第48話

「ほら! 言いなさいよ! お前は誰だ!」

『くっ…』

 ダメだ。逃げられない。ならば…。

『百合さん! 速く逃げて! この隙に!』

 倒れたまま動かない百合さんに、そう呼びかけた。

 叫び声は可楽涼音にも聞こえたようで、彼女は確信を抱いたような顔をする。次の瞬間には、レモンでも絞るみたいにボクを握りしめると、顔面から叩きつける。

『ぐっ…』

「お前! 葵だな! 百合葵!」

 目の前が真っ暗になった。顔が押し潰れている。綿の中に、水が染みてくる感覚がした。腕が地面に触れたけれど、押し返すことは叶わない。

「なんでここにいるの? 私、消したはずだけど!」

『さ、さあね…』

 口が塞がれた状態で、ボクはそう声を発した。

『でも、幽霊の怨念は、怖いってことだよ』

 誰にでもわかる強がりのつもりだったのだが、可楽涼音は異様に恐怖した様子を見せ、また、ボクを地面に投げつけた。跳ねあがったところを掴み、今度は左手で頭を、右手で胴を掴む。

「捻り殺す…!」

 そして、強い力で引っ張った。

『お? おお、おおおお…』

 綿を覆う布が張り詰めた瞬間、ビリリ…と、何処かが破れる音がする。痛みは感じなかったとは言え、これには焦った。自分が生首になるところが脳裏を過ったからだ。

 このままでは千切られる。

『お、おいおいおいおい…! やめろ!』

「やめるわけがないでしょうが!」

 一層強い力で、可楽涼音がボクを引っ張った。

 みょおおおおんっ! と僕の顔が変形する。

 ビリッ! と、さらに嫌な音。首の辺りが裂けたのだとわかった。

『ま、まずい…!』

 傷口から綿があふれ出る。抵抗が出来ない。

 さらに傷は広がっていき、文字通り、首の皮一枚で、ボクの頭部と胴体は繋がっていた。

 勝ちを確信した可楽涼音は、ニヤッと笑う。

 ボクもまた、死を確信する。

 ぬいぐるみの首と胴を泣き別れにすべく、最後のひと押しに力を込めて引っ張った。

 その時だった。

「この野郎!」

 覚醒した百合さんが、一直線にこちらに走ってきた。

 それに気づいた可楽涼音は、ボクを引っ張るのを止める。だからと言って対応するにはもう遅く、彼女のその迫る敵を迎撃せんとする思考は、そのまま隙へと繋がった。

 可楽涼音が身構えるよりも先に、百合さんの握りこぶしが、その顔面に叩きこまれた。

 ゴンッ! と嫌な音。

 悲鳴を上げた可楽涼音は、首をのけ反らせる。

 百合さんは更に足を振り上げ、可楽涼音の胸を蹴り飛ばすと同時に、彼女が持っていたぬいぐるみをひったくった。

 なすすべなく、可楽涼音が倒れる。

「ったく、何だよ」

 ボクを抱きしめ、百合さんは血の混じった唾を吐き捨てた。

「私のぬいぐるみに! 触るなよ!」

 相変わらず顔は腫れあがり、腕は血塗れだけれど、その声と立ち振る舞いにはほれぼれするほどの生気が宿っていた。

 百合さんの腕の中で、ボクは歓喜の声をあげる。

『ああ、百合さん! 良かった! 良かったあ! 意識あったんですね!』

「ん? ぬいぐるみが喋った…?」

 百合さんは滲んだ血を舐めつつ、首を傾げたが、ぬいぐるみから発せられた声がボクのものであると気づくと同時に、腫れあがった瞼を押し上げて驚嘆した。

「お前葵か! なんでそんな姿になっている!」

『実は、かくかくしかじかで…』

「なるほど! モヘンジョダロ大学へのイージーフライが決まったから、マインスイーパーからのソクラテスだな!」

『あなたのおばあちゃんに助けてもらったんです!』

 三秒無駄にした。

「なんだと? 私のおばあちゃんがぬいぐるみに宿っていて、葵がピンチに陥ったから、ぬいぐるみの身体を譲ったのか…! しかも、天国への置き土産として、そんな言葉を残してくれたんだな!」

『そこまで言ってないです!』

 三秒取り戻した。

 ってか、なんで知ってんだよ!

 というツッコミが出るよりも先に、百合さんは神妙な顔つきに戻ると、鼻の下を擦った。

「知ってたよ。気を失っている時、おばあちゃんが夢に出てきたんだ。それで、葵が助けに来てくれるってこと、教えてくれた…」

『ああ…』

 あの人、消滅する前に、百合さんの元へ立ち寄っていたのか。

 ボクがわざわざ遺言を伝えるまでも無くて、落胆と安堵の入り混じったため息をついた。

 そんなボクを見て、百合さんはニヤッと笑う。

「愛しい孫なんだぜ? そりゃ顔見てから行くだろ」

 そう言う顔は、酷く腫れあがり、直視できるものではなかった。

『百合さん、傷、大丈夫なんですか?』

「大丈夫なわけないだろう? 痛くてたまらん」

 百合さんは、痛さなんて微塵も感じらえない声で言った。

「ったく、腕には穴空いてるし、耳は吹き飛んだ。その他殴られ切られしたからな」

 腕をパタパタと振る。すると、血が飛び散り、傍にあった岩を濡らした。

 んべえ…と、血塗れの舌を出す。

「葵の声が無かったら、きっと気絶していただろうね。まあだからと言って、少年漫画みたく火事場の馬鹿力が出ているわけじゃない。寿命が一分伸びただけで、正直、私はこのまま死ぬと思っているよ」

『…………』

 可楽涼音を殴った後、百合さんがすぐに逃亡に転じなかったのはわけがある。

 倒れている可楽涼音の、五メートル後方。そこに立っていた斎藤という男が、拳銃の銃口をこちらに向けていたからだ。

 下手に動けば射殺される。成す術がなかった百合さんは、仕方なくボクとの会話に興じたというわけだ。

 百合さんは、へへっと笑い、首を傾けた。

「どうする? 葵。私たちはよく頑張ったさ。このまま一緒にこの世を漂うかい?」

『それはちょっとなあ…』

 そうしていると、可楽涼音の気が付いたようで、首を擡げた。

 その顔は悔しさで歪み、鼻からは血が零れ落ちている。

「なによ…、あんた」

 それから可楽涼音は、後ろにいる斎藤を怒鳴りつけた。

「何やってんのよ! 早く殺して!」

 斎藤は心底面倒くさそうに顔を顰める。

「そう急かすなよ。殺すくらいいつでもできるさ」

「そうだよ。私を殺すくらい、いつでもできる。君らは、コロッケを買ったとして、帰るまでに食べてしまう子どもじゃないだろう?」

 斎藤に同調した百合さんは、ぬいぐるみであるボクを持ったまま、両手を挙げた。一見降参のポーズだったが、その口調はおどけていて、挑発をしているようにも聴こえた。

 怒りのあまりトリガーを引いてしまいそうなこの状況。だが、その堂々たる様が逆に斎藤には受けたようで、彼は銃口を少し下げて、笑って言った。

「コロッケは揚げたてを食べるものだろう?」

「おう!」

 しまった…と言いたげな顔をする百合さん。

「そうだったな。駄菓子屋で買った粉末ジュースと例えるべきだったかな?」

「いやいや、ああいうのは、公園の水道で作るのが粋なんだよ。俺も昔はそうした。ほら、半分直接食って、残りは袋に水を一滴ずつ垂らして…」

「そうだったな。じゃあ、好きな作家さんの小説はどうだ?」

「馬鹿言え。それこそ、我慢ならなくなって、歩きながら読むんだよ」

 百合さんは歯ぎしりをして、悔しさを滲ませた。

「ちょっと待ってて、もう少しいい例えを考えるから」

『あんたらさっきから何を話してるんだよ』

 ボクでさえ引き金を引いてしまいそうな状況に、慌てて終止符を打つ。

『百合さん、コロッケだの粉末ジュースだの、好きな作家さんの小説だの言う前に、打開策を考えないと』

 ちなみにボクは、新作のゲームソフト…という例えが良いと思った。

「どうしましょうかね」

 再び上がった銃口を前に、百合さんは唇を尖らせた。

「言った通り、私はもうここで死ぬと思っている」

「言った通りよ。あなたたちはここで死ぬ!」

 百合さんの言葉に被せて、可楽涼音が言った。

「わかるでしょう? もう逃げられないの。満身創痍のビッチと、ゴミ同然のぬいぐるみ! 逃げられるわけがない!」

『ゴミとは失礼な、おばあちゃんの形見だぞ』

 そう言うものの、ボクの首は千切れかかっていて、ぷらぷらと揺れていた。

 地面に手を付いた可楽涼音は、生まれたての小鹿のような脚で踏ん張り、立ち上がった。だが、直ぐにバランスを崩し、膝をつく。よっぽど、百合さんのパンチが堪えているのだろう。

「諦めたくてたまらないね」

 百合さんはため息交じりに言った。

「でも、そういうわけにはいかないらしいんだ。葵の身体を、お前のものにするわけにもいかないし、私も私で、おばあちゃんに言われた。頑張って生きろってね。だから、できる限りの抵抗はしてみるよ」

「馬鹿じゃない? 碌々の小間使いにされていたあんたの人生なんて、しょうもないものでしょうよ。大切にする意味なんて無い、ゴミみたいな人生」

 胸に手を当てる。

「この身体も返さないわ。良いじゃないの! 本人は死にたがっていたんだからね。どうせ捨てる命、私が拾ってあげたの!」

「もういいって。耳に胼胝だよ」

 百合さんは無機質な声で嘆いた。

「別に、泥臭い抵抗するわけじゃないよ。形式的な抵抗さ。蟻が人間の脚に噛みつくみたいなもん。意味がない。君らは取るに足らないことだと思って足蹴にしてくればいい。私はただ、一応抵抗するだけ」

「そう? じゃあ、やってみなさいよ」

 可楽涼音は挑発するように笑う。

「意味もない事して、余計苦しんで死ぬがいいわ」

「苦しむのは嫌だけど、致し方ない」

 百合さんは頷くと、挙げていた腕を下ろした。斎藤による銃撃は無い。それでも、恐る恐る、服の襟を引っ張って、ぬいぐるみであるボクを、服と胸の間に挟んだ。

『…………』

 百合さんの胸は、ほぼ脂肪が付いていない。薄い皮膚の下にある骨の感触が、生々しくボクの毛皮に伝わった。心なしか、心臓の鼓動が伝わる。そいつは、今に爆発しそうなくらい逸っていた。

「さてと…」

 百合さんはニヤッと笑い、胸に挟んだボクを見た。

「葵よ。私は今、無意味な抵抗のことを蟻に例えたわけだ」

『ああ、はい』

 急に何を言い出すんだ?

「勝てるわけがない。そんな無常さを言ったつもりだったんだがな、やっぱり違うね。第三者から見れば、目に見えた結果でも、蟻からすれば、全身全霊を込めた一撃さ。そして、例え人間を倒すことが出来なくとも、人間に痛覚を与えられるんだ。自分のことをちっぽけな奴だと思っている人間の顔が歪むんだぜ? 見ていて、きっと気持ちがいい。そして、それはきっと、禽困覆車なんじゃないかって、私は思うんだよ」

「さっきから何を言っている」

 調子づいて言う百合さんに、痺れを切らした斎藤がそう言った。

 百合さんはニヤッと笑って、彼に視線を向ける。そして、こんなことを言い放った。

「命を賭けるってことは、意義のあることだと思うんだ」

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