第39話

『ええ?』

 ボクは直ぐに否定した。

『いやでも、ボクが見た時、彼女は黒髪でした』

 死体の髪は茶色だった。

 百合さんはボクの否定を抱きしめるように、うんうん…と頷く。

「そこが、この件のミソだ。葵よ、お前がその黒髪の女を見たのは、激突した後だったんだろう?」

『ええ、まあ』

 頷くと、当時の痛みが蘇るようだった。

「私はね、激突したことにより、入れ替わったんじゃないか? って思うんだよ。二人の魂が」

『…………』

 頭の中で、百合さんの言ったことを文字に起こす。

 激突したことにより、入れ替わった。入れ替わった? 何が? 魂が…。

 それが、百合さんが言っていた「荒唐無稽な推理」であることに気づくのに、三秒とかからなかった。

『い、入れ替わった?』

 あまりにも突拍子が無さ過ぎて、馬鹿にすることが出来ず、ただただ困惑する。

『あんたまさか、ぶつかった拍子に、ボクの魂が女の肉体に入って、女の魂がボクの肉体に入ったって…、そう言いたいんですか?』

「何度も言っているじゃないか」

 百合さんは羞恥心なんて皆無な様子で頷いた。

「ありえない話じゃないだろう? 幽霊の葵が私の目の前にいるんだから、魂は実在する。そして肉体と結びつくことで、その身体を動かしているんだ」

 説に信ぴょう性を持たせるように、百合さんは聞いてきた。

「葵よ、お前は昨夜、どんな格好をしていた?」

『どんな格好って、髪は下ろして、ジーパン履いて、あと、ウインドブレーカーを上に羽織っていました』

「じゃあ、交差点でぶつかった女は?」

 つまり、激突した後に見た女の格好。

『ええと、黒髪で、下ろしていて、ジーパン履いて、上に、ウインドブレーカーを…』

「うん」

 百合さんは力強く頷く。

「葵が見たのは、自分の姿だったんだ。ただし、中には死んだ女の魂が入っていた」

『…なるほど』

 そういうことにしたボクは、その後について考えを巡らせることにした。

 二番交差点で可楽涼音とぶつかり、魂が入れ替わったことにより、ボクは可楽涼音になった。それに気づかないまま右折し、三番交差点へと向かい、そこで撥ねられた。

『ボクはてっきり、自分は三番交差点で撥ねられたのだと思っていましたが、傍から見れば、死んでいたのは女性だった…ということですか』

「ああ、それとほぼ同じ時間に、一番交差点で私が、葵を撥ねる。もちろん、中身はあの女だな」

『いや、でもあなた、三番通りを通っていたって…』

「そう思っていたんだがな」

 百合さんは肩を竦める。

「あの大家の話を聞いて、多分、私の勘違いだったんだと気づいた」

『………』

 心当たりがあったので、ボクは口を噤んだ。

 ボクらの聞き込みによって得られた証言によると、一番交差点ではブレーキが踏まれたのに対し、三番交差点ではブレーキが踏まれていない。百合さんはブレーキを踏んだ…と言った。つまり、彼女は一番通りを走っていたのだ。それなのに、どうして彼女が「私は三番通りを走っていた」なんてことが言えたのか…。

 それはおそらく、大家さんのせいだ。

『大家さんは、この近くにあるアパートを多く所有しています。二番通りにあるボクのアパートが、バーニーハウス。一番通りにあるアパートの名前が一刻荘です』

「そして、さっき聞いたんだが、三番通りにも新しく廃墟のアパートを買ったらしいな」

『ええ。名前は、一刻荘B棟。改修予定の看板も既に立てているそうで』

 そこまで言った百合さんとボクは、静かに見つめ合った。

 下唇を舐めた後、百合さんが言う。

「碌々が指定した場所は、一刻荘のB棟」

『でもあなたは、一刻荘の前で待機をしていた…と』

 土地勘が疎い上に、時間は夜。しかも、同じ名前の建物がすぐ近くに存在していれば、勘違いが起こるのは必然だったことだろう。

 これにより、当時の位置関係がはっきりとした。

 一番交差点で撥ねられたのはボク。ただし、中身は可楽涼音。そして、撥ねたのは百合さんだ。そして、三番交差点で撥ねられたのが可楽涼音。ただし、中身はボク。撥ねたのは…、おそらく…。

 脳裏に犯人の顔を思い浮かべていると、百合さんが言った。

「さてここからだ。一番交差点にて私はブレーキを踏んだ。対して三番交差点では踏まれていない。ブレーキを踏むのと踏まないのとじゃ、事故の結果は変わってくるだろう? ぶつかる勢いが違うわけだからな」

『ええ、実際、ブレーキを踏まずに撥ねられた可楽涼音(ボク)は即死だったことでしょう』

「うん」

 百合さんは、自分の側頭部をとんとん…と叩き、脳を刺激した。

「もしかしたら、私が起こした事故は、対象を死に至らしめていないんじゃないか? って思うんだよ」

 百合さんはてっきり、ボク(可楽涼音)を轢き殺したのだと思い込んでいた。でも、ブレーキが間に合っていたのならば、ボクはきっと、死んでいない可能性がある。

「これは都合のいい妄想じゃないよ。ちゃんと根拠はある」

 そう言って、百合さんは空気中に現場の地図を描いた。

「私は、一番交差点で葵(可楽涼音)を轢いた。そして、殺してしまったのだと思った。葵が倒れているのを放って逃げ出した。でも、途中で思い直し、現場に戻った。でもそこには、誰もいなかったんだ」

『そうですね。ボクは死んでいなかった…ってことですね。しかも、その場から立ち去れるほどの軽傷だった』

「普通はその時点で、『ああ、あの人は無事だったんだな』って胸を撫で下ろすところだが、如何せん私は錯乱している。道を間違えたのだと思い、奥へ奥へと進んでいくわけだ」

 その時にはもう、ボクを轢き殺した者は逃げている。

『二番交差点を通り過ぎ…』

「そして、三番交差点で可楽涼音(葵)の死体を見つけたってわけだな」

 そこまで言った百合さんは、吹っ切れたかのように、肩を震わせて、あっはっは…と笑った。

「笑えてくるよ。私はてっきり人を殺したのだと思っていたけど、実際には殺していなかった」

『よかった…』

 のかなあ? 百合さんが言う「ぶつかった拍子に二人の魂が入れ替わった」という推理が正しければの話じゃないか。

「葵もそうだよ。お前も撥ね殺されたのだと思っていたらしいが、実際に撥ね殺されたのは、女…、可楽涼音の方だった…ってことだ」

『ぬか喜びはできませんよ』

「そうじゃないと話は繋がらないんだよ」

 推理を続けるべく、百合さんはボクを見ると、あることを聞いてきた。

「葵、お前が撥ねられて、次に目が覚めたのは何時のことだ?」

『え、何時って…』

 記憶を辿る。

『深夜の十二時』

「そうだな、事故から二時間後のことだ」

 なんだ、憶えていたのか。わざわざ人の記憶を試すようなことをしなくてもいいのに。

「その時すでに、私は事故現場から遠く離れていた。回収したのはあくまで死体。幽霊になった葵までは回収していない。でもお前は、私の車の荷台に出現した」

『ああ…なるほど』

 百合さんの言わんとしていることを理解し、ボクは頷くと、言葉を紡いだ。

『幽霊として覚醒したその時が、魂が肉体から離れた瞬間だった』

「そうだ。そしてその後、私らに、死体をすり替える隙は無かった。最初からなんだよ。最初から、私はあの女の死体を葵のものだと勘違いして運んでいたんだ」

『なるほど…』

 幽霊及び、肉体と結びつく魂の存在を加味するならば、百合さんの推理はなかなかいい線をいっていると思う。いや多分、これで正解だ。でも、すべてが明かされたわけではない。ボクたちはまだ、碌々圭介を殺した犯人と、その理由を明らかにしなければならなかった。

「碌々圭介についてだが…、最初に言った通りだな」

 ボクの心を読んだように、百合さんが言った。

「最初に言った通り、犯人はお前だ。葵」

『ボク…ですか』

 意地悪な言い方に、ドキリとするとともに、むっとした。

『つまり、ボクの肉体に入った可楽涼音が殺したってことでしょう?』

「そう言うことだな。事故から生還した葵(可楽涼音)は、肉体が持っていた財布から、住んでいる場所を特定した。そして、鍵を使って、二〇三号室に帰宅。窓を伝い、隣の二〇二号室に侵入したってわけだ。小柄な肉体だからできることだな」

『そして、待ち伏せをして、やってきた碌々圭介を殺害。ボクらがその死体に気を取られている隙に、自分の死体を回収した…と』

 ボクの姿かたちをした女が、ナイフを持って碌々圭介を殺しているところを想像したボクは、こみ上げる不快感を隠さず顔を顰めた。

 ボクが殺したわけではない。けれど、ボクの肉体が殺した。

『夫が自家用車で不倫していたのを知らされた時の気分ですよ。妻はその後どういう気持ちでハンドルを握ればいいんだって…』

「シート全部買い替えないとな」

 これってどうなんだ? もし犯人を捕まえたとして、ボクの肉体が返ってきたとして、罪に問われるのはボクなのだろうか?まあ、嫌なことは後回しにして考えるとして…。

『でもどうしてでしょうか? 女はどうして、碌々圭介を殺す必要があったのでしょうか?』

「そこなんだよな」

 百合さんは眉間に皺を寄せて、頭を掻いた。

「その辺りがまだわからない」

 それから、ショルダーバッグから女の財布と鍵を取り出す。

「だけどまあ、こいつが関係しているってことは、確かだな」

『わざわざ死体を盗み返したわけですからね。死体が持っていたもの、特にその鍵に何かがあるってことは間違いないですね』

 ここで話が行き詰まるような感覚がしたので、ボクは肩の力を抜いた。

『結局、ボクの身体は逃走中。答え合わせはできませんね』

「そうだな。結局、荒唐無稽な推理止まりだ」

 頭を使いすぎて疲れたのか、百合さんは側頭部をトントン…と叩いて、畳の上に腰を下ろした。

「いずれにせよ、犯人はまた仕掛けてくる。それまで気を抜こうじゃないか」

 それから彼女は、部屋を見渡した。

「にしても葵、なんだ? この殺風景な部屋は」

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