第46話
そして二時間後。
カーナビの案内に従って、山道を進んでいた。アスファルトには亀裂が入っていて、散らばった小石を踏みつける度に、ミニクーパーは上下に激しく揺れた。跳ねた石が下部に当たる度に変な音がするものだから、大家さんの表情は不安げだった。
「ねえ、葵ちゃん、まだなの? こんな山奥まで入ってきちゃって…」
『もうちょっと…』
窓にしがみ付いたボクは、左側を凝視していた。
ぬいぐるみのプラスチックの目を通して見る景色は、正直良いものではない。なんだか中央が膨らんでいるし、端はド近眼を患ったかのようにぼやけている。
百合さんとここに来た時、彼女が目印にしていた標識…。あれさえわかればいいのだが、いつまで経っても見つけることが叶わなかった。
もしかして、もう通り過ぎてしまったのだろうか…?
『ねえ、大家さん、ちょっと引き返して…』
そう言おうとした時だった。
「あっぶなっ!」
突如、大家さんが急ブレーキを踏むとともにハンドルを右に切っていた。ミニクーパーは横向きの力を受けつつ停車。ボクは放り出され、大家さんの太ももの上に落ちた。
何が起こったのかわからなかったボクは、大家さんの焦りに染まった顔を見る。
『な、なんですか?』
「迷惑な車ねえ」
彼女がそう言って、窓の外を指す。
路肩に、黒色のバンがあった。カーブを曲がった直後に停まっていたために、気づくのが激突寸前になってしまったようだ。
そのバンのナンバープレートを見て気づく。
『あ…、あれって!』
瞬間、ボクは大家さんの太ももを激しく叩いた。
『大家さん、大家さん、ここで降ろしてください!』
「ええ、ここで?」
大家さんは信じられない…とでも言うような顔をしていたが、ミニクーパーを左に寄せ、バンの目の前に停めた。そして、後方をよく確認した後、ドアを開けてくれる。
「はいどうぞ」
『ありがとうございます!』
飛び降りようとしたのだが、百合さんが引き留める。
「危ないわ」
大家さんの心遣いに感謝しつつ、ボクは首を横に振った。
『大家さんはここにいてください! ボク一人で助けに行きますから。いいですか? 来ないでください。来ないでくださいよ? 絶対に来ないでくださいね!』
「うん、もちろん行かないんだけど…」
『………』
三秒ほどの沈黙。
『追っかけて来ないでくださいね! ボク一人で行ってくるので!』
勝手に期待して勝手に裏切られた気分になったボクは、名残惜しくは思ったが、大家さんの柔らかい太腿から飛び降りんとした。瞬間、首根っこを掴まれる。
「待って! だから、危ないわ!」
『止めないでください‼ ボクは命に代えても、百合さんを救うんですから!』
「いやだから…」
『止めないでください‼』
そう叫んで、太腿から飛ぶと、開いたドアの隙間から、道路に転がり出た。
瞬間、向かい車線からトラックが走って来る。当然躱せるわけがなく、ボクはトラックに撥ねられ、吹き飛ばされた。
『うぎゃあっ!』
宙を数回舞った後、地面に叩きつけられる。トラックはボクに気づかず、行ってしまった。
「だから言ったのに…、左右確認して出て行こうね」
『すみませんでした…』
ぬいぐるみの身体で助かった。全く痛くなかったし、毛が汚れただけで損傷はない。どういう原理か、身体も問題なく動く。
『人間だったら悲惨だったな』
しみじみと思ったボクは、今度こそ左右を確認して、元の車線に戻った。
『じゃあ、改めて、行ってきます!』
大家さんにそう声を掛けると、ガードレールの下を潜りぬけて、山の奥へと入っていった。
入って十秒と経たずに、しまった…と思う。草木が自分の背よりも高いことは予想していたが、思ったよりも鬱蒼としていたのだ。足の踏み場なんて無いし、進む道なんて無い。勇気を振り絞って分け入るのだが、方向がわからず、まるで太平洋の真ん中で彷徨っているような気分に駆られた。
そう言えば、百合さんは樹に括りつけられたリボンで進む方向を判断していたな…。
そのことを思い出し見上げたのだが、案の定、伸び切った雑草らが視界を遮っていた。
『うーん……』
序盤から、文字通り八方塞がりとなったボクは、その場に立ち尽くした。
どうする? どうやって進む? このままやみくもに進んで、もし、百合さんの元に辿り着けなかったら…。仮に辿り着いたとして、間に合わなかったら。
足元を掬うような不安が次々と沸き上がり、怖くて震える。
『いやいやいやいや…』
ボクは首を横に振って雑念を振り払うと、一歩、踏み出した。さらに、一歩、また一歩と踏み出し、その後は、坂道を転がる様にして足を動かす。進む方向なんて深く考えなかった。もしかしたら、全く別の場所に辿り着くかもしれなかった。だが、このまま怖くて立ち止まっていて何になるのか。それこそ、ボクは後悔するのではないか。
後悔するなら、やるべきことはやれ。
『いや、後悔するな!』
必ず、百合さんを助けて帰るんだ!
その一心で、草木をかき分けて進んだ。途中、木の根に躓いて転んだ。身を潜めていた蛇にもお尻を噛まれた。異臭を放つ何かを踏みつけてしまったし、地面かと思って進んだら踏み外して転がり落ちもした。
どのくらい進んだか。
「うっ!」
何処からか、誰かの呻き声が聴こえた。
岩を登っていたボクは、はっとして立ち止まる。音がした方向に意識を向けていると、今度は、頬を叩くような音が聴こえた。
そして、可楽涼音の怒鳴り声。
「この野郎! 舐めてんじゃないわよ!」
瞬間、ボクは踵を返して走り出した。相変わらず雑草は生え散らかし、ボクの行く手を阻んできたが、関係ない。音がした方へと全力で突き進んだ。
走って走って、そして、足元が何だかぬかるんできたと思った瞬間、視界が開ける。
『あ……』
辿り着いたのは、前回百合さんと来た底なし沼。
その淵に、可楽涼音と、百合さんはいた。
慌てて草むらに戻り、身を潜める。そして、恐る恐る様子を確認した。
間に合った…とは思えなかった。百合さんの顔面は真っ青に腫れあがり、腕や足には大量の切り傷があった。髪は乱れ、当然服も裂かれていて、彼女の白い胸が剥き出しになっている。丁度、沼に沈める前の拷問を施している最中なのだろう。
一体、どのくらいの時間、百合さんは痛めつけられたのか…。
ボクの存在には気づかず、可楽涼音は舌打ちをすると、しゃがみ込んでいる百合さんの顔面を殴った。彼女は低い呻き声をあげると、背中から倒れ込む。すぐに髪を掴んで立たせて、今度は鳩尾の辺りに膝をめり込ませた。
「ぐっ…!」
さっきよりも大きな悲鳴が聴こえた。
すっかり拷問に夢中になっていた可楽涼音は、顔を赤く染め、額の辺りに玉のような汗をかいていた。だらしなく開き、はあはあ…と息を洩らす様は、まるで餌をねだる犬だ。疲労が足に来ているのか、瞬間、よろめく。だがすぐに立て直し、また百合さんを殴りつけた。
「ざまあないわね! 私に逆らうからこうなるのよ!」
凄惨な現場を目の当たりにして、思わず足が踏み出る。
その時だった。
「おい、そろそろ沈めようぜ」
その瞬間、男の声が聴こえた。
ドキリとして見ると、少し離れたところにある岩に、四十代くらいの男が腰を掛けていた。高そうなスーツを身に纏っていたものの、スキンヘッドで、サングラス、逆三角形の肉体、そして、黒いサングラスを掛けている様は、明らかに堅気ではない。
頬杖をつきながら、男は吸っていた煙草を吐き捨てた。
「いつまで殴ってるつもりだ? もう日が暮れる。暗くなる前に帰るぞ」
「もうちょっとやらせてよ」
可楽涼音はそう言って、倒れている百合さんを踏みつける。
「こいつは絶対、命乞いをさせてから殺してやる」
僕の肉体ではあるが、中身が可楽涼音であることを知っているのだろう。男は友人でも相手にするかのように、笑って言った。
「沼に沈めたら嫌でもするようになるさ。早くしてくれよ、もう飽きたんだが」
「なによお…」
可楽涼音はつまらなそうに言い、百合さんの頭を蹴る。それから、何か素敵なことを思いついた子供のように、目を輝かせた。
「そうだ、あんた、こいつを冒してよ」
男は首を横に振り、柔らかい地面を足で叩いた。
「やだよ。服が汚れる」
「女子みたいなこと言わないでよ」
「それに、お前が殴り過ぎたおかげで、顔がもう酷いことになってるじゃないか」
確かにそうだ。百合さんの顔は、目を背けたくなるほどに酷く腫れあがっていた。
「化け物冒したところで勃つものも勃たん」
「繊細ねえ」
可楽涼音は「まあいいや…」と言い、百合さんを顎でしゃくった。
「じゃあ、さっさと沈めて」
「はいはい、わかりましたよ」
男は二つ返事で頷くと、吸っていた煙草を足元に落とした。ぬかるみに顔を顰めながら、こちらへと歩いてくる。
その時気づいたのだが、底なし沼では、既に誰かが沈んでいた。半分以上が粘土の高い水に覆われていたものの、服の模様だとか、頭に追った傷から、可楽涼音の死体であると気づく。なるほど、あいつは一生を僕の肉体で過ごすことを決意し、元の肉体を、忘却の彼方に追いやらんとしているらしい。
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