第32話

『………』

 ボクが撥ねられた時の音だな。

「酷い音…というと?」

 何か大きな手掛かりが得られるチャンスを前に、百合さんは平静を装って聞いた。

 女性ははっとして、深呼吸をしてから答える。

「昨日の、十時を回った頃ですかね? 私がお風呂に入っていると、突然外から、ドンッ! って音がしたんです。凄く大きい音でして…、まるで、人が撥ねられたみたいな…」

「それで? 外の様子は、確認したのですか?」

「ああ、それは…」

 百合さんが聞くと、女性は視線を落とし言い淀んだ。そりゃそうか、さっき彼女は「風呂に入っていた」と言ったのだから。

「確認しました。風呂の窓を、少しだけ開けて、音がした方の道路を見ました」

「へえ…」

 百合さんが感心した様な声をあげる。

「何が見えました?」

「それが…、何も見えなかったんです」

『ん?』

 女性の発言に、ボクは眉を潜める。

『何も見えなかった?』

「っていうのは、塀が邪魔をして見えなかったってことか? それとも、音を発したものの正体が何処にも無かったってことか?」

 ボクの言葉を、百合さんが代弁して聞く。

 女性は首を横に振った。

「両方です。最初私は、誰かが車に撥ねられたんだと思ったんです。もしそうだとしたら、警察と救急車を呼ばないといけないと思いまして…。でも、窓を開けてみても、人を撥ねたような車は見えませんでしたし、暗いので誰かが倒れているのかどうかもわかりませんでした」

「その後は?」

「とりあえずお風呂を出て、部屋着に着替えてから、外に出てみました」

「そうしたら?」

「何もありませんでした。車も、人も…。だから、私の勘違いだったのかな? って思ったんです。猫が轢かれただけなのかな? って。ほら、猫って、人の目につかないところで死のうとするでしょう?」

 おそらく、風呂の窓から確認して何も見えなかったのは、丁度百合さんが逃げ出した後だったからだろう。死体が見えなかったのは、塀が邪魔をしたから。そして外に出た時に、道路に何も無かったのは、百合さんがボクの死体を回収した後だったからだ。

 ボクはそう解釈したのだが、次の瞬間、女性の口から放たれた言葉に戦慄することとなる。

「だけどその後、車が走って来て…、私の前に停まったんです」

「ん?」

 百合さんの眉が潜まる。

「それで、どうなった?」

「中から、怖い男の人が下りてきて、私にこう尋ねたんです。『この道で、誰かが何かをやっていなかったか?』って…」

 思いもよらぬ発言に、百合さんがボクの方を振り返る。ボクもまた百合さんを見て、困惑の声をあげた。

『この道で…、誰かが…』

「何かを…やっていなかったか?」

 一斉に、女性の方を振り返る。

「それで、あなたは何て答えたんだ?」

「いや…、『誰か』とか、『何か』と聞かれましても意味が分からないので、具体的なことを尋ねたら、『もういい』と言って車に戻り、走って行ってしまいました…」

「そうか…」

 顎に手をやり、視線を落とす百合さん。顔を上げた彼女は、女性に声を掛けた者の詳細を訪ねた。

「それは、どんな奴だった? どんな車に乗っていた」

「ええと…」

 頬に手を当てて、記憶を辿る女性。

「若い男の人でした。ジーパンに白いTシャツを着て、その上に、黒いもこもこしたやつ…、ああ、そうだ、フリースを羽織っていましたね。人相はとても悪くて、眉毛を薄く剃っていました…」

「ん…?」

 何か心当たりがあるような顔をした百合さんは、顎に手をやり、首を傾げた…。

「それで? 車は」

「バンです。黒色のバンでした」

『え、バン?』

 それって、百合さんが乗っていた車と同じものではないのか?

 そう思い、百合さんの方を振り返ると、彼女は視線で「後で話す」と訴えかけてきた。

 ボクは口を噤む。

「なるほど…」

 再び視線を落とす百合さん。「うーん…」と唸り、一秒、二秒、三秒と考え込んだ後、ぽつりと言った。

「碌々圭介だな」

『え…』

 思いもよらぬ男の名前が出たことに、ボクは声を裏返した。

『またそいつですか?』

「昨日のあいつはそんな恰好をしていたし、眉も剃っていた…。葵も見ただろう?」

 何故その名前がここで出る? しかも、彼の言った言葉から察するに、まるで百合さんがボクを轢き殺したことを知っていたかのような…。

 女性はその男について知らないので、不安そうな顔で聞いた。

「あの、誰ですか? そのろくでなしって人は…」

「碌々圭介だな。ろくでなしなのは確かだよ」

 百合さんは笑って言うと、宥めるように女性の肩を叩いた。

「悪いところに入ってる奴だから、関わらなくて正解だったな」

 悪いところ…。それを聞いて何を思ったのか、女性の頬がピクリとした。

 百合さんは半歩下がる。そして、女性に笑いかけた。

「良い話を聞かせてもらった。実はね、私も、昨日の夜に聞いた謎の音について調べていたんだ…。参考になるよ」

 そう言って、半ば強引に話を終わらせた。

「じゃあ、また」

 怪しまれないよう爽やかにそう言った百合さんが歩き出す。だが、それを女性が引き留めた。

「待ってください。あなたも昨日の音を聞いたのですか?」

「ん? まあ…、うん」

 正確に言えば、その音を発したのは百合さん本人だ。

 歯切れ悪く頷いた百合さんに、女性は暗闇を前にしたような顔をして、恐る恐る聞いた。

「あの…、ブレーキ音は、聴きましたか?」

「ん? ブレーキ音?」

「はい、ブレーキ音です。実は、私、あなたに聞く前に、この近くに住む友人に聞いてみたんです。昨日変な音は聞かなかったか? って…」

「あ、はあ」

「そうしたら、聞いたって。強烈なブレーキ音を」

 女性はものすごく真剣な顔をして言ったのだが、ボクや百合さんとしてはぴんと来ない話である。

「いや、普通人を轢きそうになったら、ブレーキ踏むんじゃないか? 実際…私は」

 言いかけて、口を噤む。きっと、「実際私はブレーキを踏んだ」と言いたかったのだろう。

 女性は一瞬、頭頂部に「?」を浮かべたが、気を取り直して続けた。

「でも、私が聞いたのは衝撃音だけで、ブレーキ音なんてものは…」

「は?」

 ブレーキ音を聴いていない?

「でも、私の友人はブレーキ音を聞いたって…」

「ん?」

 ますます意味が分からないような顔をする百合さん。

「その後の衝撃音は?」

「それが…聴いていないそうなのです」

「どういうことだ?」

 百合さんがそう言ってボクの方を見る。ボクも訳が分からなくて首を横に振った。

『この女性は、衝撃音を聞いただけで、ブレーキ音を聴いたわけではない。でも、女性が訪ねた友人さんは、ブレーキ音を聴いたけれど、衝撃音を聴いたわけではない。対して』

 だけど、百合さんはこの道でボクを撥ねている。そしてその時、ブレーキを踏んだはずだ。うん、彼女の表情から察するにそう言うことだろう。でも、その音を聴いた人間と聴いていない人間がいるらしい。

 百合さんは「ほら…」と言って、持論を述べた。

「単に、音の響き方の問題じゃないのか? ブレーキ音は周波数が高いけど、衝撃音は低い…というか、鈍いというか…。あと、家の中にいたから、聴こえ方が違ったみたいな…」

「そうなんですかねえ…」

 確信を持っている…というわけじゃないらしく、女性は曖昧な表情を浮かべて、頬を掻いた。

「でも、私が聴いたのは、とにかく酷い音だったんです。もし本当に人が轢かれていたとしたら、『これはもう助からないだろう…』って感じの…。だから、その、ブレーキ音を聴いていれば、あそこまで酷い衝撃音は無かったんじゃないか? って」

「即死レベルの、酷い音ってわけか」

 十秒ほど思案した後、百合さんはなぞるような口調で言った。

「私が聴いたのは、衝撃音だけだよ」

 これ以上話をややこしくしないために、女性の証言に合わせた言葉だった。

 それから、百合さんはショルダーバッグのポケットから手帳を取り出し、メモの欄に、自分のスマホの電話番号を書き記した。落丁を恐れずにそいつを破ると、女性に渡す。

「また、何か思いだしたらここに連絡をしておくれ。思い出さなかったら捨てるんだ」

「あ、はあ…」

「じゃあ、また」

 そう言うと、今度こそ女性から離れた。

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