第八章『ここに百合さんを捨てないでください‼』
第44話
『…起きなさい』
『……………』
『起きなさい』
『……………』
『起きなさい、葵ちゃん』
どのくらい眠っていただろうか?
目が覚めると、部屋の中は薄暗くなっていた。
夕方のようで、窓の外が赤黒い夕陽に包まれている。滲みだした光が、部屋の輪郭を擽る様になぞっていた。
あの時のことは夢ではないようで、部屋には暴れた跡が残っている。瓶から洩れた醤油が、畳を黒く染めていた。銃は無くなっている。ロープも。そして、百合さんの姿も。
『……百合さん』
どこに行った? 多分、可楽涼音に連れ去られた。あいつに、銃撃を受けたはずだ。腕から血が出ていた。耳も、吹き飛んで…、可哀そうに…。痛そうで…。
そこで、意識がはっきりとする。
『百合さん!』
早く彼女を助けに行かないと!
そう思い起き上がろうとしたのだが、石になったみたいに身体が動かない。目を動かしてみたのだが、自分の首から下がどうなっているのかは、わからなかった。
『…………』
黒い天井を見る。
なんでボクは生きている? いやまあ、幽霊の状態だから、その表現は適切ではないな。言い換えるならば、どうしてボクは浄化されずに、まだこの世界に留まっているのだろう? あの女に塩を掛けられた挙句、足蹴にされて消滅したというのに…。
なんで…。
そう思った、その時だった。
『もしもし、葵ちゃん…』
ボクの隣から、声が聴こえた。おばあさんのような、しわがれた声。
ボクははっとして振り返る。そして、そこにいたものを目の当たりにし、戦慄した。
『だ、誰…?』
畳の上に、着物を着たお婆さんが座っていたのだ。
この薄暗闇の中ぼんやりと光り、全体的に透けていたから。ボクと同じ幽霊であることは直ぐにわかった。声も、空気を震わせるようなものではなく、心に直接語り掛けるような、エコーが掛かった響き方をしている。
しわくちゃの顔を見て、ボクは己の記憶を辿った。だがしかし、該当するものを見つけられなかった。
『え、誰?』
本気で疑問に思い、本気で恐怖し、質問する。
すると、座っていた老婆はこくりと頷き、それから、首を傾げた。
『はて、誰じゃったかな?』
『知らねえよ!』
思わずそうツッコミを入れた瞬間、身体が糸で引っ張られたみたいに起き上がった。
『わっ!』
勢い余って、前のめりに転ぶ。顔面が畳に激突した時、ぽすっ! と、音がした。
『…………』
違和感を覚えた。
なんだろう? この感覚。さっきまでと違う。重いというか、地に足が付いているというか、肉体があるときとはまた違う。例えるなら、ふわふわの着ぐるみを身に纏っているかのような、煩わしい感覚。
それに、なんだか、視点が低い。畳が目と鼻の先にあって、その網目が鮮明に視認できる。転んでいるから当たり前なのだが、いつもより大きく見えるというか…。
ふと顔を上げると、座っている老婆が見えた。まるで巨人のように大きい。部屋も、心なしか広くなったような…。
『急に動くんじゃない。まだ慣れていないだろう』
不気味な様相とは対照的に、老婆は優しい声でそう言った。
『ゆっくり、ゆっくり慣らしていくんだ。そうすれば、思うように動かせるようになる』
『慣れる? 動かす』
そこで、ボクは己の手を覗き込んだ。そして、驚愕する。
『はわっ!』
自分の手が、茶色の毛によって覆われていたのだ。しかも心なしか、太く短くなっている。異変は腕だけでなく、ボクの胴回り、腰、更には足までもがごわごわの毛に覆われて、寸胴と形容しても差し支えないくらいに太くなっていた。
『か、鏡…』
洗面所へ歩いて行こうとしたのだが、短い脚ではうまく歩けず、三歩と行かないうちに転んだ。
『これこれ…』
また、老婆が言った。
『焦るんじゃないよ。すぐに慣れるから。動き出すのはその後だ』
『あの、あなたは誰なんですか?』
未だ状況が理解できていないんだ。落ちついていられるわけがない。うまく身体を動かすことが出来ないもどかしさと相まって、苛立ちの声をあげた。
老婆は頷く。
『私の正体は…、正義のヒーロー…、グランド…』
『真面目に答えてくれないかなあ!』
『真面目だよ。私は、グランドマザーだ』
『グランドマザー?』
ボクは眉間に皺を寄せる。と言っても、その感覚は無いのだが。
『ふざけるな! ボクの祖母はそんな優しい声を出さないぞ! ボクの耳を引っ張って納屋に閉じ込めるんだ! それで朝まで放置されて! 朝ごはん抜きにされたし、木刀でボコボコにされたし、裸に剥かれて道路に放り出されたりしたぞ! 新手のグランドマザ―詐欺はやめろ!』
『恵まれなかったな。可哀そうに』
目の前にいる自称グランドマザーは、くしゃくしゃの目を更に窄めて、涙を落としながらそう言った。
『大丈夫だよ。私はお前のおばあちゃんじゃない。そしてこれは詐欺じゃない。詐欺の怖さは知ってるよ。昔、オレオレくんに百万盗られたからねえ…』
『大丈夫? 警察一緒に行こうか?』
『もう死んでるよ。わたしゃ幽霊だ』
『そう言えばボクも幽霊でした!』
そんな自虐をかました後、二人で『わっはっは!』と笑い飛ばした。
話を戻す。
『それで? あなたは誰なんですか?』
『私は百合のおばあちゃんだよ』
老婆は己の胸に手を当て、柔らかな口調で言った。
『百合さんの?』
そう言えばあの人、ボクにおばあちゃんの話をしてくれたな。散々な人生だったけど、祖母だけが自分の味方をしてくれたって。
この人がそうなのか。確かに、優しそうな雰囲気を持っている。
『もしかして、孫のピンチに地獄から戻ってきてくれたんですか?』
『私を勝手に地獄行きにするんじゃない』
老人とは思えないキレのいいツッコミを見せた後、老婆は言った。
『地獄にも、天国にも行ってないよ。ずっと、あの子の傍にいたんだ』
『ああ…、守護霊として』
『良く言えばそうさ。悪い言い方をすれば、ずっと付きまとっていた。あの子が大事にしていたクマさんのぬいぐるみに憑依してね』
『ぬいぐるみ…。ああ、あれか』
ボクの脳裏に、ぼろぼろのクマさんぬいぐるみを嬉々として自慢する百合さんの姿が浮かんだ。あのぬいぐるみの中に、彼女の祖母が入っていたらしい。今思えば、確かに、生々しい気配を放っていたな気がする…。
そうか、あのガソリンスタンドで、ポルターガイストの力を使ったのも…。
『それで、どうして今はここに? ぬいぐるみの中から出てきたんですか?』
『葵ちゃんが死にそうだったからね』
そう言った百合さんの祖母が、ボクを指す。
『どうだい? 身体は、上手く動きそうかい?』
そのタイミングで気づいた。自分の肉体が、クマさんのぬいぐるみに変わっているということを。腕や足が短くなり、胴も太くなり、毛むくじゃらになってしまったのは、そう言うことだったのだ。
『ぬいぐるみから飛び出して、バラバラになってしまった葵ちゃんの魂をかき集めた。魂って言うのはね、何かに憑依していた方が安定するんだ。特にこのぬいぐるみは、私が長年憑いていたおかげで、付喪神みたいな存在になったみたいだ。葵ちゃんの魂もよく馴染んだし、ちゃんと動かせるみたいだね…』
『ほんとだ』
ボクは腕を上げたり下げたり、足を動かしてステップを踏んだりして、自分の体の具合を確かめた。当然、人間の肉体の方が動かしやすいのだが、このぬいぐるみの身体も悪くない。例えるなら、原チャリに乗っていた人間が、幼児用三輪車に乗り換えるようなものだった。
『で、でもおばあちゃん、あなたは大丈夫なんですか? ぬいぐるみから離れて…』
おばあちゃんはそう言って、にいっと笑った。
『大丈夫だよ。あの世に行くだけさ』
『え…』
その言葉に、背筋に冷たいものが走る。
『そんな、やめてくださいよ。この身体はあなたのものだ…』
慣れないぬいぐるみの身体で、よちよち…とおばあちゃんに歩み寄る。
『もう返します。早く戻ってください。ボクは霊体のままでいいですから。このまま、百合さんを助けに行きますから』
だが、おばあちゃんは笑みを崩さず、首を横に振った。
『ダメだよ。塩を掛けられたおかげで、葵ちゃんの魂は弱っている。今外に出ようものなら、風に吹かれただけでバラバラになっちゃって、もう二度と元の身体に戻れないかもしれない』
『ああ…』
そうか、この人は、ボクが元の肉体に戻ることを考慮して、この選択をしたのか。取り戻せるかどうかもわからない。百合さんを守れるかどうかもわからない、絶望的なこの状況で、首の皮を糸で繋ぐような真似をしたわけだ。
ありがたいと思う一方、罪悪感がこみ上げる。
『でも…、やっぱり、ボクは…』
『大丈夫さ。もう十五年も見守ったんだ。悔いはない』
おばあちゃんは、はっきりとそう言い切った。
ボクははっとする。
『…十年も』
『ああ、そうだよ。十五年もだ。もしかしたら、一年と経たずに押し入れの奥に仕舞われたり、ゴミ箱に捨てられるかもしれないと思っていた。でもね、あの子は、ぬいぐるみを…私を、肌身離さず持っていてくれたんだ。おかげで、ずっとあの子のことを見守ることが出来た』
顔を上げたおばあちゃんは、ニヤッと笑った。
『見飽きるくらいにね』
『…そう、ですか』
『だからもういいのさ。私はもう、あの世に行くとするよ。大丈夫だよ。ちゃんとお経をあげてもらったからね、天国への切符は持っている』
そこまで言ったおばあちゃんは視線を落とし、少々声の調子を落とした。
『本当、ただ、見守るだけだった。何もしてやれなかった。あの子の運気を上げることもできなかったし、あの子に降りかかる災厄を祓ってやることもできなかった。私は守護霊なんかじゃない。ただの悪霊さ。私があの子を心配して傍にいたのはただの自己満足で、あの子にとっては、気持ちの悪い事をしていたのかもしれないな…』
それから、しわしわの手で顔を覆う。泣いているのか…と思いきや、後悔した声で言った。
『あの子の初夜の時まで一緒にいたのは、本当に申し訳ない…。あれは見るべきではなかった』
『ああ…、それはキツイ』
もこもこの腕に鳥肌が立つような感覚がした。
百合さんの恋愛事情は頭の片隅に放り投げて、話を元に戻す。
『じゃあ、もう、いいんですか?』
『ああ、もういい』
おばあちゃんは改まってそう言った。
『頼むよ。あの子を、助けてやっておくれ。ただ見守っていただけで、あの子の力にはなれなかった私には、できなかったことだ』
『はい』
おばあちゃんから仮の身体を貰ったボクは、期待に応えるべく、力強く頷いた。けれど、喉の奥に小骨が引っ掛かるような感覚がして、首を横に振る。
『そんなこと、言わないでください』
『うん?』
『力になれなかった…だなんて、言わないでください』
思い出すのは、百合さんと初めて出会った時の事。
彼女はことあるごとにぬいぐるみを抱きしめて、自分の人生について嘆いていた。ぬいぐるみについて語るときも、その時だけは、死んだ魚のような目が輝いていた。声だってそうだ。瑞々しいというか、張りがあるというか、聴いていて心地いいと思うくらいに透き通っていたんだ。
『あなたの存在は、百合さんに生きる力を与えました。あなたが、百合さんを生かしてくれたんだ。だから、そんなこと、言わないでください…』
そう言うと、おばあちゃんはふっと笑い、俯いた。
『そうだと、いいね』
『きっとそうですよ』
時間がない。ボクは玄関の方を振り返ると、とてとて…と走り出した。
扉の前まで来たところで、「ああ、そうだ…」と振り返る。
おばあちゃんはまだそこに正座していて、ボクが行く方をにこやかに眺めていた。
『ねえ、おばあちゃん』
そう声を掛ける。
『なんだい?』
おばあちゃんは首を傾げる。
『お孫さんを、ボクにくれますか?』
すると、おばあちゃんは吹き出し、背中を丸めて震え始めた。
笑っているのだろうが、なんだか不安な震え方に、思わず駆け寄ろうとする。だが、制するように言った。
『もとより私のものではないさ』
『あ…』
『でも、葵ちゃんがあの子の傍にいてくれたら…』
顔を上げるおばあちゃん。その細い目には、光るものが浮かんでいた。
ぽろり…と、涙が零れるとともに、言う。
『きっと、私は堪らなく嬉しいんだと思う』
その瞬間、おばあちゃんの身体が、波に攫われる砂城のように、ぼろぼろ…と崩れた。光となったその魂は、風の無い室内で、蝶々のように揺らめいて、ボクの傍を通り抜けていった。
ガチャリ…と、開錠される音。
振り返った瞬間、ドアノブが回り、扉が開いた。
藍色の光と共に顔を出したのは、大家さんだった。
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