第30話

 ボクははっとし、百合さんの顔を見る。

『どうしたんですか?』

 ぬいぐるみのことを忘れるべく、急かすように聞くと、百合さんは曲がり角を指した。

「こっちきて」

『ええ?』

「いいから」

 そう言うなり、彼女は角を左に曲がった。

 ボクが付いていくと、ボクが住んでいるアパートにも負けないくらい、いやそれ以上のオンボロアパートに辿り着いた。

「ここだよ。ここ。昨日私が待ち伏せしていたところ」

『ああ、確か、一刻荘 B棟ですか』

 ボクは見上げる。

 全体が褪せて黄ばんだ、二階建てのアパートだ。部屋は計六つ。その扉すべての窓ガラスが割れていて、奥にある暗い部屋が丸見え。

『前は別の人が管理していたそうなのですが、住人がいないことと、維持費が無いことで売りに出されていたんです。それをボクの大家さんが買ったそうで…』

 駐輪場の横に看板が立てられていた。そこに書いてあったのは『一刻荘 B棟 改修予定』という文字。

「大家さんって、何歳なの?」

『確か…、二十九歳』

「うげえ…」

 顔を顰める。

『なんですか?』

「うらやましいね。親が金持ちのアバズレは」

『大家さんを悪く言う人は、誰であろうと呪いますよ?』

「金があると、心に余裕があるからな。きっといい奴なんだろう」

 そう言った百合さんは、髪を翻し、この道を歩き始めた。

「そして金がない奴は、どんどん卑屈になっていくと…」

『まるで百合さんだ』

 そうして歩いて行ったボクらが辿り着いたのは、ある交差点だった。

 右には小さな公園があって、左には廃墟と思われる民家。そして、向かい側には、最近建ったばかりの、綺麗な家があった。

「私はこの通りを走っていて…、飛び出してきた葵を撥ねたんだ」

『そうですね。ボクはこの交差点で、車に撥ねられました』

 左右をよく確認した後、道路を横断し、向かい側立つ。

 五メートルほど先に、ボクが倒れていた場所があった。ただし、やはり雨のせいで、血痕はきれいさっぱり洗い流されている。

「そうだな、ここだな」

 百合さんが確信を抱くような声をあげる。

「ここだった…、確か、ここで葵を撥ねたんだ。思い出したよ」

『という、根拠は?』

 血痕が残っていないというのにそう言い切れる百合さんに、ボクはそう問うた。

 百合さんは頷くと、「あそこ」と言って、民家のブロック塀を指す。見るとそこには、ある新興宗教による怪しげな勧誘ポスターが貼ってあった。その宣伝文句とは、「悪者 必ず裁かれる」というもの。

 百合さんは胸を押さえて、顔を顰めた。

「葵の死体を回収している間、あのポスターがずっとちらついていたんだ…。本当に心臓に悪い。何だよ、悪者は必ず裁かれるって…」

『そのままの意味ですよ』

 二人で、そのポスターに歩み寄る。

『撥ねられたボクは、このポスターの前で倒れていた。百合さんの運転する車が走ってきたのは…』

「あっちだな」

 そう言って、交差点の向こうを差す。

『ボクを撥ねた後は、どっちに逃げたのですか?』

「右だ」

『右ですか』

 当時の百合さんの視点からすれば、左か。

「ああ…、その後は言った通り。しばらく走った後、思い直して引き返した…」

『そして、ボクの死体を回収した…』

「うん。わざわざ確認し直すまでもなく、その通りのことをしたな…」

 やっぱり、死体がすり替わる隙なんて無いような気がするな…。

『何か違和感は憶えませんでしたか?』

「よくわからん」

 百合さんは即答した。

「本当に、その時は錯乱していたんだよ。ひたすらに、血塗れの死体を回収するのに必死だった。おかげで、引き返すときに、曲がる道を間違えてな…」

『ん?』

 道を、間違えた?

「だから、死体も何も倒れていない通りに入っちまった」

『え…』

 その発言に、ボクは違和感を覚える。

『というと?』

 そんなことあるのだろうか? と言いたかったのだ。

『って言うのは、どういうことですか?』

「そのままの意味じゃないか」

 百合さんは不服そうに答える。

「ほら、右の道から引き返してくる時に、何を思ったのか私、早くにハンドルを切ってさ…。死体なんて無い通りに入っちまったんだ。もちろん、すぐに元の道に戻って進んで、改めてこの通りに入ったよ? よっぽど錯乱していたんだろうさ」

『…………』

 なんだそれ?

 そう思った、その時だった。

「あのー、何しているんですか?」

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