第六章『殺人に関する一石』
第33話
女性から離れたボクらは、交差点の角にあった狭い公園に入った。休日だというのに家族連れはいない。剪定のトラックが一台停まっているだけだ。
公衆トイレの横に設置された自販機で缶コーヒーを買って戻った百合さんは、改めて話の整理を始める。
「ますます意味が分からなくなったな…」
顔をくしゃっと歪めて、頭を掻く。
「さっきの女性が聞いたもの、見たものは、概ね正しいな。私は葵…お前を撥ねた。その時に衝撃音がしているはずだ」
『ええ、ボクは百合さんに撥ねられた』
「女性が風呂の中で聴いたのはその音だな」
『でも、窓の外を見ると、何も無かった』
「その時にはもう、私はその場から逃げ出している」
『女性がお風呂から出て、服を着替えている間に、思い直した百合さんが現場に戻り、ボクの死体を回収した』
「そのすぐ後に、女性は家から道路に出た」
『百合さんもボクの死体も消えた後だった』
そうだ。ここまでは話の辻褄が合っている…はずだった。
「問題はその後だな」
百合さんは、缶コーヒーのプルタブを引きながら、苦悶に満ちた声で言った。
「まず、その場に現れたのが、恐らく碌々圭介。彼はまるで事故のことを知っているかのように、女性にあの場で起こったことを聞いた…」
『どうして彼はそんなことを…』
「知らん」
投げやりな言葉。
「更に、女性はブレーキ音を聴いていない。とも思えば、同じく事故の音を聴いたとされる友人は、ブレーキ音を聴いているらしい。この違いはなんだ? 私が言った、音の響き方で説明できるものなのか?」
『百合さんはどうなんですか? ブレーキ、踏んだんですか?』
「踏んだに決まってるだろう」
犯行当時錯乱していた…と言った百合さんだったが、そこはハッキリと言った。
「そもそも、免許持ってる人間なら、踏むものじゃないか? 例え激突した後でも、反射的に。肉体に動作が刻み込まれてるんだよ」
自信に満ちた言い方に、ボクは顔を顰める。
『踏んだとしたら、やっぱりブレーキ音は鳴りますね』
「だから、さっきの女性が聞いていないとおかしいんだ。事故現場の角の家に住んでいて、その音が聴こえないことなんてあるか? 衝撃音だけって…、私はそんなお粗末な運転してないからな」
『女性の言っていた、ブレーキ音を聞いたって言う友人の話も気になりますね。一体どこに住んでいるんでしょうか?』
「近くに住んでるって言ってたしなあ…」
百合さんは窓の外にちらりと視線をやった。三台しか停められない駐車場の端には、トラックが一台。丁度、剪定のおじさんが歩いてきて、抱えていた脚立を載せているところだった。
視線を戻した百合さんが、ため息をつく。
「近所の人間に片っ端から話聞いてみるしかないかな? 何もあの女性だけが音を聴いたってわけじゃないだろう」
コーヒーを飲み干した百合さんは、ゴミ箱に捨てるべく、歩いて行こうとした。
その瞬間、あることに気づき「あ…」と声をあげる。首がねじ切れんばかりの勢いで振り返った彼女は、唾を散らしながら言った。
「そう言う葵はどうなんだよ! お前ブレーキ音を聴いているのか!」
『え…? ああ…』
確かに。そういうボクはどうなのだろう? と、記憶を辿ってみた。
確かあの時、交差点を横切ろうとしたボクは、横から車に激突されて…。その時、ボクの耳が捉えた音は…。
『あ』
あることを思い出す。
「どうだ?」
百合さんが希望に満ちた目で身を乗り出す。
対してボクは、声の調子を落として言った。
『聴いてません』
百合さんはずるり…と肩を落とした。
「どういうことだよ…、なんで聴いてないんだよ」
『いや、ちょっと聞いてください』
これ以上話がややこしくなってたまるかと、ボクは慌てて弁明した。
『これには明確な理由があります。実はボク、轢かれる前に一度、曲がり角で女性とぶつかっているんですよ』
唐突な話に、百合さんは眉間に皺を寄せた。
「女と? 何の話だ?」
『ええ、銭湯に行こうとして歩いていて、曲がり角を曲がった時に、横からすごい勢いで人が走って来て…、それで、躱せなくてぶつかっちゃったんです』
ここにおいて、女性を「人」と表現したのは、その時点では女性かどうか判断できなかったからだ。何せボクは視線を落としていたために、人が迫って来ていたことにぶつかるまで気づかなかったから。
「へえ…」
百合さんはあまりピンと来ていないように頷いた。
「それで?」
『頭を強く打ったせいで、一瞬意識が飛んで、気が付きました。背後で気配がしたので振り返ると、ボクにぶつかってきたのだろう女性が身体を起こしているところで、彼女はボクの方を振り返らずにそのまま走って行ってしまいました…』
女性だと判断したのは、髪が長かったから。多分背中くらいまであった。あと、腰回りが大きかったからだ。とは言え、全体的に細く、高校生…下手したら中学生みたいな肉付きで、年上が好きなボクの好みではないが。
思い出しただけでも、失礼な奴だったな…とムカつく。
『多分、頭を打ったせいでしょうね…、その後、周りの音が聴こえなくなっちゃって…、いやまあ、全く聞こえないわけじゃないですよ? でも、くぐもって聴こえたんです』
「鼓膜か神経かがイカれたのかな?」
百合さんは首を傾げると、耳から水を抜くかのように、側頭部をトントンと叩いた。
「じゃあ、そのおかげで、車が走ってくる気配にも気づかなかったし、ブレーキ音も聴こえなかった…というわけか」
『多分、そうじゃないかと。すみません曖昧で』
「いやまあ、納得だよ。確かに耳が聴こえなかったら、周りへの注意が散漫になるだろうさ。私の車に気づかなくて飛び出しちまうのも頷ける」
『一層、あの女性の発言が気になりますね。ブレーキ音が聴こえなかったって…』
「年取ったからじゃねえの?」
百合さんは笑うと、冗談交じりに言った。
『あの人まだ若かったでしょうが。怒られますよ?』
「冗談だよ」
百合さんは笑って言うと、公園の外を顎でしゃくった。
「聞き込みをしよう。多くの証言を得れば、きっとその時の情報が見えてくるはずだ」
『はい…』
大丈夫、段々と真実に近づいている気がする。
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