ様だね」
後ろから大きな手が俺の頭を撫でた。俺は目を瞑ってされるがままになった。
触れられて心地いいのは変な気がするのに、得られる安心感が疑問を曖昧にしていく。
「じゃあそろそろ俺は部屋に行くね」
「え、もう?」
言ってから丸一日一緒にいたことを思い出して恥ずかしくなった。
「明日もちょっと仕事があるんだ」
「そっか……」
仕事と聞いてすごく寂しくなった。そしてすぐに寂しいと思った自分に疑問を感じた。
調子がおかしい。変なことがたくさんあったせいかな。
「今日はもう幽霊は来ないかもしれないな、いつも毎晩じゃなかったし」
言いながら多井中はカウンターに置いた財布をポケットにしまった。
「そうだな……」
帰ってしまう。なぜだか不安な気持ちが湧いてくる。
「はいこれ」
多井中は俺に自室の合鍵をよこした。
「うん」
俺も合鍵を渡した。
最後に連絡先を交換した。
「いつでも連絡して、調子が悪くなったときも」
多井中は初見時の誠実そうな顔をしていた。
いまちょっと調子が悪いんだけど。
言いたいのを我慢した。
「わかった」
「おやすみ」
多井中の去ったドアが重く閉まった。
俺はソファに横になってブランケットで身を包んだ。寂しさが肌寒さに変わったからだ。
なんでこんな気持ちになるんだろう。
信じられないことに多井中は28歳で俺よりも一歳年上だった。そしてそれ以上に信じられないことに、研究医だった。正直これはまだ信じていない。
今日は変な事ばかりが起こった。明日起きたら全部夢でも不思議には思わないかもしれない。でも多井中にはまた会いたいと思った。
結局その日の夜、女の幽霊は来なかった。次の日の日曜も、月曜も。
月曜に、旅行に行ってたという大家から大慌てで電話が来て、トラブルの詳細を訊ねられたが、勘違いでなんとか誤魔化した。まさか自分たちが幽霊を呼んだとは言えない。
今日は火曜日だけど、なんとなく今日も来ないような気がした。
多井中からは毎日事務的なメッセージが届く。
『おはようございます』『今日は遅くなります』『帰ってきました』『おやすみなさい』こんな感じで。
あの幽霊が来ないと俺たちは会うきっかけが無い。
いや、誘えばすぐに会える距離なのは分かっているけど、何かが俺にブレーキを掛けていた。
家の方へと向かう地下鉄のシートに座って揺れながら、土曜の事を思いだした。
あの日、触れ合っていた時間がとても心地良かった。でも今思い出してみると妙に思えた。
まるで恋人同士みたいに肩にもたれて、頭を撫でられて気持ちがよくて目を瞑った。
あんなこと、女の子にしたことはあっても、されたいと思ったことはない。
相性がいいから?
試しに霊媒師の女が言った言葉を原因に据えてみた。
霊力の相性がいいから一緒にいると落ち着くんだろうか。それはどういう意味になるんだろう。よき友人になれるってことかな。でも友人とはあんなことしないし。
抱きかかえられると安心した。あれは霊が怖かったから、だと思う。
結論から言うと、俺は女の幽霊が早く来たらいいのにと思っていた。身体がすっかり治ったせいかもしれない。
すぐ上に多井中がいるのに、会いに行けないのがじれったかった。
もっと正直に言うと、あの日からずっと、心に欠けが出来たような気持ちがしていた。
案の定、火曜の夜も静かだった。
おやすみのやり取りをして、ベッドでうとうとしながら、このままあの幽霊が来なかったら、もう二度と会うことができないのかなあと極端な事を思って悲しくなった。
自分を抱きしめて目を瞑ると、俺を簡単に抱き上げる大きな身体を思い出した。
変だな、なんか変だ。なんで俺はこんなに多井中を思うんだろう。変だな。
変だ変だと繰り返しながら、俺はそのまま眠りに就いた。
夢もなく、目が覚めるとまだ暗かった。手を伸ばしてカーテンを引くと、ずうっと遠くに微かな暁を感じる。
疲れが溜まっているのか身体が重い。
水でも飲もうかと思って身体を起こすと、部屋の戸口に女が立っていた。
声は出なかった。息が止まる音が喉奥で鳴った。
どうして? いつもは多井中の家に出るのに。
すぐに全身が震え始めた。
女はじっと俯いて戸口に立っている。でも今にも中へ入ってきそうだった。
俺は女から目が離せないまま、震える手でスマートフォンを探した。
冷たい画面に触れて、なんとかそれを引き寄せる。もうすでに腕が重たい気がする。それになんだか寒い。
ポッと画面の明かりが付いて、俺は視線を女と手元とに行き来させながら連絡先をスクロールした。
手が震えて上手く動かせない。足の先がひどく冷たい。
多井中……多井中……。
ようやく見つけて通話ボタンを押したところで、俯いていた女が顔を上げた。
「ひっ!」
俺は驚いてスマホを落とした。スマホは掛け布団を滑って重たい音を立てて床に落下した。
静かな部屋にプップップという電子音がして、発信音が鳴り始めた。
「あ……」
頭が締め付けられる。女は動かないのに。
「——寂しいの」
「……子どもはここにはいないよ」
頭が痛い。返事をしてはいけないと思うのに口を止められない。
「知ってる」
「え?」
「だって死んじゃった」
「うわっ!」
強烈な圧迫感が全身を襲って、俺は意識を失った。
携帯電話の音で目が覚めた。朝にしては暗いなあと思って手を伸ばすと、ふつっと音が切れた。
見ると厚木さんからの着信だった。
時刻を見ると四時五分。こんな時間に? と思った瞬間、心臓がドキッと鳴ってベッドから飛び起きた。
嫌な予感がする。
素早く部屋を見回してみるものの女の霊は見当たらない。
慌てて玄関に行き、スニーカーを引っ掛けてキーケースを握ると、鍵もかけずに部屋を飛び出した。
エレベーターを待つ気にはなれず、奥の階段室に向かい、段を飛ばして駆け降りる。静かな廊下に自分の足音が響くのをドキドキと鳴る心音と一緒に聞いた。
405号室について鍵を二つまわすと、ドアを開けて飛び込んだ。
「厚木さん!」
リビングにはいない。開けられた寝室に目をやると、そこに女の霊が立っていた。
「あなたどうしてここに!」
女は少し怯んだように戸口から部屋の奥へ、トトッと音を立てて移動した。
「厚木さん!」
寝室に入ると、ベッドでばったりとうつ伏せた厚木さんが目に入って、飛び上がってベッドに走った。
呼吸を認めて、ゆっくり横向きにして口の中を確認した。吐瀉物は無い。
「あなた何をしたんですか!」
女に怒鳴ると女は部屋の隅っこに行ってしまった。少し罪悪感が湧いて、また厚木さんの名前を呼んだ。
脈をとるとまた随分遅い。体温もとても低い。
そのとき厚木さんの手が俺の手を握った。
「厚木さん?!」
薄っすらと瞼が開いた。
「ああ良かった!大丈夫ですか?!」
厚木さんの両手が俺の両方の手首を掴んだ。とても強い力で。
「厚木さん?」
「愛されてなかったの」
「え?」
目は開いていた。けれど視線はどこか俺ではないところを見ていた。
ハッとして女を振り返ると、そこに女は居なかった。
「私、愛されてなかった……」
「厚木さ、いたっ!」
握る力が強い。
「分かってた……私はただの暇つぶし……」
厚木さんの頭がゆっくり左右に揺れ始めた。
「赤ちゃんができたって……言えなかったの……怖かった……だってどんな顔をされるか……どうしよう……どうしよう……どうしよう……どうしよう……」
「落ち着いて」
メトロノームように同じ間隔で首が左右に振れる。壊れた機械人形のようで不気味だ。
違う、これは厚木さんじゃない。厚木さんはどこにいってしまったんだろう。
ああ、腹がかき混ぜられているように気持ち悪い。俺の手首を掴む厚木さんの手が氷のように冷たい。
「どんどん大きくなっていくの……怖かった……病院にも行けなくて…… どうしよう……どうしよう……どうしよう……どうしよう……」
「もう心配しなくて大丈夫」
もうあなたは死んでしまった。
ああ、死んでしまった人にいったいなんて言ってやればいいんだろう。もう何もしてやれることはないのに。
厚木さんの目から涙がこぼれた。
「そしたら……死んでしまったの」
「あぁ、厚木さん、帰ってきて」
抱きしめたいのに腕が掴まれて叶わない。流れた涙が揺れる顔の上で行先を迷って幾筋も跡を残している。
「一度も喜んであげなかった……不安で……恐ろしくて……毎日泣いてばかりいた……ごめんね……ごめんなさい……私の赤ちゃんだったのに……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
どうしたらいいんだろう。涙がシーツに散っている。唇からは謝罪が繰り返され、横隔膜が痙攣しているのか息が乱れていく。
「厚木さん!厚木さん!」
どうしたらいい?どうしたらこの幽霊を追い出せるんだろう。俺たちは一緒にいるのに、触れ合ってるのに。
『混ざり合うのです』
霊媒師はそう言っていた。混ざり合うってなんだろう。
初めて会って、たった一日一緒にいただけで、ずっと親密になれた気はした。
そばにいるとゆったりと時間が流れた。怒りっぽい人かと思っていたのに話してみるとずっと優しくて、俺のつまらない話を頷きながらいつまでも聞いてくれた。俺が話すと時々人を怒らせるから普段は無口でいるけど、一つ年下とは思えないほど厚木さんは聞き上手だった。
俺たちは気が合う。それで? どうしたらもっと混ざり合えるんだろう。今ここでどうしたら? 一緒に転がって回ろうか。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
もしこのまま厚木さんが帰って来なかったらどうなるんだろう。こんな状態で一生?
ぞっとしてしまった。ダメだそんなこと! 絶対に!
「厚木さん! ……那央! 那央!」
耳元で名前を呼んで、それでも止まらない唇に自分の唇を押し付けた。押しつぶされても呟き続ける唇を齧って、何度も吸った。
幾度目か、すっかり濡れてしまった唇がようやく動かなくなった。
身を起こすと厚木さんは眠っていた。泣き疲れた子どもみたいに時々しゃくり上げながら。
はたりと手が解けて、慌てて脈をとると問題のない間隔に戻っていた。
「ああ、よかった」
念を押すように数回唇を押し付けて、顔中を濡らす涙と、俺の歯型が付いた唇をティッシュで拭った。
冷え切っている厚木さんの身体を抱きかかえて、狭いシングルベッドに横になった。
ほっと吐き出した息は震えていた。
生まれて初めて幽霊が怖いと思った。
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