第2話 思い出

 萌菜がアイドルに興味を持つようになったのは、まだ十歳の頃。

 たまたま紅白歌合戦で観た女性アイドルグループの華やかなパフォーマンスにすっかり目が釘付けになった。

 それからは、そのアイドルグループがテレビに出演するたびに、狭い居間の家具に体をぶつけたりしながら一生懸命にダンスを真似したものだ。

 そんな萌菜の様子を愛おしそうに眺めていた父親がある日、二人の姉がいないところで萌菜に声をかけた。

「今度、劇場公演に連れていってあげようか」

「ええっ! パパ、ホントに?」

「うん。パパ、ネットで調べたんだけど、抽選だし、倍率も高いみたいだから、なかなか当選しないかもしれないけど。当たるまで何度も申し込んでみるからさ」

「やったっ! パパ、絶対当ててね!」と胸の前で両手を合わせる萌菜。

「うん、がんばるよ」と父親はそんな萌菜をにこにこと満面の笑みで見つめていた。

 父親は三人姉妹の末娘である萌菜を特別にかわいがっていたし、萌菜もそのことを幼いながらはっきりと自覚していた。

 萌菜は父親が大好きだった。

 そんなことがあって三か月後にようやく当選し、萌菜と父親は埼玉の自宅から東京で行われる劇場公演に向かった。

 会場は三百人ほどの観客を収容する小規模な専用劇場で、演者と観客の距離の近さに萌菜は驚いた。

 わずか十メートルを隔てたステージで歌って踊るアイドルにすっかり魅了され、小さな口をポカンとあけて見入る萌菜。

「萌菜、たのしい?」

「うん。すっごく楽しい!」とはしゃいだ声で即答する萌菜に、父親は優しい微笑みを浮かべて「よかった、よかった」と安心したように何度もうなずく。

 その父親の瞳が濡れて光っているように萌菜には思えた。

 小学生の女の子が観に来ているのが珍しかったのか、楽曲の合間のトークコーナーで、ステージ上からアイドルが萌菜に声をかけてくれた。

「さっきから思ってたんだけど、今日はとってもかわいい子がきてるの。

 どっから来たの?」

「さ、埼玉です」

「そうなんだ。

 パパと一緒に?」

「うん」

「わたしたちのこと、好き?」

「うん。だいすきっ!」

「わあ、かわいい! 

 もうちょっと大きくなったらオーディション、受けてみたら?

 絶対、合格だよ! 

 ね、みんな?」

 他のメンバーもうんうんとうなずく。

 それはリップサービスだったのだろうが、ただただ憧れの対象だったアイドルに自分はなりたいのかも、と最初に萌菜が意識した瞬間だった。

 およそ一時間半の公演は瞬く間に過ぎていった。

 今日の出来事は、萌菜にとって今までで最高の思い出になった。

「パパ、また連れていってね!

 絶対だよ!」

「うん、わかった。でも勉強もがんばるんだぞ」

「わかってるって。

 お勉強は苦手だけど、萌菜、ちゃんとがんばるから、パパも約束してね」

「うん、約束する」と答えた父親と萌菜は、帰路につく電車の中で指きりげんまんを交わした。

 父親が萌菜の前から永久に姿を消したのは、その三日後だった。

 後にわかったことだが、妻と三人の娘を置き去りにして、密かに交際していた女性と連れ立って失踪したのだ。

 それ以来、萌菜は一度も父親と会っていない。

 そんな萌菜にとって、あの日のおでかけは、父親との最高の思い出であると同時に最低の思い出となった。

 萌菜の元を去ることを決めていたに違いない父親と共有したあの時間がとても不快に思えてくることもある。

 だが、そんな痛烈な裏切りを受けても、父親が萌菜を劇場に連れ出してくれたことは、萌菜に対して最後に見せた精いっぱいの誠意だったようにも思えるのだ。

 最高であって最低。

 萌菜の心には、矛盾する両者が今でも不思議と共存している。


 会場では五十位が発表された。獲得票数、一万九千二百五十六票。

 ガッツポーズをしながら立ち上がったのは、萌菜とは別のアイドルグループのメンバーで、水島瑠璃も所属する「レインボー」の結成当初から在籍しているベテランだ。

 たしか年齢は二十六歳。

 五十位内にランキングされたのは初めてだろう。

 五十一位以下は名前を発表されずにランキング圏外とされるから、ランクインした中では最下位ではあるのだが、アイドルとしては旬をとっくに過ぎておそらく引退も視野に入れているであろう彼女にしてみれば、思い出に残るうれしい結果であったに違いない。

「レインボー」は小規模ながら都内に専用劇場を構えているが、彼女は劇場公演の最多出演者だと耳にしたことがある。

 メディアにはほとんど登場しないが、彼女の地道な活動がファンの気持ちをつかんで、その努力が報われたのだろう。

 萌菜は素直な気持ちで、おめでとうございます、と胸の内で声をかけた。

 しかしそれは、裏を返せば、まだ萌菜には高みの見物を決め込む気持ちの余裕があったともいえる。

 自分の名前が呼ばれるのはまだまだ先のことだという自信があったのである。

 萌菜が送った祝福の言葉は、優越感の表れでもあった。

 四十九位、四十八位、四十七位と次々に発表され、名前を読み上げられたメンバーがステージの最前でスピーチを行い、ステージ裏手にはけていく。

 だが、全国の女性アイドルグループが結集し、その中で真の女王を決める大イベントはまだ序盤戦である。

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