第35話

 次にどうするか? と考えた時、百合さんとボクは、迷わず、ボク、及び可楽涼音のアパート…。つまり、碌々圭介が死んでいる場所へと戻ることにした。

 碌々圭介の死体に驚愕している間に、百合さんの車は盗まれた。これを犯人の仕業と考えるならば、目的は十中八九女性の死体の回収だ。しかし、まんまと死体を回収された今、これでボクらと犯人の繫がりが途切れたわけではない。

「こいつが私の手にあるのが幸いだな」

 歩きながら、百合さんはショルダーバッグから財布と鍵を取り出した。可楽涼音のジャケットのポケットに入っていたものである。重要なのは鍵の方。もしこれが、何か大切な金庫のものであるとしたならば…。

「当てが外れた犯人は、確実にこいつを取り戻しにやってくる。もう少し様子を見てみよう」

 歩いて、歩いて、アパートの前に辿り着く。

 だがその時、百合さんが立ち止まり、「あ…」と、変な声をあげた。

 それもそのはずで、アパートの前には、人が集まっていたのだ。

 合計三人。一人は、作業着を着た二〇三号室の汗蔵さん。もう一人は、仕事用のドレスを着た長谷川さん。そして、エプロン姿の大家さん。合計三人が、輪になって集まっていて、何やら神妙な顔で話し込んでいた。

 大家さんの姿があることに、ボクはドキリとする。

『あ、大家さん…』

「あ? 葵の大家さん?」

 百合さんが声を洩らす。

 その瞬間、話し合っていた三人が一斉にこちらを向いた。

 そのうちの一人、汗蔵さんが、百合さんの顔を見るなり「ああっ!」と声をあげる。そして、声を張って言った。

「おいねえちゃん! こいつは一体、どういうことだ!」

 汗蔵さんが指さす方を見ると、そこには二〇二号室の扉があった。そう、可楽涼音の部屋だ。そして、その部屋の扉が、開いて風に揺れていた。

「え…」

「さっき、あの部屋を出入りしていただろう! 俺は二〇一号室の人間なんだ! 全部見ていたんだぞ!」

「まじか」

 百合さんは苦虫を噛み潰したような顔をすると、髪をくしゃりと掻いた。

「バレちゃったかあ…」

『まあ、時間の問題でしたね』

 あまり絶望を覚えなかったのは、今までにいろいろなことを経験してきたからだろう。もう何が起こっても動揺しない自信があった。

 そして、いろいろ経験した後の百合さんの判断は早かった。

「くそが」

 悪態をつくと、クマを目の当たりにしたかのように、静かに後ずさる。と思えば、次の瞬間には踵を返し、走って逃げだしていた。

 だが、引き留めるべく大家さんが声をあげた。

「待って! 別にあなたを疑っているわけじゃないから!」

 その言葉に、一瞬の迷いが生じた百合さんは、一秒ほど固まった。

 だが、また走り出す。

『待って、百合さん!』

 今度は、ボクが彼女を呼び止めた。

『百合さん、大家さんは良い人なので、話を聞いてみましょう』

「ふっ、ぐう…」

 そこで百合さんの脚が完全に固まる。力が抜けた彼女は、塀に寄り掛かりつつ止まった。

 すかさず大家さんが走って来て、百合さんの肩を掴む。

「怖くて逃げただけなんでしょう? 警察に話せばきっとわかってくれるはずだから」

「くそ…」

 観念した百合さんは、渋々、塀から手を剥がし、大家さんの方を振り返った。

「ええと、あなたはアパートの管理人さんで?」

「ええ、そう」

 大家さんは笑って頷いた。

 その表情に、百合さんは若干警戒を解いて聞いた。

「見たんですか? 二〇二号室の死体」

「見たわ。二〇一号室の汗蔵さんから連絡を受けて、彼と、一〇三号室の長谷川さんと一緒に確認をしたの」

 そう言った大家さんは、遅れて走ってきたツナギ姿の男を「彼が汗蔵さん」、派手な格好をした女を「彼女が長谷川さんよ」と紹介した。

 それから大家さんは、子どもを相手にするかのように、百合さんに聞いた。

「あなたは? どうして、あの部屋を訪れたの? それと、だあれ?」

「ええと…」

 百合さんの視線が、ちらっとボクを見る。下手な嘘はつけないけれど、悩む時間を与えると怪しまれる。

『ええと、知り合いです』

「知り合いを尋ねました」

 二秒もの思考の末、ありきたりな言葉が飛び出した。けれど、それで大家さんが怪しむようなことはなく、彼女は「そうなの」と頷くだけだった。

「おい、ねえちゃん」

 四十代くらいの汗蔵さんが百合さんの前に立つ。

「驚かせて悪かったな。別に、お前が犯人だとは思ってねえよ。話を聞きたいだけだ」

「犯人だって思っていない理由は?」

 汗蔵さんを前に、百合さんはまた警戒したような顔をし、足を半歩下げた。だが、逃がすまい…とでも言うように、三十歳くらいの長谷川さんが彼女の背後に立ち、退路を塞ぐ。

 百合さんは舌打ちし、もう一度聞いた。

「ええと、汗蔵さんだっけ? あんた、なんでそんなことが言える。二〇二号室の男を殺したのは、私かもしれないだろう?」

「殺したのか?」

「殺してない」

 はっきりとそう言った。

 意外にも、三人はそれを信じているようだった。

 大家さんが百合さんを宥めるように言った。

「汗蔵さんが言うには、あそこで死んでいた人が部屋を訪れたのは、二時間前のことだって」

「二時間前?」

 百合さんが視線を向けると、汗蔵さんは頷いた。

「二時間前に、隣から変な音がしてな。扉を少し開けて覗き見ると、碌々が鍵穴に針金挿してピッキングしていたんだ」

 その言葉に、百合さんの口が開く。

「え、ピッキング? いやそれよりも…、あんた、碌々圭介を知ってるのか?」

 その質問に、汗蔵さんと、背後にいた長谷川さんが、うんうん…と頷いた。

「知ってるさ。借金取りの腰巾着。半年前までは、俺のところによく取り立てに来ていたからな。長谷川のねえちゃんも、あいつの組から金を借りていただろう」

 急に話を振られるものだから、長谷川さんは赤い唇を尖らせた。

「やめてよ。私はあんたほど借りて無いし」

「どうせ身体で払ったんだろうな」

「なにをお」

 長谷川さんが汗蔵さんに食って掛かったことで、危うく話が脱線しそうになる。

 すかさず大家さんが仲裁に入り、話を戻した。

「それで汗蔵さん、その後はどうしたのですか?」

 汗蔵さんが首を横に振る。

「どうしたもこうしたも、関わり合いになりたくないから放っておいたさ。ただし、壁に耳を当てて、隣の様子を確認していたがな」

「そうか。じゃあ、隣から何が聴こえた?」

 そう聞いたのは百合さん。

「怒声さ」

 汗蔵さんは得意げに答えた。

「ピッキングが成功して、碌々圭介は部屋の中に入ったわけだが、そのあとすぐに怒声が聴こえたんだよ。『お前、何者だ!』ってな」

「あ、それ私も聞いた」

 一〇三号室の長谷川さんが嬉々として手を挙げる。

「うちのアパート、ほんと声が通るのよね。おならの音ですら聴こえちゃうもんだから、大家さんには直してくれって言ってるのに」

「家賃二万なんだから我慢しなさい。ってか、早く先月分の家賃を払いなさい」

 大家さんの静かな圧力を遮るようにして、汗蔵さんが話の続きを語った。

「その後な、少し取っ組み合いになるような音がしたんだよ。ドタドタって…。だがすぐに止んだ。そして、『この野郎』ってな、碌々の断末魔が聴こえたんだ。多分、その時に死んだんだろう?」

『…取っ組み合い?』

 何か引っかかるものに気づいたボクは、百合さんの方を見た。彼女もボクを見て、二人同時に頷き合う。

『部屋の中には…』

「既に誰かいたってことか」

 一体誰なんだ?

 どうして、鍵を持っていないのに、あの部屋に入ることができたんだ?

 三人には聴こえないことを良いことに、ボクは百合さんに話しかけた。

『当たり前の話ではありますが、部屋の中にいたのは犯人ですね。ボクと可楽涼音の死体の入れ替わりに関わり、碌々圭介を殺害した。でも、部屋に入るための鍵は百合さんが持っていますよね? どうして部屋に入れたのでしょうか…。元から開いていたのかな?』

「さあ…」

 また後でな…という意味を込めて、百合さんは小声で首を傾げた。それから彼女は、意識を汗蔵さんの方へと向けた。

「二時間前にそのことがあったわけだな。でも、なんでその時に警察に通報しなかった?」

「するもんか」

 顔を顰めた汗蔵さんは即答する。

「警察は嫌いなんだ」

「なんだよそれ」

「もちろん、大家には連絡したぞ?」

「はい、連絡を受けました」

 大家さんが手を挙げる。

「二〇二号室に空き巣が入ったこと、その空き巣の悲鳴が聴こえたことを。本当はすぐに確認しに向かいたかったんだけどね、ちょっと他に用事があってね、少し遅れての到着になっちゃった…」

 てへへ…と舌を出す大家さん。

「用事って、なんだ?」

「ああ、ほら、このアパートの裏に、廃墟のアパートがあるんだけど、あれ私が買ったの。その改修工事の話をね…。管理人室で、工事業者の人らと書類を書いていたの」

 そう言って大家さんは建物の向こう側を指す。

『ああ…、あれのこと』

「ちなみに、名前は『一刻荘 B棟』よ」

 そこでボクはあることに気が付いた。

『大家さんって、色々アパートを持っていたよな…』

 まず挙げられるのが、目の前にあるこのおんぼろアパート。名前は『バーニーハウス』。そして、このアパートの向かいにあるのが、『バーニーハウス B棟』。その裏にあるのが、『一刻荘』だ。そして今回、新しく買ったのが、東側の通りにある廃墟のアパート。新しい名前を『一刻荘 B棟』。そしてこの通りは、百合さんがボクを撥ねた時に通っていた道だ。

『……………』

 ボクは少し考えた後、百合さんに言った。

『百合さん、もしかして…』

「なあ、汗蔵さんよ。あんたは隣の音を注意深く聞いていたらしいが、あの部屋を出入りしていたのは他にいないのか?」

 ボクの声と重なって、百合さんが汗蔵さんに聞いた。

 ボクは慌てて口を噤む。

「それがいないんだよ」

 もう少し悩んでもよかったものを、汗蔵さんは自信に満ちた声でそう言った。

「碌々が殺される前、殺された後、あの部屋を出入りした者はいない。うちは誰かさんの管理が行き届いていないからな、扉を開ける音は直ぐにわかる」

 その言葉に、大家さんが唇を尖らせた。

 百合さんは次の質問をする。

「じゃあ、あの部屋に限らず、このアパートを出入りした怪しい奴はいないのか?」

「いないわ」

 間髪入れず、大家さんが答えた。

「もちろん、住人の出入りはあったわよ? でも、怪しい人はいなかったわ」

「その住人の中に犯人がいるって可能性は」

 むきになったかのように、百合さんが言った。

「部屋の出入りがなくたって、ベランダを伝って、自室から可楽涼音の部屋に移動して…」

「あー、無理無理」

 希望を手繰り寄せるかのような百合さんの推理を、長谷川さんが一蹴する。

 ふんっと鼻を鳴らした彼女は、アパートを顎でしゃくった。

「見たらわかるけど、うちのアパート、ベランダがないの」

「え…」

 驚く百合さんの横で、ボクはこくりこくりと頷く。

「それに、裏にあるアパートと目と鼻の距離しかないから、無理して動こうとしても、普通の人間じゃ挟まって動けなくなるわ」

『そもそも、可楽涼音の隣の部屋に住んでいるのはボクですからね。となると、汗蔵さんの犯行…かもしれませんが、あの体型じゃ無理でしょう…』

 追い打ちをかけるようにそう言うと、百合さんが恨めしそうにボクを見てきた。だが、直ぐに諦めたかのようなため息をつき、言った。

「じゃあ、なんだ? 犯人はまだ部屋に潜伏しているのか?」

「実はね、それも三人で確かめたんだけど、何処にも、誰も隠れていなかったの…」

「…うーん」

 まあ、そうだろうな…って思う。

 犯人は、ボクらが碌々圭介の死体に気を取られている隙に、車を奪って逃げたのだ。もう既に部屋はもぬけの殻だったことだろう。

「とにかく、警察を呼ぶわね」

 大家さんがスマホを取り出してそう言った。

 汗蔵さん、長谷川さんが頷く。

「頼むよ」

「お願いね」

「ああ、そうそう…」

 スマホを耳に当てようとした大家さんだったが、その三秒後に、何か思いだしたかのような声を発した。

 次の瞬間、大家さんのおっとりとした目が向けられる。

 ただし、ボクの方に。

「アオくん、どうしてそんな恰好をしているの?」

『え…?』

 ぎくりとしたボクは固まる。

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