第42話

 涙声になってそう言うと、可楽涼音は首を横に振った。

「大丈夫よお、二度目のバージンは取っておかないとね。碌々なんて下種野郎じゃない。もっと大切な人にね」

 艶っぽい声でそう言った可楽涼音は、自分のおへその辺りを指でなぞった後、ぽんっ! と音を立てて、叩いた。

「もっとも、この手は汚れてるけどね」

 きっと、碌々圭介を殺した時にナイフを握っていたであろう手を、閉じたり、開いたり。閉じたり、何かを弄る様に指を擦り合わせたり。

「まあ、奴を殺して、結果オーライだったとは思うわよ? これで、私を追う人間はいなくなったし、死体を晒すことで、あなたたちの隙を生み出すこともできたしね」

 脱線した話は、我々が碌々の死体を発見した直後のことに戻る。

「あなたたちが。碌々の死体を発見して困惑している間に、私は百合さんが置いて行ったバンに侵入し、運転することでその場を離れたわ。目的は何度も言っていた通り、死体が持っている鍵の回収…」

「だが、残念だったな」

 そこで百合さんが口を開き、人を小ばかにするような笑みを浮かべながら、持っていた鍵を見せびらかした。

「鍵は私が持っていた」

「そうなのよ。これには私も参ったわ。ツキが無いな…って。私はただ、お荷物になるたんぱく質の塊を回収しただけだもの」

 そう声の調子を落として言った可楽涼音だったが、すぐに笑みを取り戻し、握ったナイフに視線を落とした。

「最後の賭けに出たわ」

「…私らが、この部屋を訪れる事か」

「ええ。大家さんが死体に気を取られている隙に、部屋に戻って潜伏。後は、あなたたちが来るのを祈りながら待つだけ…」

 そして、その賭けは成功する。

 ボクらはまんまと、目当ての鍵を持ってここに現れた…というわけだ。

「本当、ついてる」

 そこで可楽涼音の言葉が途切れる。百合さんも、ボクも、放つ言葉を見失い、三者の間には濁った空気が流れた。

 十秒、二十秒、三十秒…。どのくらい睨み合いを続けただろうか? 百合さんが唾を飲み込んだタイミングで、可楽涼音が口を開いた。

「さて、お話はおしまい」

 一歩、ボクらの方に近づいてくる。

「まずは百合さん。あなたが持っている鍵、寄こしてくれる? それが無いと金庫が開けられないのよお…」

 持っていたナイフの切っ先が、百合さんの方へと向けられていた。

 百合さんは鼻で息を吐くと、持っていた鍵を掲げた。

 可楽涼音が手を伸ばした瞬間、引っ込める。

「条件がある」

 ぽつりと放った言葉に、可楽涼音は表情を動かさず、首を傾けた。

「なあに?」

「その肉体を、葵に返してやれ」

「いやよ」

 即答だった。

「私の肉体は死んでるのよ? 車に撥ねられて、骨が砕けて、肉もズタズタに裂けて、絞ったスポンジみたいにからからになった肉体に、はいそうしましょう…って言って帰ると思うの?」

「お前の意思は関係ない。そいつは葵の肉体だ」

「損害賠償くらいはしてほしいわよねえ」

 可楽涼音が、また一歩、百合さんに詰め寄る。百合さんは肩を震わせ、三センチほど身を引いた。

「だって、葵ちゃんは私の肉体を殺したも同然なのだから」

 夜の闇のような、冷たい視線が飛んできて、魂であるボクの胸を貫く。

 可楽涼音の言わんとしていることはわかる。彼女の気持ちも理解できる。同意は無かったとはいえ、ボクたちはお互いの肉体を交換し合った。相手のものを借りたなら、大切にするのが常識である。もし、ボクが死ななければ、こんなに話はややこしくならなかっただろう。

 ボクが迫ってくる車に気づいてさえいれば…。

「それに、あなた、死にたかったんでしょう?」

 ドキリとする。

「話は聞いたわ。人生に絶望していて、もうすぐ自殺をするつもりだったんでしょう? どうせ捨てる命なんだから、私に頂戴よ」

『それは…』

「ダメだ」

 そう答えたのは、百合さんだった。

「あなたには言ってないわ」

「そいつは葵の肉体だ。お前が好き勝手やるのは許さない」

「私の肉体は好き勝手されたのにねえ」

 可楽涼音の言葉が、刀のような鋭さを持って飛んできて、ボクらの耳を掠めていく。

 百合さんが押し黙るのを見て、可楽涼音は笑って続けた。

「車に轢かれて可哀そう。しかも、一度は捨てようとしたのでしょう? 毛布にぐるぐるに巻かれて、車の荷台に、まるで粗大ごみのように置かれていた。ああ、痛かったな…、ああ、寂しかったなあ…」

「いや、それでもだ」

 可楽涼音に言いくるめられぬよう、百合さんは語気を強めて言葉を紡ぐ。

「確かに、葵は死にたいんだろうさ。きっと、いつかは自死を選ぶんだろうな。でも、その決断を下すのは今ではないし、お前じゃない。首を吊るのか手首切るのか知らないけど、それは葵自身の意思でやるものだ」

 百合さんの顔には、玉のような汗が浮いていた。声は震えているし、目も若干潤んでいる。ライオンの前を横切るような恐怖に耐えながらも、彼女は必死に凄んでいた。

 そんな百合さんに、可楽涼音は面白くなさそうな顔をする。

「でも私は、あの子に殺されたんだけど」

「お前を殺したのは碌々圭介だ。そして、それとこれとは別さ。私は今、葵の話をしている」

「私が持ち出しているのは感情論よ」

 また一歩、可楽涼音が百合さんに近づく。踏み出した足は部屋を軋ませ、ナイフを握る力も強くなっているのがわかった。

『ゆ、百合さん…』

 あと一歩で、可楽涼音のナイフが百合さんに届くようになる。それは可楽も気づいているようで、彼女はネズミを追い立てるみたいに、畳の上で地団太を踏んだ。

「さて、どうする?」

「………」

 百合さんは依然表情を崩さず、可楽涼音を見上げていた。

 一向に返事をしない。鍵も渡さない。反抗的な態度を滲みだす百合さんに対し、可楽涼音が痺れを切らす。本性を表すかのように、あからさまな舌打ちを打つと、最後の一歩を、百合さんに向かって踏み出す…。

「わかったよ」

 直前で、百合さんが言った。

「渡せばいいんだろう? 葵の肉体は惜しいけど、私まで死んだら敵わんからな」

 持っていた鍵を掲げる。

 それを見た可楽涼音は、満足そうに頷いた。

「最初からそうしなさいよ」

「こういうのは意地だよ」

 百合さんもにやりと笑い返し、鍵と共に腕を突きだした。

 ナイフを下げた可楽涼音は、差し出された鍵を受け取るべく、左手を動かす。

 彼女の指が鍵に触れようとした…その時だった。

 百合さんが腕を振り上げた。

 当然、鍵は可楽涼音の指をすり抜けて、天井へと高く打ち上げられる。

「………」

 可楽涼音の意識が、一瞬、上へと向けられた。

 百合さんはその隙を見逃さない。ここで、いつでも走り出せる体勢を取っていたことが活きる。大腿四頭筋を一気に収縮させて弾丸のような勢いで飛び出すと、目の前の小さな女の子の腹に頭突きをお見舞いした。

「うぐっ!」

 臍の下。内臓に響く衝撃に、可楽涼音の喉から悲鳴が洩れた。当然、抵抗。握っていたナイフを、百合さんの背中目掛けて振り下ろす。だが、それよりも先に百合さんが押し倒し、その細腕を掴んで、畳に押し付けた。

 さらには手首を捻ることで、激痛を彼女に与えた。

 握っていられなくなって…、可楽の手からナイフが零れる。

「く、くそ…」

 例え凶器を向けられようと、そいつを握っているのはか弱い女の子。フィジカルの面において、百合さんは圧倒的なアドバンテージを有していた。大事なのは勇気。刺される前に制圧する。彼女はそれをやってのけた。

「体鍛えとけよな! かわいこちゃん!」

 可楽を一瞬にして制圧した百合さんは、唾をまき散らし、そう勝ち誇った。それからボクの方を振り返り、叫ぶ。

「葵! ナイフ!」

『あ、はい…!』

 ボクはポルターガイストの能力でナイフを浮かび上がらせると、遠くに放り、可楽涼音が拾えないようにした。

 見ると、可楽涼音は顔を真っ赤にして抵抗していた。と言っても、百合さんに馬乗りになられて、腕を掴まれているから、動かせるところと言えば足くらい。何度も蹴ろうとするが、上手くいかず、打ち上げられた魚のようにバタバタとしていた。

「離しなさいよ! クソ女!」

「そういうわけにはいかんのよ。肉体から、お前の魂をひっぺ剥がさないといけないからな」

「そんなことさせるか! これはもう私の肉体だ!」

「葵の肉体だよ」

 百合さんはそう言った後、また、ボクの方を見た。

「葵、悪いけど、少し傷めつけてもいいか? 動けないようにする」

『ええ…、別にいいですけど』

 とは言え、目の前で自分が傷つくのを見るのは、なかなか気分が悪い。

「よっしゃ」

 言うが早いか、百合さんは可楽涼音の腹…つまり、ボクのお腹に、握りこぶしを叩き込んだ。痩せているおかげで、皮膚が沈み込みあばら骨が浮き出るのがはっきりとわかる。

「おげえっ!」

 当然、可楽涼音な悲鳴を上げて、身を縮ませようとした。だが、それを百合さんは許さない。がっちりと抑え込み、勝ち誇ったようにへっへっへ…と笑った。

「大丈夫さ。骨は折らないし、女の大事なところは避ける」

「ちょ、ちょっと、ま、待って…」

 可楽涼音の制止は聞かない。もう一度拳を握り、腹を殴った。

「ぐへえっ!」

 耐えきれず、可楽涼音が胃酸を吐きだす。飛び散ったそれは百合さんの顔を汚したが、彼女は顰めるだけで、また、拳を叩き込んだ。

「おらっ!」

「ぐはあっ!」

「ほいよっ!」

「おぼげえっ!」

「よいしょっ!」

「がはっ!」

『がはっ!』

「あらよっと!」

「ああッ!」

『ああッ!』

「とりゃあっ!」

「ああんっ!」

『ああんっ!』

「さっきからうるせえな!」

 横から聴こえるボクの悲鳴に、百合さんは鬱陶しそうに顔を顰めた。

「葵は叫ばなくてもいいだろ!」

『いやいや、目の前で自分が傷ついていたら、悲鳴の一つや二つあげたくなりますよ』

「見なくていいだろ!」

 一旦拷問を止めた百合さんは、顎で玄関の方をしゃくった。

「ほら! お前はさっさと、ロープを調達して来い! こいつを縛り上げて寺に連れていく!」

『調達して来いって…、そんな都合よくロープがあるわけないじゃないですか』

「あるだろ。自殺率の高い日本だぜ? アジシオ並みにどこの家庭も常備しているだろうさ」

『嫌ですよ。お母さんが切らしていたからって買い足すロープなんて…』

 そうツッコミを入れた時、ボクの頭上で電球が光った。

 すぐに傍にあったリュックに近寄ると、開きっぱなしになっている口の中を覗き込む。

『そう言えばボク、首を吊るとき用にロープを買っていたんですよね。使うつもりは無かったんですけど、念のために持っていて…』

「ナイスだ! さっさと放れ」

『はいはい…』

 ポルターガイストを使って、リュックを引っくり返す。タオル、睡眠薬、アーミーナイフに、ミネラルウォーターと転がり出て、ロープはリュックの底にあった。

『あったあった…』

 念を込めて、浮かび上がらせる。

『百合さん、ありましたよ』

「おう、サンキュー」

 ボクが放ったロープを、百合さんは手を挙げて掴もうとする。

 この時、意識が可楽涼音から逸れた上に、腕の拘束が緩んだ。それは百合さんも気づいていたし、ボクも気づいた。だが、二人同時に、「まあ大丈夫だろう」と高を括った。何故なら、散々腹を殴られたことで、可楽涼音は痙攣して泣いていたし、拘束が緩んだと言っても腕だけで、依然、百合さんは彼女の上に馬乗りになっている。

 抵抗できるはずがなかったのだ。

 だから、百合さんはほぼ勝ちを確信してロープと掴み、可楽涼音を縛り上げるべく、向き直る。もちろん、ボクもそう思っていた。

 それが確信ではなく、油断だったことに気づくのは、次の瞬間だった。


 ドンッ!


 分厚い風船が破裂するかのような音が響いた。

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