第47話

 男が、可楽涼音の前までやってくる。

「高くつくぜ?」

「良いわよ。私、今お金持ちだから」

「盗んだ金だろう? 捕まっても知らないぞ」

「大丈夫よお」

 ぴしゃりと頬を叩き、自身の死体が沈んでいる沼の方を見た。

「実行犯の可楽涼音はもう死んだわ。今の私は、百合葵ちゃんだもの」

「ほんと、信じられないな…」

 男は顎に手をやり、可楽涼音の身体を足の先から頭の先まで、まじまじと見つめた。

「まさか、可楽がこんな小さな女になるなんて」

「棚ぼたね。私も、まさか若返りが出来るとは思わなかった」

 可楽涼音はそう言うと、僕の手を閉じたり、開いたり、開いた手で、胸を揉んだりした。

 そんな彼女を見て、男が問う。

「そう言えばお前、処女か?」

 可楽涼音は頷いた。

「もちろん」

「良い報酬じゃないか」

 悪人らしく、男はニヤリと笑った。

 蹲っている百合さんの腕を掴み、無理やり立たせる。彼女は腫れあがった瞼の下から、男を睨みつけたが、彼に意に介さない。

「悪いな。お前とは全く縁がないが、死んでもらうぞ」

 そして、抵抗できない百合さんを、底なし沼の方へと引き摺って行った。

 それを目の当たりにしたボクは、いよいよ焦り始める。

『…………』

 自分の身が消滅しなかったこと、大家さんのおかげでここまで来ることができたこと、百合さんが死んでいなかったことまでは、奇跡と言っても過言ではなかった。問題はここからだ。このぬいぐるみの身体で、どうやって彼女を助けるというのか。襲い掛かったとして、返り討ちにされて終いじゃないか?

 いや…。

『考えていても仕方がないか』

 瞬間、ボクは隠れていた草むらから飛び出した。

 一見無謀とも思える行動。でも、あのままでいると百合さんが死んでしまうというのなら、これはきっと、「挑戦」だった。

 身体が軽いおかげで、柔らかな地面の上を颯爽と駆ける。目標としたのは、百合さんを引っ張る男…ではなく、それを眺めている可楽涼音だった。

 まずはボクの肉体を取り戻す!

『ボクの身体を、返せッ!』

 そう叫んで己を鼓舞したボクは、次の瞬間、ミサイルのような勢いで跳躍し、油断している可楽涼音の顔面に、頭突きをお見舞いしていた。

『とりゃあっ!』

 ボクと可楽涼音が入れ替わったきっかけ…。それは、ぶつかり合ったから。ならばもう一度激突してしまえば…。

『え…』

 だが、入れ替わったような様子はない。

 ボクの目の前には依然ボクの身体があって、悲鳴を上げたそれは、顔を顰めながらよろめく。踏みとどまろうと脚を下げようとしたが、若干地面に沈んでいたために間に合わない。そのまま背中から倒れ込んでいた。

『もう一発!』

 着地したボクは、もう一度頭突きを食らわせるべく、距離を置いた。

 飛び出した瞬間、死角から手が伸びてきて、ボクの胴を掴む。

 あ…と思った瞬間、放り投げられ、地面を数回跳ねて転がった。

『くそ…』

 顔を上げる。

 可楽涼音も首を擡げていて、相変わらず赤い顔でボクの方を見ていた。

「ぬいぐるみ? なんで…?」

『…ああ、くそ』

 失敗した。気づかれた。どうする? もうさっきみたいな奇襲はできないぞ…?

『………』

「あんた、何よ…」

 黙りこくっているボクを前にして、可楽涼音は声を震わせた。

「答えなさいよ! あんた何者!」

 突然金切り声をあげるものだから、男がこちらを振り返った。

「どうした? 何があった」

「斎藤! こいつ捕まえて! 変なぬいぐるみが襲ってきたの!」

 立ち上がれないでいる可楽涼音は、ボクの方を指して、男にそう命じた。

 男がサングラス越しでもわかるくらい怪訝な顔をすると、首の後ろをポリポリと掻く。

「なんだよ、ただのゴミだろ?」

「違う! さっき襲われた!」

「落ち着けよ。大丈夫だって」

「早く!」

 山全体に響くかのような声量で叫ぶものだから、斎藤…と呼ばれた男は無視できず、それに従うことにした。

「ったく、世話かけさせやがって…」

 舌打ちをすると、百合さんを放ってこちらへと歩いてきた。

『…………』

 これは好機なのではないか? と思う。可楽涼音と斎藤の意識は、今ボクに向けられている。その隙に、百合さんが逃げることが出来るかもしれない。

 じっと固まり、タダのぬいぐるみであることを装いながら、ボクは百合さんの方を見た。

 淡い期待だったようで、倒れた百合さんはピクリとも動かない。そりゃそうか。散々痛めつけられたのだから、身体が動くはずがない。

 やっぱり、ダメか…。

 そう思った時、ボクの目の前に、泥だらけの革靴が現れた。

 無機質な雰囲気を漂わせるぬいぐるみを前にして、斎藤はため息をつき、肩を竦めた。

「やっぱり、タダのぬいぐるみだ」

「そんなわけないわ。さっき動いてたのに」

「お前、せっかく若い体手に入れたんだから、ヒスになるなよ」

「なるわけがないでしょう?」

「まあいいけどさ」

 男は足を伸ばした状態で腰を曲げ、落ちているボクを拾い上げようとした。

 次の瞬間、ボクは地面を蹴り、男の指からすり抜ける。

「え…」

 動くぬいぐるみを目の当たりにして、男の顔が凍り付いた。

「ほらやっぱり!」

 可楽涼音が声を荒げる。

 異様な状況を理解した後の男の行動は早かった。可楽涼音が「早く掴まて!」というよりも先に、ボクを捕まえんとして腕を伸ばす。

『うわっ!』

 寸でのところでボクは躱す。息をつく間もなく手が伸びてきて、地面を掠めた。これもまた転がって回避した。

「ちょこまかと…」

 男の顔が怒りに染まる。より一層早く、より一層激しい勢いを持って、ボクに迫ってきた。

『あわわわわ…』

 ボクは転がって草むらに飛び込んだ。草を使って視界を遮ろうとしたのだが、その草ごと蹴散らす勢いで、男が侵入してくる。

『くそ!』

 たまらず奥へ奥へと逃げようとしたが、次の瞬間、男の長く太い脚が草を薙いだ。

 躱すことが出来ず、草と共に蹴り飛ばされる。

 吹き飛んだボクは、木の幹、岩、地面の順に跳ねて、可楽涼音の元へと転がっていった。

「この…!」

 すかさず、可楽涼音がボクを押さえつける。

『う、うわああっ!』

「答えなさいよ! あんた何者!」

 もう逃がすまいと、強く握り締めながら、可楽涼音が詰めてくる。

 ボクは身を捩ったが、この拘束を解くまでの力を出すことはできなかった。

「答えなさい!」

 地面に叩きつけられる。痛みは無かったものの、立て直すこともできず、再び押さえつけられた。

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