終章『百合を咲かせて』
第53話
どのくらい眠っただろうか? ずっと眠っていた気がする。
ずっと、ボクの意識は暗闇に沈んでいて、前も後ろもわからない。何処に向かって流れているのか、それとも沈み続けているのか、終わりはあるのか、何もかもわからない感覚のまま、ずっと黒色の何かを見つめていた。
そうしたら、声が聴こえた。
「葵? おーい、葵」
百合さんが、ボクを呼ぶ声だ。
「葵、来たぞ? 起きろ」
その瞬間、何も見えなかった暗闇に光が差した。それはボクの足元からで、視線を下げると、水面のような、白い揺らめきが見えた。ボクは身を捩って方向を転換し、光の差し込む方へと泳いで行く。その間にも、百合さんの声は聴こえた。
「葵、ほら、起きろ。せっかくこの私が来てやったんだからな」
早く百合さんに会いたくて、ボクは腕を滅茶苦茶に掻く。
「起きろよ…、早く」
すると、百合さんのものとは違う、女性の声が聴こえた。
「無理ですよ。もうずっと眠っているんですから。正直、先生ももうだめだって」
「そんなわけないよな? 葵。だって、私と約束したんだからな」
光が強くなる。ボクは目を細めたが、進むのは止めなかった。
「よし、じゃあ、やってやろうじゃないか」
そしてボクは、水面に辿り着く。
どうやったらここから出られる? 考える間もなく、そいつに腕を突っ込んだ。
「目覚めの、キッスを!」
百合さんの声が聴こえた、次の瞬間、ボクの腕は強い力に引っ張られる。
そして、目が覚めた。
「…………」
瞼を開けると、二センチにも満たない距離に百合さんの顔があった。肌が乾いていて、瞼も中途半端に下りている、何とも間抜けな顔。悪態をつくべく、口を動かそうとしたのだが、唇に、何か冷たくて柔らかいものが押し付けられていることに気づいた。
百合さんの唇であることに気づくのに、時間は掛からなかった。
「うわあああああっ!」
ボクは悲鳴を上げ、身体を起こす。ゴンッ! と、額に鈍い痛み。百合さんが悲鳴を上げて飛び上がった。
「な、な、な、何やっているんですか!」
額を抑えながら言うと、百合さんは鼻を押さえながら顔を上げた。
「おお、葵。起きたか!」
「起きましたけど! 寝起きにキスはないでしょ!」
「何をお、お前眠れる森の美女知らないのか?」
「知ってますよ。同意無いキスした野郎が出てくる話でしょう?」
「嫌だよ。眠っている美女起こして、『同意書にサインお願いします』って言う王子様なんて」
百合さんは鼻から手を離し、頭を掻いた。
「ったく、せっかくロマンチックなことしてやろうとしたのに、台無しだよ」
「別にしなくていいですよ。ボクには似合わない」
肩を叩くだけでよかったのに…と言いながら、ボクはベッドから降りようとした。しかし、百合さんの背後に立っていた看護師さんが、慌てて引き止めた。
「あ、まだ動かないでください」
「ん?」
見ると、腕に点滴の針が刺さっている。股間にも違和感。尿道カテーテルってやつか。
「あれ…?」
俯いた瞬間、黒髪がぱさりと落ちて、僕の薄い胸に触れた。
「…めっちゃ伸びてる」
「葵はやっぱ短い方が良いな。摘んでやるよ」
百合さんがそう言って、僕の髪を手で梳いた。
「…………」
よく見ると、半袖から伸びる百合さんの腕には、傷跡があった。銃痕だけではない。ナイフによる切り傷や、殴られた痣によって大量に覆われているのだ。そのほとんどが治癒をした後で、浅黒く変色している。
視線を上げて、彼女の右耳を見る。やはり、そこに耳は無く、鼓膜と繋がる耳の穴があるだけだった。
「うん? どうした?」
酷い有様だというのに、百合さんは首を傾げて笑っていた。
はっとした僕は、視線を落とす。入院服の裾を捲り上げると、そこには確かに、ナイフによる傷痕があった。
「あ、あわわわあ…」
ズボンを脱ごうとすると、頭を叩かれた。
「こら、人前でパンツを晒すんじゃない」
「いや、太腿にも傷があるのかな…って」
そう言うと、百合さんは笑って首を傾けた。
「あるよ。でも、もう治ってるだろ?」
「え…」
「三年前に」
「え?」
それを聞いた瞬間、全身が凍り付くような感覚に襲われる。
「さ、さささささ、三年前に? ってことは、僕、三年も眠っていたんですか?」
「いや、四年前だね」
ということは、今の僕は、二十四歳か? 貴重な若い頃を、こんな硬いベッドの上で過ごしたというのか?
「ちょっと! なんで起こしてくれなかったんですか!」
そう声を荒げた瞬間、喉が切れるような感覚がして、咳き込む。
百合さんは僕の肩を撫でながら、落ち着きを払った声で言った。
「起きなかったのは葵の方さ。私が毎日のように通って、声を掛けてやったってのに、全く反応しなかった…。いつか死ぬんじゃないかって、ずっとハラハラしてた」
顔を上げると、涙で滲んだ百合さんの目と視線が合う。
「まあ、私も一年くらい植物状態だったからな。もう少し早く起きていれば…、もう少し、お前が目覚めるのも早かったかも…」
「…はあ」
そう相槌を打つしかなかった。
大変だったのはその後だ。
僕が目覚めた…ということを聞いて、病院の先生が駆けてきて、精密検査を受けさせられた。翌日には大家さんや汗蔵さん、長谷川さんがお見舞いに来てくれて、病室でどんちゃん騒ぎ。看護師さんにこっぴどく叱られた。色々書類を書かされた。
結局、退院できたのは一週間後だった。
「よお、葵」
病院の先生に付き添われて建物を出ると、近くの植え込みに百合さんが腰を掛けて待っていた。
先生と看護師にお礼を言ってから、僕は病院を後にする。
「あの…、僕はどうやって助かったんですか?」
当時のことを聞くと、百合さんは笑って頷いた。
「お前、あの道に、大家を待機させていただろう? おかげで、直ぐに病院に駆け込めたんだ。もちろん、死にかけていたから、手術が終わった後も目覚めることはなかったが…」
「あの、可楽涼音らは…」
そう聞こうとすると、百合さんは唇に指を当てた。
「それに関しては、もう何も考えるな」
「………」
僕は唾を飲み込む。
二人の間を、肌寒い春の風が吹き抜けた。
数秒の沈黙の後、百合さんは力を抜いて言った。
「可楽涼音と碌々の部屋から、盗まれた貴金属が発見されたんだ。だから警察は、碌々を殺した犯人を可楽と見て捜査をした。でも、あいつは見つからなかった。そりゃそうだ。あいつの死体は、あいつ自身が底なし沼に沈めたんだからな…」
そう聞いて、僕は鳥肌が立つのを覚えた。
「あの、僕は、疑われなかったんですか?」
碌々圭介を殺したのは可楽涼音だ。しかし、行ったのは僕の肉体。もしも、あの部屋に僕の痕跡が残っていて、疑われるようなことがあったら…。
「疑われたよ。隣の部屋な上に、部屋から髪の毛が見つかったからね」
百合さんはあっさりとそう言った。
「でも、本人は昏睡状態。話を聞くことが出来ないから、早々に容疑者から除外された」
その後に「らしい」と付け加える百合さん。
「大体は大家から聞いた話だからね。私も当時は昏睡状態だったから…」
「そうですか…」
「多分、大家がいろいろ誤魔化してくれたんだと思う。私が銃撃されて、葵が刺された件も、全部正体不明のヤクザが悪い…ってことになった。あと、偽札の件もなんかうやむやになったよ」
「…………」
あの時、僕が全身全霊を込めてダウンさせた斎藤の行方は分からない。可楽涼音も、碌々圭介を殺害した罪を償わぬまま、死体を処分して、あの世へ行ってしまった。そして僕が行ったことも、咎められることはなくなった。
後味の悪さを感じるのは、気のせいだろうか?
「だから、もう考えるな」
百合さんは笑ってそう言った。
「私は聖人君主じゃないんだ。自分の身内以外はどうでもいい。これでハッピーエンドだと思うけどね」
「…そう、ですかね?」
それでも、僕は歯切れの悪い返事しかできなかった。
「例え、僕がやっていなくても…、僕は、人を…」
自分の手を覗き込む。
この小さな掌が汚れたのはもう四年前のことだが、なんとなく汚いような気がした。この感覚のまま、僕はずっと生きていくのだろう。
「じゃあ、一緒に死ぬか?」
百合さんが、明るい声で言った。
「え…」
顔を上げる。
百合さんは不機嫌そうに目を細めて、唇を尖らせていた。
「このまま生きるの、気分が悪いんだろう? じゃあ、死ぬか? 一緒に。私は付き合うよ。葵が死にたいって言うなら」
「…………」
僕は目をぱちくりとさせて、百合さんを見つめる。
彼女は少し恥ずかしそうに頬を掻いた。
「どうなんだ?」
「嫌です」
即答した。
「死ぬのは、嫌です」
「そうか」
百合さんはため息交じりに笑うと、僕の頭を撫でた。花でも愛でるかのような、くすぐったい力だった。でも、それが何だか心地よくて、僕は彼女にすり寄った。
「約束、憶えてくれていますか?」
「もちろんさ」
百合さんは気取った声で言うと、僕を抱き寄せた。
肩を寄せ合いながら、歩いて帰った。しかし、立ち寄ったのは、アパートの裏にある、「一刻荘 B棟」。四年の間に外壁は塗り直され、屋根瓦は貼り換えられ、駐車場まで整備されて、かなり綺麗なアパートへと変貌を遂げていた。日当たりも良いから、見ているだけでぽかぽかとした気持ちにさせられる。
「ここ、ほら、ここ」
百合さんはそう言って、一階の、一番左の部屋を指した。
「あそこ、今の私の部屋なんだよ」
「へえ、百合さん引っ越したんですね」
「おうよ!」
百合さんは得意げに胸を張る。
見た感じ、僕の部屋よりも広そうだ。
「じゃあ、毎日のように遊びに行けますね」
僕がそう言うと、百合さんは「へ?」と驚嘆の声を洩らし、首がねじ切れんばかりの勢いで僕の方を振り返った。
「え? 一緒に住まないの?」
「え、住むんですか?」
「私、そのためにここ借りたのに…」
あからさまに肩を落とす。
「そっかあ、私の愛なんて、葵にとってはそんなもんか」
「冗談ですって」
百合さんが、僕と済むためにここを借りた…ということは、数日前に大家さんから聞いた。気恥ずかしかったから、揶揄ってやったのだ。
僕は腰に手を当てた、
「じゃあ、明日にでも引っ越し準備始めますね」
「引っ越し準備てて、大したものなんて置いてなかっただろう」
百合さんは鼻で笑い、扉の方を顎でしゃくった。
「そんなの後回しで良いんだよ。私は今すぐ、お前を部屋に招きたいんだ。ほら、来い。早く来い」
「ええ~…」
せっかちな彼女に、僕は呆れるしかない。
後から聞いた話なのだが、僕はずっと眠っていたから、大学を除籍になったらしい。当然、アルバイト先にも僕の居場所はない。口座の金も入退院のいざこざで全部使い切り、文無しとなってしまった。対して百合さんは、定職に就き、ブラック企業ながら頑張って働いているようだ。しかも、今までと違って続いているから、先月給料が上がったって。僕をギリギリ養えるくらいの金も貯金していた。
「まあ、いいか」
難しいことは考えないようにした僕は、百合さんが導く方へと歩き出す。
風が吹いて、何処からか桜の花びらが飛んできた。陽光も強くて、服の下に汗をかいてある。アスファルトを踏みしめる感触だとか、喉の奥を掠める甘い空気だとか、小鳥のさえずりだとか、その全てが愛おしくて、僕は少しだけ、生きていることを嬉しく思った。
多分、何とかなる。
僕の人生は逆風だらけなのだろうけど、多分、生きていけると思った。
「ほら、おいで」
百合さんが僕に手招きをする。
僕は走り出し、彼女に抱き着いた。
その、まな板と形容してもいいくらいに薄い胸に顔を埋めた僕は、視線を上げる。百合さんは感極まったみたいに目に涙を浮かべていて、いや、涙が頬を零れて、頬を伝ったそれは、僕の鼻に落ちた。
百合さんが言う。
「お帰り」
「ただいま」
僕はそう返した。
ふと視線を外すと、駐輪場の傍に、大家さんが設けたであろう花壇があることに気が付いた。すみれやらチューリップやらが咲き乱れるその一番端に、背の高い花が植えられていた。まだ蕾は開いていない。紡錘形のしなやかな葉が、そいつを守る様に天を突いている。
確か、百合の花。
「そう言えば百合さん」
「なんだ」
「もし結婚したら、百合さんの名前は、『百合百合』になるんですか?」
ふと思ったことを口にする。
彼女は「へ?」と、洩らし、涙を引っ込めた。口をだらしなく開いて思案した後、天を仰ぐ。その拍子に、彼女の髪の毛が、まるで烏が翼を広げたかのように揺らめいた。
「あっはっはっは!」
下品な笑い声が、春の空に吸い込まれていく。
お腹がプルプルになるくらい笑った後、僕に視線を戻した彼女は、こう言った。
「傑作だね、それ」
「ええ、幸せ者です」
とりあえず、ボールペンと印鑑は買っておこうと思った。
完
ここに百合を捨てないでください。 バーニー @barnyunogarakuta
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