幽霊喜談
石川獣
第1話
「またか」
声に出してますますうんざりした。
薄暗い部屋の中では意味も無いが、目を開き天井を見上げた。
くぐもった女の声がする。何ごとか喚き散し、時折地団駄を踏むようなダンッダンッという直接的な音と、ばらばらと小さな物がいくつか落ちる音もする。
このマンションはそんなに薄い造りではないから、彼女は相当暴れているはずだ。
彼女以外に誰かが暴れているような、もしくは彼女をなだめてやるような相手がいる気配は今日もない。
ダンッ!
一際大きな音がして、さすがにため息が出た。
明日こそ大家に言おう。
なにせこの騒ぎはかれこれ二ヵ月は続いていた。毎夜ではなかったが、確実に彼女のヒステリーの頻度は上がっていた。
こちらの気が狂うほどの騒音ではないが、彼女の気が狂いつつあるのは間違いないと思えた。
誰かが声をあげてやらなくては。
面倒事には関わりたくないのが本音だが、まあ実際に対応するのは大家だ。
俺は心を決めてうたた寝をしていたソファーから起き上がると、スクリーンセーバーになっていたテレビを消してベッドに向かった。
「ふわあぁ」
たまらず出た欠伸で目に涙が滲み、冷えた寝具に身がぶるぶると震えた。
連日の仕事が忙しく、こんな環境でも眠気が勝る自分の生活に虚しさを覚えながらも、自らの神経の太さに感謝した。
北国はまだ肌寒い三月の終わり。明日は久しぶりの休日だった。
翌日、チャイムの音で目が覚めた。
スマホを取ると10時5分。起こされて文句を言える時間ではなかった。
無意識に近い状態でインターホンまでたどり着くと、通話ボタンを押し「はい」と、かさついた声で返事をした。
画面の向こうにいるのは神妙な顔をした若い男だった。
男は俺の感じの悪い返事に肩を縮め、ますます神妙さを深めた後、カメラのことを思い出したのか、慌てて笑顔になり口を開いた。
「おはようございます、上の階の多井中という者ですが」
なんと。上の階の人か。
驚いてつい、「今行きます」と答えてみたものの、ドアの前でしばし立ち尽くした。
今日大家に言おうと思ったところだったのに当人が来てしまった。それも騒ぎを起している女性ではなく、同居人であろうか男性だ。
もしかすると彼が彼女のヒステリーの原因かもしれない。それとも身内が彼女の代わりに詫びに来たのだろうか。
事によっては面が割れるのは危険なのでは? とも思ったが、もう行きますと言ってしまった。
「考えてもしょうがないか」
すでに相手はドアの向こうに来てしまっている。
冬物セールに行ったのについ買ってしまった夏用のレザーサンダルを引っ掛けると、鏡で自分の身なりをチェックする。完全なる寝間着だが、相手は男だ、気にする必要もないか。
俺は二つの鍵を両手でいっぺんにひねった。
目の前に現れた男は背が高く、柔和なまなざしで俺を見下ろした。
男から見てもなかなかいい男だった。女を迷わせる色男ではないが、清潔で誠実そうなタイプだ。
俺は瞬間、原因はこの男にあるのだろうと断定した。
「おはようございます」
多井中と名乗った男は丁寧に頭を下げた。
年齢は俺よりも少し下、二十五くらいだろうか。背も高いが体に厚みもある。筋力に無縁な俺などはちょっと圧を感じてしまうほどだ。
紺色の薄手のニットに、茶色のベルトで抑えたチャコールグレーのパンツ。革靴も綺麗だ。
身に着けている物がいい物であると一目で分かったが、若さの割にそれらを嫌味なく着こなしている。
なんなんだろうこの男。寝起きの俺を羨望と引け目が同時に押し寄せてくるような心地にさせてくる。
「すみません、まだお休みでしたか?」
俺の値踏みするような視線に居心地の悪さを感じたのか、男はよく動く眉を八の字に寄せて言った。
さすがに不躾だったと思って、「いえ、ちょうど起きた所でしたから」と、こちらもよそ行きの声で取り繕う。
男は信じたのか分からない顔で「よかった」と頷いた。
「ええ……」
妙な間が空きそうな気配がして、俺は慌てて続けた。
「それで、何の?」
分かってはいたが聞かないわけにもいかない。それに原因はあちらなのだから、この男が申し開くべきだろう。
ところが男は再び神妙な顔をすると、一度ちらりと俺の顔を探るように見てから、意を決したように「夕べのことです!」ときっぱり言い放った。
完全に妙な間が空いた。
続く言葉は無く、男の射抜くような強い眼差しからいって、どうも簡単な謝罪ではないようだった。
どういうことだろう。もしかしてすぐには解決できないようなことなんだろうか。
俺は昨夜の彼女の暴れっぷりを思い出し、玄関先で収める内容でもないのかもしれないなと思った。
「話を聞きますので、取り合えずあがってください」
中へ誘うと、男は少し困ったような顔をしたあと、「はい」と答えて俺の招待を受けた。
脱いだ靴を揃える男の後ろ姿を見て、ようやく目が覚めてきた。
手ぶらということはやっぱり謝罪じゃないんだろうなと考えながら、導きもせずにリビングに戻ると、遅れて入ってきた男にソファを勧めて、自分はキッチンに行きコーヒーメーカーに水を注いだ。
「あの、お構いなく」
男はそう言いながら、でかい図体をソファの隅っこに沈めた。
「いえ、自分が飲みたいので」
「ああ、そうですか」
ぺこぺこと頭を下げた男は、両手を閉じた膝に乗せ、あまり視線を動かさずにじっとしている。
身なりも体格も立派だが、見た目に反して気の小さい男なんだろうか。
「申し訳ないですけど、先に着替えさせてください」
「ええ、もちろんどうぞ」
俺はコーヒーができるまでの間、男を待たせて朝の決まりをこなした。
リビングのカーテンを開き、少しだけ窓を開け、鉢植えをレースカーテン越しの日の光の下へ動かす。それから奥へ引っ込み、寝間着を脱いで色落ちのないブラックジーンズと、白いTシャツにグレーのスウェットを重ねた。
窓を開けてベッドを整えてから、窓を三分の一まで閉めてリビングに戻る。
脱いだ寝間着を持ってユーティリティーへ行くと、洗濯機に放り込んだ。本当ならスイッチを入れたいが、会話の邪魔になるかもしれないと我慢した。
お湯の湧く音とコーヒーの香りが漂ってきた。
食器棚の奥からカップとソーサーを取り出すと、「ブラックになるけどいい?」と男に訊ねた。
来客用の食器はあったが、スティックシュガーやミルクは常備されていない。
「もちろん構いません」
男はまたぺこぺこと頭を下げた。
茶菓子などなかったので、スーパーで安売りをしていた苺を洗って皿に乗せた。
コーヒーと苺を男の前に置くと、男が明らかに目の色を変えた。くいっと口角が上がって、テーブルから視線を逸さない。
なにごとかと黙って見ていると、男は決まりごとを守るように「いただきます」と眉間に深い皺を寄せてコーヒーをひと口飲んだ後、うやうやしく苺を口に運んだ。
どうやら苺が好きらしい。そしてブラックコーヒーは好きではないんだろう。まるで子どものような分かりやすさだった。
俺は男の右手側のシングルソファに座ってコーヒーの香りを吸い込んだ。
目覚めの一杯に浸りながら、本来『謝罪される』という空気であるべきこの空間が、なかなかそうならないことに違和感を覚えた。
カップを傾けて外に目をやると、青空にかかった薄曇が日の光を拡散させて、部屋の中をいつもよりも明るくしてくれている。風も爽やかだし、いい日和だ。
視線を戻すと幸せそうに苺を頬張る男。
こいついったい何しに来たんだよ。
男は最後の苺を口に含んだ。
「苺、まだありますけど」
あまりにも幸せそうな食べっぷりに思わず勧めると、男はハッとして苺が消えうせた器を悲しげに見た後、「いえ、ごちそうさまでした」と、深く頭を下げた。そしてまたひと口不味そうにコーヒーを飲んで、ようやくきりっと背筋を伸ばすと俺に向き直った。いよいよ本題らしい。
「今日来たのは、その……何か! 俺に助けになれることがないだろうかと思って!」
助けになれることがないだろうか?
俺は首を傾げて記憶を巻き戻したが、男は間違いなくそう言った。
「はぁ?」
俺が声を上げると、男は怯えたように身を縮め、慌てて手の平をこちらに向けて俺の勢いを押し返した。
「差し出口なのは分かっていますが! もう黙って聞いていられなかったんです! どこかの機関に相談するべきかと思いましたけど! ひとまず会ってみてからの方がいいかと思いまして!」
「いやいやいや! ちょっと待った! 機関に相談って、女喚かせてるのはお宅でしょう?」
何を言ってるんだこいつは! 俺は前のめりになってカップをテーブルに置いた。
と、その時。
ドンッ
上階から重々しい音が聞こえた。
「ほら! お宅で音が……わっ!」
文句を言うその途中で、俺は男に抱きすくめられていた。
「うおい! なんだよ!」
驚いてじたばたするものの、男の胸板で前が見えない。
どうやら男は俺を抱きしめているのではなく、しがみついているようだった。体格の差によってか男はびくともしない。
「ちょっ! 放せよ! お、重いって!!」
どうあがいても放す気がないらしい男は、暴れる俺を無視してゆっくりと床にしゃがむと、目を見開いた顔をこちらへ向けた。
「か、顔が近い! 怖い!」
男はさっきまでの誠実そうな顔を無くしていた。ごくっと喉を鳴らし、震える唇でおどろおどろしい声を出した。
「お、俺一人暮らしなんですけど」
なんだって?
「どういうことだよ! いるだろ誰かが!」
言い返すと、腕を掴む男の両手がぎゅっと力を込めてくる。
「痛い!」
「居ません。一人暮らしなんですから」
「それは聞いたけど!」
再び大きな物音が天井を鳴らした。男は小さく悲鳴を上げて、俺ごと床にダイブした。
「いってえ!」
尻と肘を打った。でも痛い以上に苦しい! のしかかる男の体重が俺に全乗っかりしている。
「重たいってちょっと!」
どうやら俺が考えていたことは、なんだかちょっと間違っていたらしい。
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