心の花 後編 ~ルミレラの心内~

 彼―― 夏主かしゅレイファルナス様は、私の事を呼ぶ時に、絶対に「ルミレラ」と名前を言わない。

 私の役職名、「蒼神官そうしんかん」と呼ぶ。




 それは十年前の夏主祭だった。新任の巫女みことして夏神殿に仕えるようになった私は、広大な夏神殿の花壇の中に咲く、大きな花々に水をやる仕事をしていた。

 そこは、神殿の裏手にあたる場所で、夏神殿はこの裏の門から出入りする事もできた。


 夏主祭だというのに、新人ゆえの夕方の水やりに正直、私は辟易していた。

 だが、ここにいれば人ごみに揉まれずに夏主レイファルナス様の恒例の挨拶が声だけ聞ける。


 今年も夏神殿の正面の庭は人でいっぱいだ。がやがやとした雑音がしんと静まると、レイファルナス様の声が聞こえた。


「毎年わたしの為に祝ってくれてありがとう。今日も明日もみなにとって良い日が続くように、私は祈っています」


 凛とした、涼やかな声だった。その声をかみしめながら新人一年目の私はレイファルナス様の姿を思い浮かべ、憧れに身を焦がした。


 感動に打ちひしがれて暫くぼうっとしていたら、バタン、と後ろの窓がひらいた。


「あ……」


 その人は窓から今まさに出て行こうとしている状態で、って窓から? 青い眼、飴色の髪をぼさぼさに三つ編みにして前に垂らしていた。旅装束のような少し汚い格好で、長靴ブーツをはいた足を窓の桟にかけて室内から私の方へと飛び降りてきたのだ。


「やあ。君もお祭りだというのに仕事が大変だね」


 何かをごまかすかのように苦笑いして、その人がうしろへ後退し、裏門を通り抜けようとした時。


「ルミレラ、今ここに誰かこなかった……って、御待ちなさい!」


 彼を追ってきた蒼神官の声が響いた。


「まずい。君も一緒に逃げよう」

「え!」


 な、なんで私まで!


「困ります! 私も怒られてしまいます!」

「だって、どっちみち私をここから出したら君も怒られるよ」

「どうしてですか!」


 私たちは手を取り合って走りながらそんな言葉を交わし合った。


「どうして今日の主役の夏主を夏神殿から出したんだって、責任を問われるかも」

「なんで! 濡れ衣だわ! って夏主? レイファルナス様!」


 それから私はレイファルナス様に連れられて、夏島の首都のキリブまで行ったのだった。


 私たちは祭りの中を並んで歩いた。彼は露店で売っている氷菓の店で「おわびだよ」と言って氷菓を買ってくれた。

 レイファルナス様と私は、それを持って陽の落ちた広場の長いすに座った。彼は香草入りの氷菓を、私はその隣で一緒に果物入りの氷菓を持って。

 濃紺色の空には、色とりどりの花火が打ちあがっていて、私たちは花火を見ながら、氷菓を匙で掬って食べたのだった。


 その経験は、今まで体験した事がないような、とても『幸せ』の匂いがした。

 憧れの人とお祭りで一緒に出歩ける。

 恋人同士の逢瀬のようなその出来事に、私はときめいていた。

 でも、やっぱり気がかりな事はあって。


「私はもう、夏神殿をクビになるかもしれません……」


 弱気になった私に、彼は氷菓を食べながらきっぱりと言ってくれた。


「私がなんとかする」


「でも……夏主様とこうして夏主祭で出歩いて遊んでいるんだから……私はどうなるでしょう?」


 私は弱気なまま、彼に尋ねた。

 すると彼は私をみて、申し訳なさそうに謝ってくれたのだ。


「君を巻き込んでしまったことは、申し訳なく思っている。すまなかったね。

 でも私は夏主祭でこうして街に出て、民の様子をみたかったんだ。楽しいしね。

 君のことは私が無理やり連れだした、と言っておく。本当のことだから」


「おねがいします……」

「君の仕事の方も、私が取りもつ」


 真摯な目で言われて、私もふっと息を吐いた。

 この夏島の夏主様は、私が思っていたとおりの優しくて頼りになる方だった。


「……ありがとうございます。もう過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がないし、レイファルナス様と一緒にいられるっていうのも巫女冥利に尽きます。今日は遊んでしまいましょう!」


 こうして私たちはその日、一晩、遊び倒した。レイファルナス様は、祭りを楽しんでいる民の様子をみて、とても満足していらしたようだった。

 朝になってこっそりと帰ってきた私たちは、夏神殿の門前で待っていたその当時の蒼神官にこっぴどく怒られた。

 この時はやっぱり真面目に辞めさせられるんじゃないかと覚悟を決めたが、レイファルナス様の取りなしで事なきを得たのだ。



 私と彼との思い出はこんな事くらいしかない。

 でも、誰にも経験できない事だっただろう。

 その出来事があってのち、私の彼への憧れは、恋心へと昇華してしまった。

 無駄だと分かっていても、想いが叶うはずはないと分かっていても、心は彼を想う。


 そして、私はあることに気が付いた。

 レイファルナス様は、あの時、私の名前を聞かなかったと。

 私の事は常に「君」と言っていた。


 あの当時から、私は彼に名前を呼んでもらえなかったのだ。




蒼神官そうしんかん

「……」

「蒼神官」

「え、あ、はい。なんでしょうか」

「珍しいね、君がそんなにぼうっとしているなんて」


 夏主の為の執務室でレイファルナス様が言う。あれから十年たった今、私は二十九歳になっていて、でも彼は全く歳を取っていない様だ。彼は執務机に座って、私は彼の前に立って話をしている最中だった。


「昔のことを思い出していました」

「昔……?」

「ええ。私だけの秘密の昔の物語です」

「ふうん?」


 レイファルナス様は不思議そうに私を見る。

 もう、彼の中で、あの夜の巫女の記憶はないだろう。

 しかし、彼は執務机の上で指を組みながら、微笑んで言った。


「そういえば、君と昔、夏主祭で夜通し遊び倒した事があったね」


 私はその言葉に息が止まりそうになった。


「お……覚えて…いらしたのですか?」

「もちろん。あれは私の中でも一大事件だったからね。夏神殿に仕える巫女と夜に逢瀬なんて」


 逢瀬。そう認識してくれていたのが、とても嬉しい気持ちになる。


「でもあれから私もひどく怒られたけどね、君もでしょう? 大丈夫だった?」

「今更ですよ……。大丈夫でなかったら、今、蒼神官なんて大職を務めてはいません」


 とても優しい声が出た。


 私はあれからその穴を埋めるように仕事にまじめに取り組んだ。その結果、当時の蒼神官つきの巫女みこになった。それからその蒼神官の推挙で今この役職についている。


「君が蒼神官になって、夏主祭で私が出歩けるようにしてくれたこと、とても感謝しているよ」

「そうですか。それは良かったです」


 私は自然と顔がほころんだ。


「あの時は悪かったね」

「もう、昔のことです」


 そう言って夏主の椅子にもたれるレイファルナス様に、私は笑顔で応えた。


 こんな小さなひとつひとつの言葉たちが、たくさん降り積もって、また彼を想う糧になる。


 でもそのあとに私は知ってしまった。

 レイファルナス様が今から三十年前の蒼神官に恋をしていたことを。

 私の前の前の蒼神官だった人。

 そしてその人は夏主であるレイファルナス様を残して先に逝ってしまったらしい。

 彼はもう、人とは恋をしないと、涙を流していたという。

 その話を私の補佐役のユスティスに聞いた。


 だから――レイファルナス様は私を名前で呼ばないのだろうか。

 決定的に心に壁を作られている感覚がする。

『蒼神官』という、役職。前に恋した人と同じ役職が、さらに私を彼から遠ざける。


 一番近くにいて、一番遠い、その立ち位置。

 誰にも譲りたくない位置にいながら、逃げ出したくなる位置。

 甘い、花の蜜のような位置。


 心の中に咲く花は、散っても散っても、貴方の顔を見るたびにまた蕾をつけて綺麗な花を咲かせるのです。

 たとえ、実らぬ恋でも、花だけはずっと……私の心に咲き続けるのです。


 心の花 後編終わり


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