第45話

「葵ちゃーん…、いるのー?」

 恐怖で顔を強張らせた大家さんは、薄暗い部屋に向かってそう呼びかける。当然、返事はこない。大家さんは唾を飲み込んだ。

「葵ちゃん! 何処にいるの!」

『大家さん! 大家さん!』

 ボクは腕をパタパタと振って、大家さんにそう呼びかける。伝わるかどうかは、ほぼ賭けだった。だが、おばあちゃんからの激励を受けた後なんだ。なんだか、成功するような気がした。

『大家さん!』

 もう一度そう叫んだ時、大家さんの顔がはっとした。

 とろん…とした目が、足元にいるボクの方へと向けられる。

 一瞬、ドキリ…とする。だが、躊躇している場合ではないと思い、坂道を転がる様に大家さんに伝えんとした。

『大家さん! ボクです! 葵です!』

 これは音として言葉を発しているのか、それとも念じているのか、いずれにせよ大家さんには届いたようで、彼女は「あらあ」と歓声をあげた。

「葵ちゃん。トイストーリーごっこしてるの?」

『あんたはもうちょっと焦れよ!』

 驚かれると思っていたために、大家さんの適応力に感服せざるを得ない。

 大家さんは「よいしょ…」なんて言って、しゃがみ込むと、手をパタパタとさせているボクを抱きかかえた。

「それで、どうしたの? なんでそんな恰好になっているの?」

『実はかくかくしかじかで…!』

「なるほど、三年後にシュメール人がスタバの新作飲みに来るからミラジョボビッチ主演映画でキメて三国同盟を結びに行くわけね」

『いろいろあって魂がぬいぐるみの身体に入っちゃったんです!』

「なるほど! あなたの肉体に憑依した可楽涼音が、百合さんを銃で撃って、誘拐したのね!」

『そこまで言ってない! なんで知っているんですか!』

 無駄な時間を過ごすとともにそう叫ぶと、彼女はため息をついた。

「いや、だって、目の前で攫われたのに」

『へ?』

 大家さんは「よいしょ…」なんて言って、まるで赤子のようにボクを抱きかかえる。そして踵を返すと、部屋を出た。

 アパートの前には、何台ものパトカーが停車していて、開いた二〇二号室を、多くの警官が行き来していた。

「通報する前にね、突然、アパートの前に黒いバンが現れて…」

 盗まれた百合さんの車か?

「そこから降りてきた大柄の男がね、葵ちゃんの部屋に入っていったの。それで、偽物の葵ちゃんと一緒に、血塗れの百合さんを抱えて出て来て、そのまま連れ去っちゃった」

『と、止めなかったんですか?』

「そりゃあ、銃を突きつけられたらね。『このことは他言するな』って言われちゃった」

『お願いします! 連れて行ってください!』

 間髪入れず、ボクは大家さんの方へと身を乗り出し、懇願した。

『このままじゃ、百合さんは底なし沼に沈められます! 早く助けに行かないと…!』

「助けに?」

 大家さんは少し困ったような顔をしたが、頷いた。

「い、良いけど…。場所、わかるの?」

『M県の伊出羅市です! そこの山中にあります!』

 唾でもまき散らしそうな勢いでまくしたてた。

『お願いします! 早く! 早くいってください! この身体じゃ、間に合わない!』

 息を吸い込む。

『大切な人なんだ!』

 すると、大家さんは瞬きを三つした後、やれやれ…と言いたげに、肩を竦めた。

 ぬいぐるみであるボクの頭を撫でる。

「わかったわ。任せなさいな」

 苦言を呈すことなく承諾してくれた大家さんは、ボクを抱いたまま階段を降りると、隣の月極駐車場の停めてあったミニクーパーのドアを開けた。シートに腰を据えると、ぬいぐるみであるボクを胸の前にやり、シートベルトを締める。

「いくわよお」

 エンジンを掛け、サイドブレーキを解除するとともにアクセルを踏む。瞬間、ミニクーパーは猛牛のような勢いで飛び出し、横から走ってきた車のクラクションになんて目も暮れず、狭い路地を走り始めた。

『大家さん! 速すぎ! 速すぎ! 危ないですって!』

「なーに言ってるの。大切な人の一大事なんでしょう? 飛ばすわよ!」

『ダメですって! 人撥ねたらどうするんですか! ボクは身をもって知っていますからね!』

「大丈夫よ! 人は轢かないわ!」

 ただし、その一時間後に、スピード違反で切符を切られるのであった。

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