第20話

 ゴールドではない。居住地は…。

「N県 威武火市 西崎町三‐四‐五八…。バーニーハウス二〇二号室…か」

『ん? バーニーハウス?』

 聞きなじみのある声に、ボクは眉に皺を寄せた。

『バーニーハウスって、ボクが住んでるアパートじゃないですか』

「え、そうなの?」

 百合さんは目を丸くし、持っていた免許証をボクの鼻先に突きつけた。

「おい、見覚えは無いのか? 二〇二号室に住んでるらしいけど」

『しかも、ボクの隣だ…』

「おい、見覚えは無いのか…?」

『うーん…』

 ボクは腕組をして、顔写真を見つめた。

 綺麗な女性だ。目はぱっちりとして、眉は笹の枝のように細い。鼻筋は通っていて、唇も薄かった。写真機の影響もあるだろうが、全体的に白い。鼻の横にある黒子も、一つの愛嬌のように思えた。

『ないですね』

 ただ、見覚えは無かった。

「なんでだよ! お隣さんじゃないのか! ほら、ひじき作り過ぎたからって、おすそ分けとかさあ!」

『そういうのは大家さんの仕事なので』

 ボクは一呼吸おいてから言った。

『いや、マジで見覚えないんですよね。ほとんど帰ってこないって言うか、帰ってきたとしても、深夜なので…、動く気配がないというか…』

 ボクは記憶を辿り、一番最近、お隣から人の気配を感じた時を思い出した。

『三日前の深夜に、ガタガタ…と動く音を聞いたくらいですかね?』

「うーん…」

 百合さんは眉間に皺を寄せて、持っていた免許証を引っ込めた。

「もしかしたら、お前はこんな名前だったかもしれない」

『いや、ボクの名前は葵ですよ。百合葵』

「いや、君の名前は涼音だよ。可楽涼音。涼音。良い名前じゃないか。綺麗な名前だ」

『確かに良い名前ですけど』

「ほーら、段々とそう思えてきた。自分の名前は、可楽涼音だって。そうなんだよ、君の名前は可楽涼音。この死体に入っていた魂が君なんだ…」

『往生際が悪いですよ』

 百合さんの洗脳を退けてから、ボクは改めて、可楽涼音さんの死体を見た。

『死体の名前が分かったところで、どうしてこの人がここにいたのか…、その説明にはなりませんね』

「そうだな。百歩譲ってこの死体が葵じゃないとして、どうしてこんなことになったのか…」

 そこまで話したところで、木々の枝葉がざわざわ…と揺れる音がした。けれど、ボクらの頬を風が撫でる感覚はしない。陽光が雲に隠れたのか、辺りが薄暗くなる。ギャーッ! と、何か獣が叫ぶ声も聴こえた。

 何者かの意思を介すかのように揺れる枝葉。草木の陰で蠢く獣。それは鼻を掠める水と血の臭いも相まって、ボクらに閉じ込められるかのような不安を抱かせた。

 百合さんが、ぶるり…と震える。

「なあ、このまま死体、捨てていかないか? 気味が悪い」

『いやあ、それはちょっと…』

 確かに、ボクも見て見ぬふりをしてこの死体を捨てたかった。けれど、良心…というか、常識が邪魔をする。

『ボクの死体を好き勝手するのは、ボクが許しますが…。流石に、他人の死体を捨てるのは…。しかも、底なし沼に沈めるなんて酷いことを…』

「だよなあ…」

 百合さんもまだ人間の心を忘れていないらしく、頭を掻きながら項垂れた。

「そもそも、こいつを捨てて、事態が解決するのか…って話だよな」

『まあ、そうですよね』

 臭いものに蓋をするようなものだ。

『実際ボクは、百合さんに撥ね殺されているわけですからね。どのタイミングで死体が入れ替わったのかは知りませんが、もしかしたら、ボクの死体はまた別のところを彷徨っているのかもしれないし…』

「いろいろ考えても仕方がないか」

 百合さんはため息をつくと、可楽涼音さんの財布はショルダーバッグにねじ込み、死体は再び毛布で包んだ。そして、毛布が解けないようにしながら、死体を担ぐ。

「とりあえず、車に戻ろう。考えるのはその後だ」

『そうですね』

 ボクらは、木の枝に巻き付けられたリボンを参考にしながら、バンを停めている山道に戻った。

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