第36話
てっきり、後ろに誰かいるのかと思い振り返ったが、誰もいなかった。
「ほら、アオくんのことだよ」
そう言った大家さんは、ボクの方に歩み寄り、手を伸ばした。
大家さんのしなやかな指がボクの胸に触れ、そして、すり抜ける。
「なんか、幽霊になってるから…。どうしたのかなあって…」
全身が凍り付くような感覚。
『え、大家さん、ボクのことが見えているんですか?』
「見えてるけど?」
大家さんは、何を当たり前のことを…と言いたげに、首を傾げた。
ボクは百合さんの方を見る。彼女は顔を青くして、ボクと大家さんを交互に見ていた。
「え、あんた、霊感あるの?」
「あるよ。アオくんには昨日言ったね」
『言ってましたね…』
そう言えば昨日、人身事故を目の当たりにしてから幽霊が見えるようになった…と言っていた気がする。
ただ、汗蔵さんと長谷川さんには見えていないようで、二人は怪訝な顔をしていた。
「大家さん、何をやっているんだ? 百合の葵はここにいないだろう」
と、汗蔵さん。
「そうよ。葵ちゃんは出かけたっきり帰ってきていなくて…」
と、長谷川さん。
長谷川さんの発言に、百合さんが眉間に皺を寄せた。
「ん? あんた…今」
言いかけるよりも先に、大家さんが笑って言った。
「ああ、ここにね、幽霊のアオくんがいるの。ほら、ここ。見えない?」
ボクの胸を、その綺麗な手で刺したり、抜いたり、刺したり、抜いたり。
二人は首を横に振った。
「見えないな」
「見えないわよ」
「そっかあ」
ボクが死んでしまった…ってことに対し、大家さんは驚きも、悲しみもしていなかった。まるで、コンビニに向かうことを告げるかのように、ボクに聞いた。
「じゃあ、何処で死んだのか教えてよ。ついでに死体の回収に行くから」
『ああ、その…』
押し切られるようにして、ボクは答えた。
『この近くの、交差点で…、車に、撥ねられて』
百合さんに撥ねられた…とは言わなかった。
「あらまあ」
大家さんが口に手を当てて驚く。
「もしかして、放置されたまま? じゃあ、直ぐに救急車を呼んで…」
『ああ、待ってください。ボクの死体は、昨日の時点で、既に誰かに回収されていて…』
通報しようとする大家さんを、ボクは慌てて止める。
すると、スマホを耳に当てかけていた大家さんが、怪訝な顔をして固まった。
「昨日?」
『ええ、昨日の時点で…、なので、通報するなら、警察が良いかと…』
「はあ?」
大家さんの眉間に皺が寄る。
「何言ってるの?」
『いやだから、ボクの死体は、既に誰かの手に渡っていて…』
「でも、アオくん、ついさっき、出てかなかった?」
『は?』
「は?」
大家さんの言葉に、ボクと百合さんは、ほぼ同時に困惑の声を発した。
『ボクが…』
「ついさっき、出て行った?」
意味が全く分からない。ボクは既に死んでいるのだぞ? どうして「ついさっき」出て行くことが出来るというのか。
『いやいやいや、人違いでしょ』
その線を指摘したのだが、大家さんは首を横に振った。
「遠目からだったけど、でも、あれはアオくんだったわ」
「でも、あんたらさっき、怪しい人間は出入りしていないって…!」
百合さんがそう言った後、はっとする。
汗蔵さん、長谷川さん、そして、大家さんが同時に首を横に振った。
「アオくんは怪しい人間じゃないから」
「そうね。あの子、凄く良い子だから…、殺人の件には関わりが無いでしょう?」
「そうだな、百合の葵は関係ないだろう」
なるほど、ボクは住民からの信頼を獲得していたから、「怪しい人間」にカウントされていなかったのか。
嬉しいと思う一方、やはり困惑する。死んだはずのボクが、どうして彼らの視界に納まったのかの説明がなかった。
「なあ、ちょっと…」
百合さんが手を挙げる。
「ちょっと、葵の部屋を見てもいいか?」
「ええ、別にいいけど…」
大家さんがボクを見る。
ボクも頷いた。
『いいですよ。ちょっと確認しましょう』
二人の了承を得た百合さんは、次の瞬間走り出し、ぼろぼろの階段を駆け上がった。
ボクが先行し、自室の扉の前に立つ。ドアノブに念を込め、その向こうにあるサムターンキーを捻り、開錠した。
百合さんが追い付き、ドアノブを掴む。そして、捻って開けた。
その先に広がっていたのは、当然、ボクの部屋だ。自殺を前に家具やら本やら、食器やら、何もかも捨てて、入居前のようにスッキリとした部屋。とは言え、居間の入り口には、自殺道具を詰め込んだリュックサックが放置されてある。
百合さんは靴を脱がずに部屋に上がると、窓に駆け寄った。
ガラスが割れんとする勢いで、窓を開ける。
百合さんが顔を出した瞬間、ゴンッ! と、向かいのアパートの外壁に激突した。
「いてて…」
百合さんは額を抑えて後ずさる。
「おい、なんでこのアパートは、隣の建物とこんなにも距離が近いんだ」
『なんか、大昔に、色々もめたみたいですよ』
「そうか…」
百合さんは頷くと、再び窓の外に顔を出す。そして、首を捻って、隣…つまり、可楽涼音の部屋の方を見た。
「………」
『どうしたんですか?』
「…いや」
百合さんは曖昧な返事をして、顔を戻す。
その顔はなんだか青ざめていて、髪の生え際からは汗が滲みだしていた。額を伝ったそれは、百合さんの目に入ったが、彼女は瞬きをするのも忘れてボクを見続ける。
なんだか恥ずかしくなったボクは、視線を外すとともに後退った。
『な、なんですか? 人の顔じろじろ見ちゃって…』
照れ隠しで、不機嫌な感じを出して言うと、百合さんは唾を飲み込み、飴細工にでも触れるみたいに、恐る恐る言葉を紡いだ。
「一つ、聞いてもいいか?」
『な、何ですか?』
息を吸い込んだ百合さんは、ボクに聞く。
「お前、もしかして、女の子か?」
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