第2話


「時々女の人の声で目を覚ますんです」

 多井中の言葉を背中で聞きながらエレベーターの上のボタンを押す。

「ずっと夢だと思ってたんです。でも昨日うとうとしてるときに聞こえて、ちょっと起きてじっとしてたらやっぱり静かなんです。寝惚けたのかと思って寝ようとしたら」

 多井中はそこで言葉を切った。

 軽いベルの音が鳴ってエレベーターのドアが開き、乗り込む。

 振り返ると、多井中は少しためらうような素振りで俺の顔を見てくる。

「したら?」

 俺が繰り返すと、ようやく多井中はエレベーターに乗った。

 5階のボタンを押して、ドアがゆっくりと閉じた。

「どこから聞こえてくるのかはわからないんですけど、言葉ははっきりしていました」

「だからなんて」

 多井中は俺をじれったい気持ちにしたが、エレベーターはすぐに5階に到着した。

 俺は開くボタンを押したまま多井中を振り返った。

「私の赤ちゃんはどこ? って」

「………」

 多井中と目を合わせたまま、俺は黙って閉じるボタンを押した。

「……いかないんですか?」

「ばかやろー! こええじゃねえかよっ! 大家さんに聞いてからだバーカ!!」

 頭の毛が逆立つような感覚がしながら怒鳴ると、多井中はきょとんとした顔でこちらを見た後、「厚木さん、怖がりなんですね」と、いい物を見つけたようににんまりと笑った。

「………」

 驚きすぎて言葉にならなかった。

 何こいつ?!

 さっきお前の方がビビってただろ!!

「腹立つ!」

「なぜです?」

「黙れよ!」

 怒鳴ると多井中はピッと背筋を伸ばして黙った。



 ひとまず俺の部屋に引き返すと、俺は多井中のことは放置し、仕事用の鞄から手帳を取り出して大家の番号を探した。

 あー平日のうちに管理人に言うべきだった。今日は土曜だから管理人は居ない。

「てかあんたなんで直接うちにきたの?」

 寝室に置いたままだったスマホを取って戻ると、窓辺に立つ多井中に訊ねた。

「その女の言葉が事実なら犯罪絡みかもしれないじゃねえか。俺が女の子どもをさらったとか殺したとか考えなかったのか?」

 メモした大家の番号を見つけて数字を押す。チラと多井中を見ると難しい顔をしている。

「俺、女の人の声を聞いて、こう思ったんです」

 多井中は真剣な顔をして静かに話し始めた。

 俺はスマホを握りしめた。

「彼女は然る名家の主人の妾で、本妻のところの子どもが死んでしまったから、代わりに血のつながりのある彼女の子どもがさらわれて、彼女は悲しみのあまり心を病んでしまった……って」

 どうしてこんな男が俺の上に住んでいるのか。

「100パーセント妄想じゃねえかアホンダラ!!!」

 なんなんだこの男は! 突然やってきて騒音の謝罪をしてくれるのかと思ったらただのトンチキ野郎じゃねえか!

 大家の電話番号の続きを打ちながら、俺はふと思った。

「でも、素直に考えたら泥棒かもしれないよな」

 見上げた天井からはもう物音はしなかったが、女の声もしてはこなかった。

 それに今は昼間だ。女はいつも夜に暴れていた。

「やっぱりその可能性残ってますか?」

 多井中はさっと顔色を暗くした。

 天井を見上げて目を泳がせ、「あ」と、思い出したように声を上げた。

「お財布置きっぱなしだ」

 俺はため息を吐いた。

「やっぱり行ってみるか」



 もう一度エレベーターを待ちながらスマホのコール音を聞く。

 大家は電話に出ず、留守番電話サービスに繋がった。俺は発信音を待った。

「あ、私F市のブルームーンというマンションの、405号室の厚木というものですが、ちょっとトラブルがありまして——」



 505号室に着いて多井中が部屋の鍵を開けた。

「開けますね!」

 さっきあんなに怯えていたのに、なかなか勇敢だなと感心していると、ドアを開いた多井中は俺に先を勧めた。

「あんたの家だぞ」

「怖いので」

 多井中はにこやかだったが、ゆっくり首を横に振った。

 俺は本当に腹が立ったが、なんだかもうやけになって玄関に入ると、サンダルを脱ぎ捨ててずかずかと進み、リビングのドアを大きく開いた。

 後ろから多井中が「ま、待って下さい!」と慌ててついてくる。

「いねえな」

 部屋はきちんとカーテンが開けられ、別段荒らされた形跡も無い。ただベランダのそばにペン立てと幾つかのペンが散らかっていた。昨夜の物が散らかる音はこれかと思った。

 変な奴のくせに意外とインテリアの趣味がいいなと見渡していると、「厚木さん!」と後ろから力いっぱい右腕を引っ張られた。

「うわっ!」

 後ろから抱きかかえられて足が浮いた。

 文句を言おうと思った瞬間、さっき何もなかった部屋の隅に女がいた。

「ひっ」


 それが人間じゃないと俺の第六感が言った。

 ラインの綺麗なベージュのワンピースに、アイスブルーのカーディガン。髪は少し乱れているが、きちんと巻かれた形跡がある。確かにそこに女がいるが、所々の輪郭が曖昧で、なにより生き物としての気配が一切感じられなかった。

 全身の皮膚が粟立った。乱暴に引っ張られて文句を言いたかったのに、もっと強く抱きかかえて欲しいと思うほど恐ろしかった。


「あの、どちら様ですか?」

 上ずった多井中の声が頭の上から降ってくる。笑えない。自宅に見知らぬ女がいれば俺だってきっとこうなる。

 虚ろな表情の女は、怯えたようにこちらを見て、それでも一歩こちらへ進み出た。

「こここここ、僕の家だと思うんですけど、あなたも住んでるんですか?」

 何を聞いてるんだこいつは! そう思うものの、俺は声すら出ないので、多井中の腕にしがみつくしかない。

 女は静かに頷いた。

「そそそそうですか。おかしいですね、二重契約かな?」

 事故物件だろ! と思ったけど、じりじりと後ずさる多井中に、もう少しスピードを上げて欲しいと泣きつきたい。

 女の歩みはゆっくりだが、一足が大きく、その度に頭がきゅっと締まった。

 この感覚には覚えがあった。昔から時折ある頭痛だ。中が痛いと言うよりも、外から押さえつけられるような圧迫感で、一度脳を見てもらったことがあるが、異常は無かった。

 また女との距離が詰まって、頭がきゅうっと締まった。

「赤ちゃんが……いないの」

 女はそう言って、悲しそうに自分のお腹を押さえた。

 女はジッと立っているのに、床がドンッドンッと鳴った。

「え、なに今の?」

 多井中がきょろきょろと部屋を見回している。

 ラップ現象だろ! と心の中で突っ込んだ瞬間、急に喉が苦しくなった。

 身体に力が入らなくなって、血が全部つま先から流れ出ていってしまったみたいに体温が下がった。そして胸の中が悲しみでいっぱいになった。

 いつの間にか胸の真ん中には痛みがあった。後悔と喪失感も。

「……生まれて来られなかったのか」

「え?」

 頭上の多井中が驚いて俺を見たのが分かった。女は頷いた。

「しょうがないよ……お姉さんのせいじゃない」

 妙だった。口が勝手に慰めている。身体の半分は恐怖に染まって身動きが取れないのに、もう半分は明らかにこの女に同調して、同情している。

 女はつうっと涙を流して、ゆっくり首を振り、そして溶けるように消えた。

「消えちゃった」

 驚いた多井中がいきなり手を離すから、俺は尻もちをついた。そしてそのまま床に倒れこんだ。

「厚木さん?! 大丈夫ですか?!」

 大丈夫じゃねえよこのスカタン! いきなり離すな!

 文句を言いたいのに体が床にへばり付いて動けない。

 女が消えた瞬間、急激に全身に血が巡った。押さえつけられていた脳が解放され、胸の中に元通りの感情が溢れ出した。

 そのあまりの落差に全身がびっくりして、一瞬で疲労してしまった。

「救急車呼びますか?!」

 傍らに座り込んだ多井中が手早く俺を横向きにした。

 俺はかさかさの息で「水」と頼んだ。

 声にもならなかったが、多井中は理解した。

「水ですね!」

 獣のように素早く飛び上がってキッチンに走って行った。


 上半身を慎重に抱き起されて、ストローを挿したコップの水を飲んだ。妙なところで気が利く男だ。

「さっきのって幽霊ですよね?」

 多井中の言葉に、水を吸いながら頷いた。

「赤ちゃん、さらわれたんじゃなくて流れちゃったんですね」

 俺はまた頷いた。

「可哀想に、凄く悲しかったでしょうね」

 さっき俺の全身に満ちていたのはきっと彼女の悲しみだ。もはや生きているとは言えないほど体温が消え失せ、俺が今までの人生で感じた悲しみや絶望とは比べ物にならない感情が心を痛めつけてきた。

 ひとかけらの希望も無かった。きっと自分で死を選んだんだろうと思った。生きるために必要な最低限の糧が、身体中のどこにも見当たらなかった。

 いや、あれは死んだ後の彼女だからそう感じたのかな。でも、もしもあんなに悲しんでいた彼女が誰かに殺されたんだとしたら、そんなに悲惨なことがあるだろうか。

「ここにはいない方がいいでしょうか」

 多井中の指先が何かを確認するように俺の首筋を押さえた。

「うん、戻ろう」

 ようやく声が出た。

 多井中は頷いて、なんの確認も取らずに俺を米俵のように担ぎ上げた。

 文句を言う気は起こらなかった。正直まだ立てそうにはなかった。



「あ、財布忘れた」

 俺の部屋に着いて早々多井中が言った。俺はアホだと思って鼻で笑いたかったが、それすらもできなかった。

 ソファに寝かされて、多井中は腕時計を見ながら俺の脈を取った。医療関係者なんだろうか。

 さっき人を米俵のように担いでおいて、多井中は心配そうに俺を見た。

「ちょっとゆっくりですね」

 さっきあんなに情けない様子で怯えていたのに、今はちょっと頼りになりそうに思える。ころころ印象が変わる変なやつだ。

「徐脈と言うほどではないです」

 俺は頷いた。

「気分はどうですか?」

「少し良くなってきた」

「無理はしないでください。いつでも僕が病院に連れていきます」

「いや、大丈夫だと思う」

 実際気分はずっと良くなった。さっきの絶望感からの揺り戻しで、ちょっとハイな気さえする。

 ただ身体が酷く疲れていて重たく、まるで岩にでもなったかのようだった。

「そうですか、良かった」

 多井中はホッとした顔をして笑った。

「もう少し様子を見たらお暇しますね。あ、良かったら連絡先交換しませんか? 何かあったらすぐに来ますので」

「え、帰るのか?!」

 俺は動揺を隠し切れずに声を上げた。

「ええ、原因はうちにあったようですし、勘違いで休日にお邪魔してしまって本当に申し訳ありませんでした」

 いやいやいや!

「でも! 明らかに! 霊的な何かがいただろ!」

 多井中は声を上げる俺を不思議そうな目で見てくる。

「そうですけど、まあ今までも被害はありませんでしたし」

 被害? 実害ってことか? 取り殺されそうになるとかそういうことを言ってんのか?

「いや、そういうことじゃなくて!!」

「あーでもドンドンうるさいと厚木さんが困りますよね、言えば止めてくれるのかな」

 違う違う違う!

 俺は三度心の中で叫んだ。

「お前なに言ってんだよ! 女の幽霊がいただろ!!」

 思わず多井中の服を掴んだが、腕が重くて直ぐに落ちてしまった。

 多井中はぶらんとした俺の手を取って、心配そうな顔で俺の胸の上に置いた。

「そう言われましても、夕べシャワーを浴びずに寝たから風呂にも入りたいし、お腹も空いてきたんです」

 俺は意味が分からなくなってたくさん瞬きをした。

「さっきあんなにビビッてたのは何だったんだよ!!!」

 多井中は「え?」と声を上げて、それから照れたように笑った。

「俺、幽霊は怖くないんです」

「は?!」

「初めは女性が困ってるんだと思って来ましたし、部屋に泥棒がいるんだと思って怖かったですし、知らない人が家にいてびっくりしましたけど、幽霊なら別に」

 首を傾げた多井中に、俺は目を丸くした。

 信じられない。あの部屋で今まで通りの生活ができるというのだろうかこの男は。無神経にもほどがあるだろ。

「……霊媒師に相談しよう」

「え?」

「霊媒師に相談しよう! 今すぐ!」

「でも大家さんからの連絡を待ったほうが——」

「うるさい! お前は無神経だからいいかもしれないが、俺はあんなもんが上に居ると分かった以上、安寧に暮らす事なんてできないんだよ!! だからとりあえずお前も今はここにいろ!」

 勢いでそう言って多井中の手首を掴んだ。でもやっぱり手の力が足りずに宙ぶらりんになった。

 多井中はポカンとした後、俺の手を取ってやんわりと包み込んだ。

「厚木さん、幽霊が怖いんですね」

 くすっと笑われて、俺の血管は冗談でもなく切れそうになった。



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