第41話
「じゃあ、私にくれる? この身体」
ボクらの背後から、女とも男ともとれる、ハスキーな声が聴こえた。
恐怖と驚嘆が交じり合った気配がボクを飲み込み、奈落に飲み込まれたかのような浮遊感が腹に宿る。とも思えば、つま先から頭の先に掛けて駆けるは、電撃のような刺激。思わず悲鳴を上げたボクは、百合さんと同時に、背後を振り返っていた。
『あ……』
そこに立っていたのは…。
女だった。いや、「女」と呼ぶには、その容姿は若々しい。身長は百五十センチ前半くらいで、下ろした黒髪が、ふっくらとした頬を縁どっている。目は小動物を髣髴とさせるくらいくりっとしていて、鼻は低い。唇も薄く、全体的に白い肌をしていた。
見覚えのある容姿だ。ボクが中学生の時から今日まで、「もうちょっと背を高くしたいなあ」「もっと髪を短くしたいなあ」「もっと肩幅が大きかったらなあ」と願望の籠った眼差しで見つめていた鏡に映っていた。
その姿は、紛れもなく…。
『ボクの、身体…!』
行方不明になっていたはずのボクの肉体が、そこに立っていた。
一体どこから現れた? っていうか、幽霊であるボクの目の前で、ボクの肉体が動いているということはやはり、百合さんの推理は正しかったのか。
『すごいですね、ゆ…』
言いかけた時、百合さんの舌打ちが聴こえた。
見ると、彼女は畳に手を付き、膝を立てるとともに腰を浮かせていた。
その逃走のタイミングを見計らうかのような格好に、ボク…いや、今は可楽涼音と呼称すべきか、彼女はニヤリと笑った。
「逃がさないわよ。動いたら殺す」
見ると、その小さな右手にはサバイバルナイフが握られている。
百合さんは頬を伝った冷や汗を舐め、お道化たように言った。
「もしかして私の推理、正しかったのかな? 科学的じゃないから、正直外れていてほしかったんだけど…」
可楽涼音は頷く。
「ええ、正しかったわ。思わず拍手をしたくなるくらいに」
実際、彼女はナイフを握ったまま、ぱちぱち…と手を叩いた。
その音が不快…とでもいうように、百合さんは顔を顰める。
「一体どこに隠れてた?」
「コンロの下にある棚よ」
可楽涼音は、キッチンの方を顎でしゃくり、そう言った。
「この小柄な身体が成せることね。碌々圭介を殺した時も、この身体が無ければ、自分の部屋に侵入することが出来ていなかったと思う」
視線を戻した可楽涼音は、目を三日月のように歪めて嬉々たる感情を滲みだす。次の瞬間には、左手で己の胸に触れ、小麦粉を捏ねるみたいに揉んだ。とはいえ、「まな板」と形容してもいいくらいに脂肪が付いていないため、服に皺が寄るだけだった。
だが、その肉体は紛れもないボクのもの。
『な、何やってんだ!』
ボクは慌てて声を荒げた。
『人の胸を揉みやがって! い、痛いだろ! 絶対痛いだろ!』
「そうねえ、痛いわ。脂肪が無い分特に」
可楽涼音は逆鱗に触れるようなことを言うと、とろけるような目をボクに向けた。
そこで気づく。
『…お前、ボクが見えているのか?』
「見えてるわよ」
胸を揉むのを止めて、可楽涼音がそう言う。
「一度自分の肉体から離れたからね、きっと霊感が宿ったのね。顔を真っ赤にして私を見る、ちっちゃな女の子の姿が見えているわ」
『ち、ちっちゃいとはなんだ!』
「そんなことより」
大事な話をするボクと可楽涼音の間に、百合さんが割って入った。
「本当に、碌々圭介を殺したのは、お前なんだな?」
「うん?」
可楽涼音は髪を揺らして首を傾けた。
「そう言ったじゃない。そもそも、最初にあなたがそう推理していた」
「目的が聞きたい」
間髪入れずに、百合さんがそう聞いた。
「正直、あいつのことは良く思っていなかった。金にがめつくて、弱者にはふんぞり返る。大して能力が高いとも言えない。よくポイ捨てをする、生きているだけで害悪な二酸化炭素製造機だった。私自身も、頻繁にこき使われていたからな」
『言い過ぎでは?』
「言い過ぎが良いんだよ」
百合さんは出鼻を挫かれたような顔をしつつ、言い切る。
「でも、顔見知りなんだ。あいつがなんで殺されたか、知っておきたい」
可楽涼音は表情を一ミリも動かさなかった。ずっと、口角を三ミリほど上げて、光の無い黒目でこちらを見てくる。その得体の知れない感覚に、ボクと百合さんは、ほぼ同時に震えあがった。
どのくらい時間が経ったか、張り詰めた空気を裂くように、可楽涼音が言った。
「殺すつもりは無かったの。そもそも、あいつがあの場所に来ることは、想定外だった」
「…想定外?」
「ええ、想定外だった。好んで人を殺すやつが何処にいるの」
目を動かし、握っているナイフを眺める可楽涼音。それから天井を仰ぎ、こめかみを叩くことで、記憶を辿っているような仕草をした。
「ええと、どのあたりから話そうかしら」
「…わかりやすく頼む」
「じゃあ、あなたの推理の補足をするわね」
そう言った可楽涼音は、視線をボクらに戻した。
「一週間前に起こった、貴金属店の強盗の話は知っている?」
「ん? 強盗?」
『………』
百合さんはぴんと来ていないようだったが、ボクにはあった。
『確か、威武火市の貴金属店であったやつですよね? 犯人は二人組。犯行の後に、追いかけてきた警備員の男性を殺害している…』
「そう、それそれ」
可楽涼音は嬉々として言うと、ナイフの切っ先を、自分の鼻に向けた。
「その犯人が、私と碌々圭介だったの」
百合さんが「へえ」と感心したような声をあげる。
「あの野郎、強盗するほど肝が据わっていたのか」
「末端とは言え、ヤクザに所属しているものね。いやまあ、ヤクザは堅気には手を出さない…とは言うけれど」
話を続ける。
「とにかく、計画を実行したのは私と碌々圭介。警備員を殺しちゃうハプニングは合ったけど、無事成功して、金になるアクセサリーを大量に奪うことができた。でもね、その後、分け前のことで揉めたのよ」
『分け前…』
「ええ。本来は半分こする予定だったんだけど、計画を立てて、凶器や車を用意したのが碌々だったものでね、あいつ、三分の二を貰う…って言いだしたの」
それから可楽涼音は、「警備員を殺したのも彼よ」と付け加えた。
「はあ、それは、なかなかカツンと来るな」
「そうでしょう?」
百合さんの相槌に、可楽涼音は嬉々として頷く。
「だからむっとしてね、こっそり、盗んだアクセサリーの一部を私のものにしたの。ちょっと盗んだつもりだったんだけど、碌々に気づかれちゃった」
まるで、小さなミスをした後のように、可楽涼音は舌を出して言った。
「あいつ、絶対に取り立ててやる…なんて言って私のアパートまで押しかけてきたの。だから私は、鍵と財布、後スマホを持って逃げ出したわ」
『ん…?』
その言い方に、ボクは違和感を覚える。
でも、ボクらのアパートがあるのは二番通り。可楽涼音は、三番交差点から走って来て、二番交差点にてボクとぶつかったのだ。
「その時も、建物の隙間から逃げたんだろう?」
まるでボクの心を読んだかのように、百合さんが言った。
「アパートの正面は、碌々圭介が固めていた。だから、あの狭い建物の隙間から逃げたんだろう。お前の体型ならギリ通ることが出来る」
「そうね。正解よ」
『ああ、つまり、可楽涼音は、窓から逃げ出して、三番通りを北上。交差点を左に曲がって、二番交差点に走っていった…ってことですか』
猛牛の如く走ってきたのは、碌々圭介に追われていたから。
そしてぶつかり合ったボクらは、入れ替わった…と。
「最初は気づかなかったわ。すぐに落ちたスマホを拾い上げて、追いかけてくる碌々から逃げるべく走り出した。でもダメね、やっぱり前が見えていなかった、私は…」
そこで、可楽涼音の言葉が途切れる。
彼女は百合さんの方を見て、「ええと」とか「あの」とか「あれよね」と洩らしていた。
呆れた百合さんは言った。
「私の名前は、霧島百合だよ」
「横から走ってきた百合さんに撥ねられたの。とは言え、大した衝撃じゃなかったわ。牛に突き飛ばされて転ぶ程度。頭も打たなかったし、皮膚が裂けたわけでもない。せいぜい、腕に痣ができたくらいね」
そう言って、ウインドブレーカーの裾を捲り上げ、小枝のように細い太腿を露出させる。そこの皮膚は確かに、青色に腫れていた。
「私を撥ねたあと、百合さんは直ぐにその場から走り去った。腹立たしかったけど、好都合だったわ。私は碌々から逃げなきゃいけないからね。私は直ぐに身体を起こして、時間を稼ぐために彼に電話を掛けたの。でもね、あいつの声、凄く怯えたようだったの」
『怯えていた?』
どういうことだ?
「なんでお前から電話が掛かってくるんだ? って、あいつは言ってたの」
『ああ…』
そうか、百合さんが可楽涼音を轢いた時にはもう、ボクは轢き殺されている。その直後に可楽涼音から電話が掛かってくるわけだから、彼にとってそれは死者からのメッセージだったのだろう。
可楽涼音は、堪えきれずに吹き出す。
「あいつが、私を今しがた轢き殺したばかりだって言ったの。最初は何を言っているんだ? って思ったわ。でもね、そこで気づいた。自分の身体がいつもと違うってことに。胸は萎んでるわ、背も低くなってるわ、髪の色も違うし、そもそも、声が男なのか女なのかわからない、掠れたものに変わっていたの」
おそらく、カーブミラーで確認したのだろう。
「ああ、そうだ…」
可楽涼音は、何か思いだしたのか、話を脱線させた。
「私の耳、聞こえにくかったでしょう?」
そう言って、耳をとんとん…と叩く。
一瞬、何を言っているのか? と疑問に思ったが、直ぐに、可楽涼音の肉体のことを思い出した。
『…そう言えば、ボクが可楽涼音の肉体に入った時…、音が聴こえにくかった』
「碌々圭介が警備員の男を殺すときに、銃声を至近距離で聴いたの。だから、鼓膜が破れちゃったみたい」
『なるほど…』
おかげで、横から走ってくる車に気づかなかった。
可楽涼音は話を戻す。
「入れ替わりに気づくのには時間は掛からなかったわ。葵ちゃんとぶつかる瞬間、あなたの顔を見ていたからね。私は直ぐに元来た道を引き返した。その先にあった交差点で、私が血まみれで死んでいるところを目の当たりにしたわ」
『その時にはもう、碌々はその場から走り去っていたんですね』
「ええ。事故の恐怖から…っていうのもあるだろうけど、ちょっとした希望を抱いたんじゃない? 電話が掛かって来たってことは、もしかして、自分が轢いたのは私じゃなかったのかもしれない…って」
『それで、あなたはその後どうしたのですか?』
そう聞くと、そこで初めて、可楽涼音の顔から笑みが消えた。眉間に皺を寄せた彼女は、百合さんを睨みつける。
「どうしたもこうしたも、電柱の陰に身を潜めるしかなかったわ。だって、あなたがやってきたんだもん」
「…ああ、そうだな。私が来た」
百合さんはばつが悪そうに頷いた。
「倒れていた可楽の死体を、自分が轢いた奴のものだと思って回収したわけだ」
「これにはほとほと困ったわね」
可楽涼音は首を傾ける。
「なにせ、私の死体のポケットには、財布が入っている。金やポイントカードは別にどうでもいいわ。大事なのは、その中に入れた鍵。私の部屋の鍵と、そして…、盗んだ貴金属を隠している金庫の鍵…」
百合さんの頬がピクリと動く。
「やっぱり、目的はあの鍵だったか」
「ええ、あの鍵が無いと、金庫を開けることが出来ない。盗んだアクセサリーを、売りさばくことが出来ない…。もうどうしようかと思ったわ」
可楽涼音は額に手をやって、嘆くような真似をした後、指の隙間から百合さんを見た。
「でも希望はあった。だって、碌々圭介もあなたも、警察に通報しなかったもの。自分が回収した死体が、違う人間になっていることを気づいたあなたが、私の素性を知るために、私の借りているアパートにやってくる…、その可能性に賭けたわ。葵ちゃんが持っていた鍵で、葵ちゃんの部屋に侵入。そこから窓を伝って、隣にある私の部屋に入った…」
これも、百合さんの推理通り。
「碌々圭介がやってきたのは想定外だったわね」
可楽涼音は持っていたナイフで、空を裂いた。
「最初にやってきたのは碌々圭介だった。あいつは空き巣をよくやってたから、ピッキングが上手かったの。本当に私が死んでいるのかどうか、確かめに来たみたい」
「それで、姿を見られて、仕方がないから殺したと」
「焦っちゃったのよ」
可楽涼音はかわい子ぶる様に、己の頬に手を当てた。
「焦って、我を忘れたの。もしかしたら、上手く言い訳してその場を切り抜けられたかもしれない。それこそ、この小さな体を使って、何処かに潜伏できたかもしれない。だけど、焦っちゃってね。殺すしかないと思った」
『碌々圭介は、素直に殺されたんですか?』
そんな疑問がボクの口から零れて、足元で砕けた。
死体を見る限り、碌々圭介の身長は、百八十センチはあった。きっと体重も強烈だろう。そんな大男に、身長百六十センチにも達しないボクが勝てるとは思えなかった。
それほどに、彼女は人を殺すのに長けていたというのか…。
「殺されてくれたわ」
可楽涼音は笑って言って、また、ボクの胸に触れた。
「未成熟ながら女の肉体。彼を油断させるのには十分だったからね。言い寄ったところを、ナイフでさくり…よ。まあ、ちょっと取っ組み合いになっちゃったけど…」
『…ん? 未成熟? 女の肉体?』
彼女の言っていることが理解できず、頭頂部に「?」を浮かべる。すると、隣にいた百合さんが大げさなため息をつくとともに、頭を抱えた。
「あの馬鹿、前から猿だとは思ってたけど、得体の知れない女を前にしても発情できるのか…。嫌いな奴だとは言え情けない」
『え?』
今は無いはずの肉体に、ぞわぞわと鳥肌が走る感覚があった。
『け、け、穢された?』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます