第40話

『ああ…、それは…』

 ボクの部屋は、入居したばかりと言っても良いほどに片付いていた。机も、箪笥も、椅子も本棚も、何もかも、自殺の計画を決行するに当たって処分した。もちろん、台所の食器も調理器具もだ。畳には綺麗に掃除機を掛けていて、立つ鳥跡を濁さずと言わんばかりに芳香剤の原液をまき散らしたから、心なしか爽やかな臭いが充満していた。

 唯一残っているとしたら、ボクのリュックサック。

『死ぬつもりだったので』

「ああ、そういうこと」

 百合さんは笑みを隠さずに頷く。

「お前は本当に真面目だな。死後の後片付けなんて、大家と清掃業者に任せればいいのに」

『そういうわけにはいきませんよ。ボクは、誰にも迷惑を掛けたくないんだから…』

「そうか」

 百合さんはそれ以上、ボクの信条にケチをつけてくることは無かった。

 おもむろに腕を伸ばし、置いてあったリュックサックを掴む。ファスナーを開けようとしたので、慌てて止めた。

『あ、待ってください、開けないでください』

「ああ?」

 だが、その時にはもうリュックは開いていて、中のものが見えていた。

「なんだこりゃ」

 百合さんはそう言って、そいつを引っ張り出す。

 それは、一冊のノートだった。もう随分と使いこんでいて、表紙や縁に汚れが目立っている。

『ああ、見ないで見ないで…』

「どれどれ」

 ボクが百合さんに触れられないことを良いことに、彼女は捲った。次の瞬間、書いていあったものを目の当たりにして、百合さんの顔から笑みが消える。

「…死ぬまでに、やりたいことリスト」

『もーっ! 見ないでくださいって!』

 瞬間、ボクはポルターガイストの力を使って、彼女の手からノートを抜き取った。

 ビリビリに破ってやろうと、更に念を込めたのだが、流石にそれほどの力は出すことが出来ず、腹いせに壁に叩きつける。

 ポトリと落ちたそれを、百合さんは、こぼれ球をトラップするサッカー選手のような勢いを持って拾い上げた。

 また広げようとするので、慌てて止める。

『だから、見ないでくださいって!』

「笑うつもりは無いさ」

 百合さんはボクを手で制し、宥めた。

「笑うつもりは無い。だから、読ませておくれ」

『…………』

 取り繕った気配の無い、真剣なまなざしを前にして、ボクは何も言えなくなる。

『もう…』

 ボクがため息をついたことを、了承…と捉えた百合さんは、こくりと頷き、ノートを捲った。

 百合さんが言った通りだ。そのノートには、ボクが死ぬまでにやりたいことが挙げられていて、達成できたものを、日記のような形で書き綴っていた。

 変な話ではある。不治の病に罹ったわけではない。生きる活力が溢れていたわけでもない。むしろ、活力が枯渇して、毎日のように死ぬことを考えていたボクが、「死ぬまでにやりたいことリスト」だなんて、滑稽以前に奇妙だったことだろう。

 百合さんもそう思ったようで、首を傾げながら、上から順に読んでいった。

「一日中眠る…達成済み」

 ボクは慌てて説明する。

『一年くらい前から、もうずっと眠くて…。たっぷり睡眠時間取ったり、カフェインを摂っていたりしても、バイト中とか授業中に眠くなるんです。そのうち、バイトとか授業に出るのが億劫になって…、眠るのが楽しみになってて…』

「引きこもってばかりいたと」

『そういうわけにはいきませんから、バイトも授業も休まずに行ってましたよ? それ以外の時間はずっと眠っていました。とにかく、その時間が気持ちいから、一度休みを貰ったので、〇一日眠ってみたんです』

「…そうか」

 百合さんは静かに相槌を打つと、次を読み上げた。

「酒を飲んで泥酔する…達成済み」

『誕生日にやりました。度数の高い酒買ってきて飲みまくったんです』

「へー、いいじゃないか、楽しそう」

『なわけないですよ。クソまずい酒をわざわざコーラで甘くして飲んで、気を失って…、次に目が覚めたら、布団の上ゲロまみれですもん。おかげで、二日酔いの中一日中踏み洗いしてたし、三日間薄い毛布に包まって眠ることになったし…』

 当時のことを思い出し、顔を顰めながら言うボクに対し、百合さんは笑っていた。

「そうか。私も同じような経験あるよ。商品券の換金がバレた後に飲みまくった」

『酒で流せる問題じゃないでしょ』

「それで? 次が…、『同窓会に行く』…達成済か」

『あー、辞めてください。次に行きましょう』

 中学、高校と虐められて過ごしたボクだったが、大人になって何かが変わればいい…と思い、中学の同窓会に参加したわけだが、結果は散々だった。ほとんどの人間がボクを覚えておらず、憶えられていたとしても、昔みたいに小ばかにされた。みんな結婚したり、良い大学を出たりして、惨めにな気持ちにならなかった。

「はいはい」

 百合さんは次の項目を読み上げた。

「旅行に行く…」

『未達成ですね。そんな金は何処にもありませんでした』

「美味しいご飯を食べに行く。これも未達成だ」

『外に出ることが億劫で、できませんでした。一応、マクドナルドでバーガーを爆買いしたのですが、これを美味しいご飯とするのはどうかと思いまして…』

 別にマクドナルドが不味いというわけではなく、こういうところに書く「美味しいご飯」というやつは、もう少し高級というか、普段滅多に食べられないものなのではないか? と思ったのだ。

「それで、次が…、東京の遊園地に行く」

『未達成です。前述したとおり、金がありません』

「それで? 次が…、友達を作るか」

 百合さんはちらりとボクを見た後、息を吐いた。

「当然のように未達成。お前、大学に通ってるんだろう?」

『無理でしたねえ。ほんと無理でした。あんなチャラチャラした集団の中に入っていって馴染める自信がありません。そもそも、金がないので、遊びに行くことだってできないし』

「金がないかあ…」

 それからも百合さんは、ノートに書かれていた「死ぬまでにやりたいこと」を読み上げていったが、最初の三つ以外、すべてが「未達成」で終わっていた。未達成のことの詳細を書くわけにもいかず、ページをめくると、そこには白紙が広がっている。

「趣味を見つけることも、本を買いあさって読みまくることも、好きなバンドを見つけることも、温泉に行くことも、二郎系ラーメン食べることも、キャンプをすることも、車の免許を取ることも、何もかも未達成」

 ノートを閉じた百合さんは、憐れむような目をボクに向け、膝に肘を突いた。

「これ、死ぬまでにやりたいことリストだよな? こんなに未達成で良いのか?」

『未達成だから、死ぬんですよ』

 羞恥心が消え、吹っ切れたボクは、笑ってそう言った。

 言葉の綾というか、「死ぬまでにやりたいことリスト」などと、本当はこう書くつもりは無かった。これはどちらかと言えば、「達成できなければ死ぬリスト」だった。

 自分の手を覗き込む。

『最初に死にたい…と思った時、自問自答したんです。本当にボクは、死んでもいい人間なのか? って』

「…というと?」

『ほら、ボクが死にたいと思うのは、一時の気の迷いであって、もしかしたらボクは、誰かにとってかけがえのない存在かもしれない…って思ったんです。もしかしたら、何かこの世界に影響を与える力を持った存在かもしれない…って』

 顔を上げ、百合さんが持っているノートに視線を移した。

『だから、そのノートを作りました。やりたいことを書いていって、もし達成できなければ死のう…って。その結果は、書いてある通りです』

 達成できたのは三つのみ。しかも、どれも碌な結果を得ることができなかった。

 自分が何も成し遂げることのできない人間だとわかった後は早かった。二か月を掛けて部屋のものの殆どを処分し、そして昨日、実行に移したのだ。

『死ぬまでにやりたいことリスト…じゃない。達成できなければ死ぬリスト』

 首を横に振る。

『いや…、ボクは生きる理由じゃなくて、死ぬ理由が欲しかったんだ。だからそれは…、死にたいから達成しないリスト…なのかな?』

 多分ボクは、端からここに書かれていることを達成するつもりは無かったのだろう。

『もういいでしょう? 気分悪いので、リュックに戻すか、捨ててください』

 そう言ったのだが、百合さんは何を思ったのか、またノートを開いて読み始めた。最初の一ページしか埋まっておらず、その後は白紙のノートを、じっくりと眺めてみたり、パラパラと捲ってみたり、上や下から見てみたり。

『何がしたいんですか?』

 咎めるように言うと、百合さんはぴたりと固まり、一ページ目の、最後を指した。

「ここ、達成したいこと」

『ん?』

「恋人を作るってさ」

 そこには、ボクの拙い字で「恋人を作る」と書いてあった。

『あ、ああ…』

「こいつは未達成とも、達成とも書かれてない。どっちなんだ?」

『あ、ええと…』

 見栄を張って、「達成しましたよ! 可愛い彼女がいるんです!」という言葉が喉の奥まで出かかったが、嘘はいけないと思い飲み込む。

 未達成です。というよりも先に、百合さんは鼻で笑った。

「まあ、無理だろうな」

『ぐっ!』

 今までの未達成事項は、自虐として笑い飛ばすことができたが、ボクの恋愛事情について指摘されると、なんだか頬が熱くなった。

 ボクは坂道を転がるみたいにして言う。

『それも未達成に決まっているでしょう? 誰がボクのことを好きになってくれるって言うんですか!』

 ああ、嫌なことを思い出す。そう言えば、中学の虐めのきっかけは、クラスの女子に告白したことだったな…。

『ボクは生涯誰からも愛されずに、一人孤独で死んでいくんですよ!』

「まあ確かに、卑屈になっていると好かれるものも好かれないか」

 百合さんは、そんなことはない…とは言わなかった。

 落ち着いている百合さんとは対照的に、ボクは段々とヒートアップしていく。

『そりゃあね、ボクだって恋人の一人や二人は欲しいですよ?』

「いや、二人いたらダメだろ」

『でももう無理なんですよ! 人と付き合うのは! 何だと? ボクの努力不足だって?』

「言ってないぞ!」

『まあ認めますよ? 確かに、人に好かれたかったらボクの方から歩み寄らなくちゃいけない! いつまでも受け身の姿勢だったら、恋人を作りたいだなんて夢は夢のまた夢だ。でもね、どうやって歩み寄れって言うんですか?』

 そう百合さんに問いかけると、彼女は一応考えてくれた。

「そりゃあ…、好きな話題を吹っ掛けたり、食事に誘ったり…」

『んなこたわかってるんですよ。言うは易し!』

 誰だって、足を世界最速で回転させれば、百メートルで世界記録を出すことが出来るし、死ぬ気で勉強すれば東大だって合格する。

『それをするのに、ボクの心がどれだけ擦り切れることか! 人に嫌な思いをさせたくない! 人を失望させたくない! そう思えば思うほど、胸が痛くなるんです』

「…………」

 百合さんの口が半分開いていた。興味がない…と言うよりも、呆れているような間抜けな顔だった。

「でもよ葵。それに耐えないと、人からは愛されないぞ?」

『人から愛される人は大抵、その程度のことで心が擦り切れないんですよ』

 耳に胼胝ができるほど聞いてきた進言を、ボクは一蹴した。

『失望されるのが怖くて人付き合えない…って言っている人に対して、恐怖に耐えなくちゃならないって言うのは、カニアレルギ―持ってる人に対して、頑張って食わないと蟹の旨さを感じられないぞ…って言ってるようなものですからね!』

「そうなのかなあ?」

『そうなんです!』

 ボクは腰に手を当てて胸を張った。

『ボクの人間アレルギーは、幼少期の頃に発症したものだ。三つ子の魂百までも! 今更これを矯正できないでしょう?』

 声も張って言ったボクだったが、風船を針で突いたみたいに、一瞬にして肩を落とした。

『まあ、とういわけで、ボクには恋人がいません。これからも作る予定はありません』

「うーん…」

『もういいんです』

 百合さんが何か惜しいような顔をしていたが、ボクは首を横に振った。

『ボクはきっと、あの事故の後生き残っていたとしても、多分自殺を決行するんだと思う』

 そう、声を低くしながら、ぽつり…と言った。

 その時だった。


「じゃあ、私にくれる? この身体」

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